【本の紹介】『小林多喜二-21世紀にどう読むか』
著者 ノーマ・フィールド
岩波新書 2009年1月20日発行 780円+税
<<恐慌の「心的な前触れ」>>
先月の2月1日に放映されたNHKのETV特集「しのびよる破局の中で」に出演した辺見庸氏は、昨年2008年6月8日の秋葉原事件を取り上げ、これは三ヵ月後の株の暴落を端緒とする金融恐慌、そして経済恐慌への「心的な前触れ」であった、と指摘している。
この事件は周知のように、25歳の、トヨタ自動車系列大手、関東自動車工業の工場への派遣社員であった男性が、レンタカーとして借りた、赤い帯の入った白色の2tトラックで東京・秋葉原交差点の赤信号を突っ切り、横断中の歩行者を跳ね飛ばし、タクシーと接触して停車して車を降りた後、道路に倒れこむ被害者や救護にかけつけた通行人・警察官を立て続けに、所持していた両刃のダガーナイフでメッタ刺しにし、7人を死亡させ、10人に重軽傷を負わせた事件である。すでに進行しつつあった派遣切りに直面して、「生活に疲れた。世の中が嫌になった。人を殺すために秋葉原に来た。誰でもよかった」などと犯行の動機を供述していることからして、これはすでにその時点で、個人的な特異な事件といったものではなく、こうした青年を救い得ないセーフティネットの欠落した日本の政治・経済・社会が招いた、重大な社会的事件であったと言えよう。
辺見氏は、この事件と関連して、1929年~36年のまさに大恐慌期に活躍した作家・夢野久作の作品「れふきうた(猟奇歌)」から次の二首を取り上げ、
「自分より優れた者が 皆死ねばいゝにと思ひ 鏡を見てゐる」
「白塗りのトラツクが街をヒタ走る 何処までも/\ 真赤になるまで」
秋葉原事件と、そのあまりにも酷似した「心的」状況、今の時代の特有の悪、「忍び寄るかつてない破局」を警告する。
この「猟奇歌」を読むと、さらに
「自分が轢いた無数の人を ウツトリと行く手にゑがく」
「殺すくらゐ 何でもない と思ひつゝ人ごみの中を 濶歩して行く」
「満洲で人を斬つたと 微笑して 肥えふとりたる友の帰り来る」
という歌が見られる。この三首目はまさに、恐慌の解決策を満州に求めた1931年9月18日の満州事変、大日本帝国陸軍・関東軍が自ら鉄道線路を爆破し、満州(現中国東北部)全土の占領に乗り出した時代状況と重なっている。
<<パンデミック>>
辺見庸氏はさらに、現在の危機的状況は「単層」のものではなく、1920年段階とも30年段階とも違った、異質の危機、破局が同時進行するパンデミック(ペスト、インフルエンザのような感染大爆発)だと指摘する。そこでは、人々は一切の権利がない、保障されない、ポイ捨てできる存在としての人間という商品に落とし込められる。しかし、逆に今は、人間の価値を問い直すチャンスでもある、と指摘して、フランスの作家アルベール・カミュの『ペスト』を取り上げる。最初は人々は、ネズミの死体を見てまさかと思う、つまり過小評価する。とんでもない事態が進行しているとは思いたくない。そしてペストが蔓延してしまうと、事態をごまかし、つらさを隠し、これは一時的なものだと考え、ペストでの死者をその日の数だけでしかみなくなって、日常化し、慣れてしまう。カミュの言葉、「絶望に慣れることは、絶望そのものよりもさらに悪いのである。」を引いて、辺見氏は、今のわれわれはこうした「無意識なすさみ」の中にあると指摘する。
1943年のドイツ・ナチス軍の占領中に書かれ、戦争、ファシズムという疫病に対する抵抗を象徴する作品として受けとめられたこの『ペスト』では、「天災というものは、事実、ざらにあることであるが、しかしそいつがこっちの頭上に降りかかってきたときは、容易に天災とは信じられない。この世には、戦争と同じくらいの数のペストがあった。しかも、ペストや戦争がやってきたとき、人々はいつも同じくらい無用意な状態にあった。」と述べられている。
こうした事態の中で、『ペスト』の主人公・リウーは、「ただひざまずいて、すべてを放棄すべきだなどといっている、あの道学者たちに耳を貸してはならぬ。闇の中を、ややめくら滅法に、前進を始め、そして善をなそうと努めることだけをなすべきである。」という立場を堅持し、「聖者に対してよりも敗者に対して連帯感を持つ」と語る。
新潮文庫版の訳者である宮崎嶺雄氏は、「誠実の人リウーを中心に、神を信じるパヌルーから理性を信じるタルーにいたるまで、できるだけ広く人々の立場を糾合して、「人間」のための強力な人民戦線を結成しようとしているように見える。コンミュニスムとキリスト教とのあいだに、より人間的な第三の道を求めようとしているカミュの立場を、これほど遺憾なく表現しえている作品はない。」と解説している。
<<『蟹工船』ブーム>>
さてここで、ノーマ・フィールド著の『小林多喜二 - 21世紀にどう読むか』の紹介である。
著者のノーマ・フィールド氏は、「エピローグ - 多喜二さんへ」の中で、「この原稿に向かったとき、『蟹工船』ブームなどおよそ想像もできませんでした。あなたについてものを書くことが世間によって認められることは喜ぶべきなのでしょう。でも、格差社会に喘ぐ人たちが増えたためのブームである以上、憂うべきだという考え方もあります。・・・今、読者が『蟹工船』を買うだけでなく、実際読んでいるなら、自分たちの現状を、驚きをもって認識する手がかりであることを発見するはずです。そして、そこからあなたの他の作品に手を出し、人々が、団結のために葛藤する姿を見て欲しいのです。それは連帯への欲求に目覚めるために、です。かすかになってしまったこの欲求自体に息を吹き込むために、です。」と述べている。
著者が指摘するように、非正規雇用の増大、ワーキングプア層の拡大、そして経済恐慌の進展と同時にそれに先駆けて無慈悲に推し進められた派遣切り、こうした社会的経済的背景のもとに、昨年は小林多喜二著『蟹工船』が再評価され、書店の目立つ一角を占め、新潮文庫の『蟹工船・党生活者』が50万部以上のベストセラーとなり、流行語大賞の中にもあげられる事態となった。
この『蟹工船』は、全日本無産者芸術団体協議会の機関誌『戦旗』1929年の五月号、六月号に発表されたが、六月号は発売禁止となり、その後戦旗社から三つの単行本として刊行され、二つの版は発売禁止となり、直接配布によって総計3万5千部が売り尽くされたという。当時の状況下では異例のベストセラーであった。しかもこの作品中、十章の献上品の缶詰に「石ころでも入れておけ!」という文章で作者は召還され、1931年に不敬罪で追起訴を受けている。それにもかかわらず、同年八月の『読売新聞』紙上では、この作が1929年上半期の最大傑作として多くの文芸家から推薦されたという(角川文庫版の手塚英孝「作品解説」による)。さらにこの『蟹工船』はいち早く舞台化され、翻訳を通して世界に広がり、1933年までに中国語、ロシア語、英語に訳されたのである。
それが80年後の今日にブームとしてよみがえった。ノーマ・フィールド氏は、「ブームはつくられるものであると同時に起こるものである。意図的な働きかけと幅広い状況の出会いであり、偶然と必然の融合でもある。」と指摘している。まさにそのとおりであろう。氏は、「『私たちはいかに「蟹工船」を読んだか』に集められた2008年のエッセ-コンテストの入賞作に、ネットカフェ部門の23歳の男性の詩」の中程の二行
「足場を組んだ高層ビルは 冬の海と同じで 落ちたら助からない。
でも落ちていなくても もう死んだも同然の僕だ。」
を引用し、「ひとつのイメージで多喜二の作品と現在を見事に結び付けている。」と述べている。
雨宮処凛著『闘争ダイアリー』(集英社、2008年5月10日刊、1470円)でも、著者は「生まれで初めて『蟹工船』を読み、打ちのめされた。それと同時に、『蟹工船』の時代に逆戻りしていることをひしひしと惑じた。共通点はいくつもある。例えば、集団で貧しい人々が蟹工船に乗り、働かされる。出身は、函館の「貧民窟」や東北の農家。「斡旋屋」が絡み、働く人々は蟹工船に乗るまでの汽車代、そして毛布代や布団代などを取られ、蟹工船に乗る時点で既に借金を抱えている。・・・一方、現代のプレカリアートたちはどうか。「斡旋屋」ではなく、人材派遣会社は北海道や東北、沖縄などに多くの事業所を抱えている。どこも若年失業率が高く、最低賃金の安い地域だ。そこで「月収30万可能」などという誇大な求人広告をバラまき、入を集め、まるで人さらいのように群馬あたりのトレーニングセンターに連れていく。そこから全国の工場に「派遣」する。しかし、給料からは寮費や光熱費、そして布団やテレビやこたつやカーテンの「レンタル料」が差し引かれ、手元にはいくらも残らない。」「私たちは蟹工船に乗っている。知らないうちに」と述べている。
これは必然的な出会いであったとも言えよう。しかしこの出会いは、ノーマ・フィールド氏の言うように「人々が、団結のために葛藤する姿を見」、「連帯への欲求に目覚め」、「かすかになってしまったこの欲求自体に息を吹き込むために」、生かされねばならないであろう。
小林多喜二の時代の当時の共産党の社会ファシズム論や社会民主主義主要打撃論は、いまだに現在の共産党によって克服されたとは言い難い状況ではあるが、カミュが指摘するような地道で誠実な闘い、以前とは質的にも異なった幅広さと裾野の広い闘いこそが、今次恐慌の中で問われていると言えよう。
(生駒 敬)
【出典】 アサート No.376 2009年3月21日