大阪の戦後学生運動史 2 (『大阪社会労働運動史 第 5巻』より )
第三節 学生運動
ー、変貌する学生運動
1 大学の「大衆社会化」
「平和と民主主義、よりよき学生生活のために」のスローガンの下に全学連に統一され、戦後社会に強大なインパクトを与え続けてきた学生運動は「六〇年安保闘争」後急速に変貌し、一九六八(昭和四三)年からの爆発的な「学園闘争」と「七〇年安保闘争」をピークに急激に退潮、一九七四年以後は組織的・ 持続的な社会の変革勢力としては事実上消滅する。
その背景には第一に、「高度経済成長」による一九六五年からの急速な学生数の増加、 窮乏からの相対的自由、大学の「大衆社会化」現象がある。 (1)
(l)「大学、短大の学生数はついに一五〇万人を突破し、同一年齢層に占める学生の割合は一九・ 四%に伸びた。文部省が五日まとめた今年度『学校基本調査速報』の示す数字である。 五人に一人という大学生の割合は、 昭和一〇年の旧制中学への進学率一八・ 五を%上回り、いまの大学は戦前の中学なみ、といった実態をはっきり裏付けた。大学教育の『大衆化』が急テンポで進んでいるわけで、 空前の学生数をのみこんだ大学キャンパスは、 パンク寸前の形である 。
大学生急増期に入って三年目の今年学生数は四年制大学 (大学院を含む) 一二七万人、 短大二五万五千人で計一五二万五千人。昨年より一気に一三万人ふえた。 三三年度にくらべると、一〇年間に二倍以上という激増ぶりだ。・・・しかも、 文部省は今後進学率が伸びるのにひきかえ、 同一年代の人口がへっていくので、 五〇年ごろには三人に一人の割合・・・四年制大学の教員 (研究施設の教授などを含む) 一人当たりの学生数は平均一七.七人。 しかし、国立大の八ニ二人にくらべて、 私大は二九二八人と、 その格差はケタ違いに大きい。 わけても私大の割合は年ごとにふえ、マスプロ化に歯止めのきかぬ実態を示している。」(『朝日』68・12・6)。
2 大学自治への攻撃
第二には「高度経済成長」を支える良質の労働力育成と産学協同推進を意図し大学管理の強化を求める産・官の強い圧力と大学自治の蚕食がある。 (2)
(2) 「第一に、 今次の法制化の過程において日本学術会議・国立大学協会・公立大学協会をはじめ諸大学が数次にわたって画一的法制化に反対してきたにもかかわらず、政府の一部にはそれを無視して法制化を推進しようとする意見がある。このような経過自体が大学自治尊重の精神とはあいいれないものである。 第二に、法案の基礎になると伝えられている内容は、 (イ) 学長選考にあたって文部大臣の拒否の権限が予想されること、 (ロ) 大学自治の基本的構成要素である教授会の権限が縮小されようとしていること、(ハ)大学教員の不利益処分を文部大臣一学長の権限で推進する意図がみられること、 (ニ) 学外者をくわえた機関の設置によって大学自治への干渉の可能性が予想されることなど一貫して大学自治の管理運営を権力行政的に統制し大学の自治をおかそうとする方向を示している。」 (大字管理法案に反対する「大阪市立大学八学部、 経済研究所教授会声明」『市大新聞』 63・2・25)
3 全学連、府学連の崩壊
<全学連の解体>
第三は、 これまで一貫して学生運動の主体であった学生自治会が、 六〇年安保後の相次ぐ分裂で(l)全国的な統一性を失い、大学管理強化・マスプロ化との激闘の中で党派闘争に解体して行ったことが上げられる。
戦後、 全学連が結成されて以降の学生運動は、全員加入の学生自治会に一つの層として組織された学生が、全学連の旗の下に統一した課題を統一した方針・行動をもって闘うところに他階層とことなる際立った特徴があった。そしてその行動形態は全学連の提起する統一行動日に、授業放棄・ストライキに圧倒的多数の学生を結集し、街頭デモンストレーションで示威と他階層へのアピールを図ることが基本であった。
しかし、 この一〇年間に学生運動のこのような特徴が急激に失われていったのである。
(1)安保闘争後の一九六一年一二月に開かれた全学連第一八回臨時大会は、「マルクス主義学生同盟(マル学同)」の単独の大会となり、全学連は分裂したのに対し、関西では社会主義学生同盟(社学同)と社会主義青年同盟 (社青同)と構造改革派(共産党系の全国学生自治会連絡会議のうち、 共産党直系とは分岐したもの) の一八大学の四四自治会が大阪・ 京都府学連と兵庫県学連の招請により関西学生自治会連合準備会を発足させた。
一方、 共産党直系の大阪府学連の府立三大学自治会は六一年八月に発足していた 「平和と民主主義全国学生会議」 (平民学連) に参加し、 ここに大阪府学連の分裂が決定的となった (『運動史』第四巻、一三三六頁)。
その後、六四年一二月一〇~三日に平民学連は「全学連再建大会」を開き、社学同・ 社青同・構革派の三派が一二月二一日に「原潜寄港阻止・日韓条約阻止共闘会議」を結成したが、府立の三大学自治会は前者に、 大阪府学連は後者に参加した (同上、 一三三七頁)。
<大阪府学連の分裂>
構造改革派 (構革派) の勢力が強く従来の運動形態を守り、過激な街頭闘争には批判的な大阪府学連の指導に飽き足りない三派全学連系(3)が、一九六八年三月末に「大阪府学連再建準備会」を発足させ、七月一四日に社会主義学生同盟 (社学同)系を中心とする 「府学連」 を結成した。
これより 「府学連」 を名乗る組織は、先に分裂した共産党系、 構造改革派を中心とする従来の組織、そしてこの三派系と三つになり、全大阪の学生を統一する機能は完全に失われた。
(3) 三派全学連=マルクス主義学生同盟中核派、 社学同派、 社会主義青年同盟解放派の三派により六六年一二月に結成、六八年七月に各派に分裂。
<全共闘運動と全闘委の形成>
以上のようにして始まった全学連内の対立により、政治的傾向を異にする複数の 「全学連」 あるいは自治会共闘などが競合することになり、党派的対立は学生自治会の主導権争いを激化させ、全員加入を原則とする自治会からは相対的に独立した全共闘、全闘委が運動のヘゲモニーを握るようになる。
全共闘一全学共闘会議ーは、 各学部自治会の他に多様な学内組織一寮自治会、 大学院生、クラス・ サークル、時には助講会や職員組合一の代表が加わる共闘会議を基本形態とし、 一応選出機関を母体とするが、 闘争の過程で闘争を主体的に担うものの結合体へと次第に変質する。全闘委一全学闘争委員会一は選出機関を母体とする全共闘ほど組織的でなく、 党派的・実行委員会的な自主「組織」の色彩が濃い。
これらの共闘組織では、 『連帯を求めて孤立を恐れず』 に闘争に参加する一人一人の 「主体性」が重んじられた。
4 行動の過激化と党派支配
<激化する戦術と党派的対立>
学生が取り組む課題は全国的政治課題と平行し、根底に於て共通するものの、個別の大学に個別の問題として立ち現れる学園内の課題が次第に比重を増していく 。全学連が提起する数次の統一行動日に一斉にストライキで立ち上がるというこれまでの行動形態から、 個別大学で長期あるいは無期限のストライキに突入することが多くなり、 学内にあってはバリケードによる校舎の封鎖と龍城、街頭にあってはヘルメット、ゲバ棒(棍棒)、時に火炎瓶などで「武装」したより過激な行動に傾斜していく 。
また、 個別にあらわれる学園内の課題の根底にある共通性と党派的結合から、大学の枠を越えた相互浸透が見られ、それが時に「外人部隊」と呼ばれる他大学生の「侵入」と言う現象を生み、従来の大学自治の概念との深刻な衝突を引き起こした。
党派的対立は、 一部ではあるが 「内ゲバ」 (対立する党派への暴力的攻撃) に走るものを生み出し、多くの死傷者が生ずる陰惨な状況に至る。
<大阪の学生運動の特徴>
とは言え大阪の運動では、この様な全国的傾向の中で、政治的課題における闘争で、一定の統一的行動が追求されていること、自治会が一応機能していたことも事実である。 それは、 府立系三大学自治会等が共産党系「全学連」に分離していった後も、 六八年まで大阪府学生自治会連合(府学連) が曲がりなりに統一機関として存続したこと。学生運動の大阪に於ける主力大学である大阪市立大学 (市大)、大阪大学 (阪大) 等で自治会が活動力を保持していたことなどによる。
他方この時代には、高校生が学生運動の一半を担うという際立った特徴があり、その課題・行動形態も大学生と共通する所が多い。
二、火の手をあげた学園闘争(一九六五–六七年)
1 「経済間題」と自治の侵害
<大学運営経費間題>
一九六三 (昭和三八) 年六月、 中央教育審議会が発表した大学管理制度改革法案は、 反対が強く流産したが、 これを契機にして実質的な大学の管理・統制強化が進み紛争の火種がどの大学でもくすぶりだした。一九六五年五月一八日、市大で「暖房費」問題をめぐって学生自治会 (自治会) と学長の団交が行われた。前年度の新入生から暖房費の一部負担を求めたことに端を発して紛糾が続くこの間題は、一見極く些細に見えるが学生はそうは捉えなかった。 『市大新聞』( 65・5・10)は、この様な状況を大学への予算の相対的低下と批判し大学予算の不足を補うために受益者負担(暖房費・寮、生協の水光費、家政学部・医学部の実験実習費)と個別資本の大学への投資(後援会、理工学部における産学協同)が顕著に表れてきた。 そこには学生の生活を圧迫し、貧困学生の大学入学の締め出しという問題とともに、大学の自治の侵害、 資本の大学支配という大きな危険性をはらんでいると分析している。
六四年二月一八日付文部省通達「学寮における経営の負担区分について」 や同年夏国立大学に示した「〇〇大学学寮管理運営規則参考案」で学生寮の受益者負担「原則」の導入と寮自治の規制がその背景の一つである。
これを大学予算を意図的に抑制し、受益者負担、教官・学生の自治の統制、財界の運営介入を容易にしようとする「大学貧困化政策」と学生は捉える。
<各大学の紛争の拡大>
国立の大阪外語大学 (外大)では廃止予定の短期大学自治会が新設される二部への編入を求めて試験ボイコット(65・1・ 8)。
市大医学部新館食堂の生協経営を要求する座り込み(65・l2・19) 一生協進出拒否の教授会決定自治会との団交で撤回(66・2・31)。 市外者入学金値上げ撤回の座り込み一事実上の撤回(66・12・13)。 阪大宮山寮のガス水道料金不払い闘争(65・7から)。 市大医学部で米軍研究援助資金問題追及、渡瀬学長が契約を破棄するよう説得を約束。「各学部教室の研究の自由を尊重しながらも、軍事協力と見られるような研究については、大学全体の問題として、協議会で話し合い、疑惑を招くようなことは一切避けたい」一渡瀬談話(『朝日』67・5・24)。
六六年五月六日、大阪学芸大学 (学大) で、学長の突然の辞任を契機に 「理科系と文科系の教授の教室閥、 さらにその根底には文部省の大学運営に対する干渉などの問題があり、大学の自治を妨げているのが原因だ」と「学園民主化決起集会」が開かれ(『朝日』.66・5・7)、同大の校名を「大阪教育大学」に変更して、完全に教員養成機関に改めようとする文部省の意図とも激しく衝突する。 教授会の校名変更決定(66・11) 一授業放棄・教授会阻止一自治会役員の停学処分と抗議のハンスト (67・2・25)。
2 私学の民主化、マスプロ教育改善要求
学生数の急激な増大と私学の前近代的体質がマスプロ教育反対、 民主化要求となって一般的には学生運動から遠かった私学の学生を立ち上がらせた。
<近大>
六五年四月、近畿大学(近大)の世耕弘一総長の死亡の後を同氏の長男政隆が襲ったことから、自治会が「総長公選制」「教授会の確立」「事務当局の体質改善」「学部長の教授会互選」等を要求し圧倒的多数の学生と教官の支持を得るが、五月二四日には体育会系の学生の妨害を受けて負傷者も出ている(『毎日』,65・5・24夕刊)。
運動は、五〇〇〇人デモ(6・17)–授業放棄(6・24)–大学側の教室封鎖–教・学共闘の青空教室へと発展し夏休みを越えて九月まで続く 。
<商大>
六月二八日、大阪商業大学(商大)でも自治会が「学長公選」「推薦入学反対」「図書館・ 教授研究室建設」「生協設立」の要求を掲げて立ち上がり、三〇日から授業放棄に入った。 商大では六四年一二月に新年度入学生からの学費値上げ提案に、自治会が 「図書館、教授研究室、寮」建設を条件に同意したが、 約束が反故にされているという経緯がある。紛争は翌年まで続き六六年六月一〇日から無期限ストに突入し、ようやく同月二〇日、図書館・ 教授研究室建設着工、寮の早期建設の約束で解決した。
<関大など>
他方、関西大学(関大)の経済・ 工学部自治会が、登録学生が教室の収容能力より五百人も多い等のマイク授業・マスプロ講義反対運動に取り組み、六五年六月一八日には、関大・ 近大の学生がバス数十台を連ねて大手前公園に集まり、合同集会とデモを行った。
大阪工業大学 (工大) では、 値上げされた学費の使途を追及する授業放棄–処分–抗議のハンスト( 65・7・1)。 梅花女子大で授業料値上げ反対の授業放棄(65・l2・10)。 浪速芸術大学の学園正常化実行委員会が学生急増に追いつかぬ設備・授業内容の改善を求めて六六年二月七日からの期末試験と、四月の再試験をボイコット。
3 インターン反対から青医連闘争へ
<根底にあった「 医局」支配>
医師免許を持ちながらインターン制度により無給で大学医局で働かされることを不満とする医学生・医卒者の不満鬱積は、一九六四年二月、医師試験審議会が厚生省に「大学の医学過程を卒業した直後に医師国家試験を行い、合格者に免許を与える 。 但し独立して開業するものはさらに一年間、 教育病院で実地訓練を受けることを義務づける」と答申したことでついに爆発。全国四六の医学部・ 医大卒業生が「全国医学部卒業者連合」(医卒連)を結成し、六五年のインターン出願を一斉にボイコット。六五年五月一三日には「全国医学生連合」(医学連)が、医師法改正に反対して授業放棄・デモで立ち上がった。
<私立医大も闘争参加>
大阪では阪大・ 市大・大阪医科大学(大医大)・関西医科大学(関西医大)等が参加。 これ以後医学生・医卒者の闘争が激しく展開される。 六六年四月一〇 日、 インターン終了後の医局無給医が青年医師連合入局者会議結成(青医連)。六月二四日、「全国無給医局員対策委員会」の下、国公立付属病院で無給医の統一闘争–スト・ 集会。 同年二月二九日から三日間の全国統一スト(阪大・市大等) を経て、六七年三月一二日から始まった医師国家試験は医学連、青医連のボイコット呼びかけにより、受験者は有資格者の八分の一、出願者の四割。 各地の試験場でピケ・デモ・シュプレヒコール、警官隊との衝突。
<学園闘争の導火線>
同年七月、 医師法改正–インターンに替わる登録医師制–に反対し、七日から関西医大が無期限スト、大阪医大も八日から無期限の授業放棄に突入を決議。 ー二月五日から阪大等が「全国無給医局員対策委員会」の第四次統一行動として「無給医の有給化、登録医師制度反対」で一週間の診療拒否に突入。
六七年九月の医師国家試験には、 前回の拒否組も大方受験し、外見的には一旦鎮静したかに見えたが、無給医、医学生の闘いは断続することなく、次第に国家制度の問題から学内の管理運営の問題に焦点が移り、 学園闘争を爆発させる導火線となる。
「厚生省や大学当局の間には、インターン全廃が軌道に乗る来春になれば、国家試験ボイコット闘争は緩和されよう、と言う楽観的な見方もあるが、—-インターン全廃を皮切りに、 医局員の有給化や、大学卒業後の実地研修や医学研究全般について改善を要求するというのが青医連の方針であり、これには、教授を中心とする医局が、 医局員の研究テーマからアルバイトなどの生活面まで、すべてを握っている現医局講座制を崩壊させ、自主的な研究を望む意図も含まれている」 (『朝日』 67・3・l3)。
六七年八月には国家試験拒否のあおりを受けて医師不足により町立四条畷病院が閉鎖に追い込まれている。
4 激しくなる街頭闘争
<激化した反戦闘争>
一九六五年~六七年末までの間に、 政治的課題–ベトナム反戦、日韓条約反対、七〇年安保佐藤訪米阻止、 沖縄全面返還要求–等がストライキと街頭闘争で闘われた。
また経済的要求としては異例の激しい行動で、社会主義学生同盟(社学同)系学生が国鉄運賃値上げ反対闘争を大阪駅で六五年一二月一五日~六六年二月二三日まで七波繰り広げ、累計三八名の逮捕者を出した。
<六五年の行動>
社学同系の北爆反対・米軍即時撤退要求のアメリカ領事館前座り込み( 65・4・16、 4・28–二名逮捕)。 京都・大阪・兵庫三府県学連主催のベトナム侵略、佐藤内閣戦争加担反対」の総決起集会一六五〇〇人、負傷者一〇〇人(いずれも学生側発表) 逮捕三人(6・4京都)。ベトナム侵略反対国民行動日の大阪集会 逮捕一名(6・9)。
日韓条約調印日の抗議闘争 逮捕二名(6・22)。府学連主催「日韓条約調印反対、ベトナム戦争抗議」デモ、六〇〇人、検挙二名(6・24)。「日韓条約阻止・ベトナム侵略戦争反対大阪府民総決起大会」(10・12)、日韓条約批准阻止・ベトナム戦争反対大阪実行委員会主催の御堂筋デモ(ll・5)–いずれも学生参加数不明。 日韓条約粉砕第一次統一行動一府民集会 学生五〇〇人 重傷二、軽傷七人(学生側発表)逮捕三人、共産党系独自集会・提灯デモ (11・9)。第二次統一行動一府民大会 学生参加数不明、市大全学スト、共産党系も独自集会(11・13)。 第三次統一行動一府民集会 学生参加数不明、共産党系独自集会。
<六六年の行動>
六六年、大阪学生戦線主催「小選挙区制答申・ 原子力潜水艦寄港反対関西学生統一行動」(大阪) に関西規模で六〇〇人、負傷十数人、逮捕一名(5・27)。「ベトナム戦争反対、小選挙区制粉砕」で集会・デモ (6・24)。 「ハノイ・ ハイフォン爆撃抗議」集会(7・2)。
七月六日、社共、京都地評共催「日米経済委反対・ラスク入洛抗議京都決起大会」に京都・大阪の学生約千人参加、 機動隊と深夜まで衝突、逮捕七名、負傷者多数。
<「ジュツパチ」ショック>
六七年一〇月八日、 佐藤首相の東南アジア訪問を阻止しようとした学生が羽田空港付近で機動隊と激しく衝突し、京大生・ 山崎博昭が死亡、全国民とりわけ学生に大きなショックを与えた。後にこれが「10・8 (ジュッパチ)ショック」 と呼ばれるようになる。 事件の翌日九日には大阪駅等でゲリラ的な抗議のデモが行われ、ニ一日には同君の出身校である大手前高校の在学生・ 卒業生による追悼集会が開かれ、一七〇人が参加した。なお、羽田闘争には、大阪府警調べで大阪から約七〇人の学生が参加した模様。
<六七年のその他の行動>
一〇月二一日のベトナム反戦国際行動デーには、大阪市大教養部がスト入り。扇町の統一集会に、学生が約五〇〇人以上参加、機動隊との衝突により数人の怪我人を出し、一名が逮捕された。
二月一〇日、佐藤首相訪米反対で市大教養部が全日スト。 同夜中之島の京都・大阪・兵庫三府県学連主催の 「佐藤訪米阻止全関西学生集会」には、関西規模で八〇〇人が参加。 共産党系も独自集会。
以上の様に、 政治課題を掲げた街頭闘争は激しい行動形態で度々警官隊と衝突し、多数の負傷者・逮捕者を出しているが、参加者数を記したものもしくは不明としたもの以外は案外参加者が少なく、五〇〇人を越えない程度である。
なお、 六七年四月、 清水谷高校、 市岡高校の組合活動家の教員の強制異動に抗議して清水谷では三五〇人が集会、異動反対のバッチを着ける運動を、市岡では七〇〇人が討論会を開き、校長を追及した。大学の学園闘争に追随して爆発した高校の学園闘争の胎動も既にこの時期から始まっている。
三、 爆発する学園闘争 (一九六八~七〇年)
1 学園闘争の拡大と激化
<知性の管理に対する反乱>
一九六八(昭和四三)~七〇年に学園の管理社会化に対する学園闘争が爆発する。
学園闘争は、大学においては「知性」に対する外部からの蚕食・ 統制=〔産軍学共同、官僚的統制、 自治侵害〕、権威的支配=〔医局・講座制、教授会自治のヒエラルキーによる縦型支配〕、営利産業化=〔マスプロ教育、理事会支配〕への学生・ 若手研究者の抵抗・ 異議申立であり、高校においては学校の進学予備校化・産業予備校化と取り締まり的指導に対する生徒の反発であった。
それ故実際に紛争校になるならぬを問わず全ての大学・高校に矛盾・対立が集積し、教育・研究体制全般がそのあり方を根底から問われたのである。しかし、全学連の崩壊という決定的なマイナス要因に規定された闘争は個別大学・高校で「終わりなき闘い」として展開され、泥沼に陥って終には強権的に終息させられた。
<東大から全国へ>
闘争は、処分問題を発端とする東大医学部自治会のストライキ突入 (六八年一月)、 使途不明金をきっかけとする日大の理事会全一支配追及、日大全共闘結成(5・27)、東大全共闘結成(6・15) で一気に全国化。紛争大学は六九年五月で六五校 (朝日新聞調べ二九日現在) であったが、八月には二〇校 (朝日新聞調べ三日現在) の多数に上った。
高校紛争も六九年一〇月、「封鎖・スト等が四九校、集会・デモを含めると数知れず、特に東京とその近県、近畿、関西地区が圧倒的に多い。」 (朝日新聞調べ二七日現在) 状況を呈した。
<強権による鎮圧>
これに対して、文部省は六九年四月二一日、 次官通達を発して警官導入による秩序維持を求め、同年五月には閣議が「大学の運営に関する臨時措置法(案)」(大学立法)を決定。八月三日に参議院本会議強行採決で同法が成立。さしもの大学学園闘争も国家の強権により、六九年中に鎮圧された (高校紛争も七一年初めまでに、府県教育委員会通達と機動隊導入により同様に鎮圧された)。
闘争が激甚、深刻であったため死傷者、被逮捕・投獄者、被処分者、学業断念者等の犠牲者も膨大な数に上った。 (1)
(1) 「大学紛争を苦に自殺 市大生」 (『朝日』 69・ 5・26) 「紛争騒ぎを苦に自殺? 市大病院長事務取扱婦人」(『朝日』69・7・24)。「原因はひどいやけど 京大紛争で死んだ関大生」(『朝日』, 69・10・2夕)。「紛争苦に切腹自殺 寺田教授」「工学部助手が感電死 封鎖解除の部屋修理中」(『朝日』 69・10・15)。 市大工学部院生自殺 (『朝日』 72・11・9)。
「内ゲバで学生二人死ぬ 学費紛争の関西大」(『朝日』 71・12・4)。 「内ゲバで学生死ぬ 革マル系 大阪の沖縄デー」(『朝日』,72・4・29)。 〔「革マル系」とはマルクス主義学生同盟革マル派〕
<封鎖、大衆団交など>
行動の形態としては、集会、学内デモ、スト、バリケード封鎖、大衆団交などがある。
この期間中、 紛争校で長期にわたって授業が停止した。 授業の停止は自治会の多数決決議による無期限ストライキによるものの他、クラス決議や個別の集会(必ずしも全員参加を前提としない) 決議によるストライキ、バリケード封鎖による強制、 封鎖解除後の学内立ち入り禁止などによるものもあり、 後期になるほどその傾向が頭著になる。
バリケード封鎖には、活動の拠点を維持し、当局や体育会系などの反対派の攻撃に備えるという防衛的性格と 、「先進的な」 活動家が問題提起を抜き差しならぬ形で一般学生や大学に突きつけ、対応・選択を迫る性格との二面がある。この対応・選択を迫るという性格は全学連の分裂を引き出した第一〇回大会の「われわれが強力な (闘争)形態をとればとる程、対決する勢力との矛盾は鋭くなるが、われわれの周りに結集する勢力も大きくなる」 (『資料・ 戦後学生運動』一九七頁) とする急進的思想の具体的表れである 。
バリケードは必ず、これに拠る闘争派とバリケード反対派、大学側の三つ巴の紛糾を生み出し、しばしば物理的衝突を引き起こしている。そして、大方は機動隊導入により強制的に撤去されている。
大衆団交は、全員参加・自主管理の理想的系譜を引き、教授会自治に対抗する強力的手段として働いたが、被選出機関への意志の集約・統一を欠くため合意形成から決着への道筋をしばしば見失うことにもなる。
2 私学の闘争
<関学(関西学院大学) >
一九六七年二月一五日、 翌年四月からの学費値上げに反対する 「学費値上げ阻止全学共闘会議」 決起集会が開かれ、 その決議によって一六日から法学部、 一九日から社会、 商学、 文学部が無期限ストに入りそれぞれの学部校舎をバリケード(この段階ではまだ立看板程度)で封鎖した。(経済学部自治会の執行部は代々木系一共産党系の一般的呼称一が多数を占めるためスト回避)。要求は授業料値上げ撤回と大学改革の六項目であった。
無期限ストがーヵ月近くになり、後期試験が目前に迫る六八年一月中頃から収拾派が動きはじめる。 一月一七日文学部自治会が代々木系の影響下でバリケード撤去決議を行って継続派と乱闘。他方、 最も強硬な社会学部自治会はバリケード継続を決議するが、 体育会系学生と大学当局の連合軍により一旦は撤去。 学部長が自治会解散命令で追い打ち。 (1・22)翌日再封鎖。 商、文、法がスト中止(バリケード撤去)する中で社会学部は試験ボイコットに突入。三月二八日大阪近隣では初めての警官隊導入によりバリケードストが解体される。
しかし、 二年続きの授業料f直上げで、 六八年一二月には再び社会、 法学部がストライキ突入。経済学部は内部対立で決議に至らず。 商学部は体育会系優勢でスト提案を一旦否決するが、 商学部闘争委員会がストライキ投票を成功させスト突入。
他方、 大学側は全学集会等を行って自主解決を模索するが、 結局機動隊の手によってバリケードストを鎮圧した (69・6・13)。
<関大>
二年前に新設された社会学部で、同学部付属研究組織である社会学会の経理・規約・ 学生参加をめぐってスト権投票開始、 六九年一月二一日バリケードストに突入。他方、代々木系の民主化委員会は、ストライキ投票が民主的でないと抗議。 闘争の初めから党派対立が表面化した。 しかし、社会学部自治会はこの代々木系の批判を受け止めて、 同月二二日の学生大会であらためて投票を行いスト権を再確立した。 ここでも体育会系は闘争に敵対し、最初からバリケード解除の先兵となる。 教授会の大幅な歩み寄りにより、一月二九日に一旦解決し、スト中止・ バリケード解除。
しかしその後学長選挙等の大学民主化をめぐって紛争が再発。 同年六月二〇日封鎖、 ニ一日自主解除、 ニ二日再封鎖と日まぐるしく変転。 七月五日機動隊導入。機動隊導入と大学改革学長案を巡って学長支持派の工学部と法・文・商・経の教授会が対立。
全学生対象のアンケート調査では回答者 (四割) の約七三%が学長案を支持するが、 九月学長辞任、 同月工学部の″独立″宣言で内紛。 九月二二日郵送による学長選挙開始。 九月二三日機動隊導入で事実上鎮静。 -〇月二日授業再開。
機動隊に爆弾投郷 (69・10・7)、 セクトの陰惨な内ゲバ殺人 (前述 71 ・ l2 ・ 4) 事件等も発生。
但し、 爆弾や殺人事件は、関大学園闘争の必然として起こったものではなく、殺人事件の被害者も加害者も学外のいわゆる 「外人部隊」であって、 これらの責めは、事件を引き起こした特定セクトに帰着する。
<大医大>
六九年一月二三日、 小児科教授に学外者を選出する動きに対して小児科医局が反対声明。 四回生クラススト決議。 同日午後の全学集会で講師、助手、副手、院生、学生の五者による全学協議会を組織 (後に助教授も参加し六者協となる) し、 小児科教授人事問題、 学長退任、 大学運営への学生等の参加等の一〇項日を「公開質問状」の形で要求。学長回答を不満として一月二七日、四回生クラス会二四時間スト。一月二八日、 教授会が六者協議会に教授会を加えた臨時大学問題懇談会設置を提案。一月三一日、小児科後任教授予定者が辞退。同日副手、院生診療拒否無期限ストに突入。 二月三日学長辞任。
二月四日、 学生も無期限ストに突入。 二月二日、 学生大会で①大学決定に対する学生の再審査(留保権) ②教授会内容公開 ③医学教育制度の矛盾是正等を決議し街頭デモ。 その後教授会が学生の留保権に譲歩を示すが、学生大会は不十分と拒否し、青医連の公認も合わせて要求。四月一日教授・ 助教授による大教授会設置(副手、院生オブザーバー)、 副手の地位確立等大幅な改革案を教授会が提示。 四月三日の副手のスト解除を最後として紛争が終結した。
<近大>
六八年秋、当局に批判的な法学部の助教授・教授五人が辞意表明、学生が法学部クラス総連合を結成し、一一月末教授会と①助教授、講師の教授会参加 ②学生・教官各四人の委員会設置③論文瓢窃問題の前学部長講義取消 ④学部長辞任勧告等で合意したが、当局がこの教授会決定及びクラス総連合を否認。他方、学生側でも体育会系が「愛校民主主義学生同盟」を括成し、対立が激化。 六八年一二月三日、 商経学会学生部会の学生大会で、 役員選挙をめぐって六〇〇人が乱闘。 四日、法学部クラス総連合、 商経学部第二自治会等が全学集会を開き、 他大学生を含む体育会系が仕掛けたものと大学に処分と大衆団交を要求、一部が別館封鎖(翌日大学側が解除)。十二月六日、法学部クラス総連合が授業阻止の五〇〇人座り込みで「総連合承認」「学長公選」を要求。 当局団交拒否。
六九年五月一六日、法学部クラス総連合系が法学部長室を封鎖、 ニ一日説得で解1除。
<その他の私学>
商大では、 六八年一月一三日授業料値上げ反対、施設改善要求を掲げ学外デモを計画したが、大学側がこれを中止させ、委員長ら九人を無期停学処分にした (二人は解除)。 これに対し、 二月一二日一人がハンスト入り 。学年末試験最終日の二月二〇日に、自治会が試験をボイコット。工大では、六八年六月二七日、自治会生活対策部の購買部を生協にするよう要求して、 四八時間ストに突入。六九年五月八日、不正入試問題、前理事長夫人への公金功労金問題(公金一三千五百万円相当譲渡) 等六項日要求で、 一時理事長室占拠。その後全闘委が理事長室、学長室を封鎖。 二月六日、学生大会で機動隊導入反対、 六項日要求貫徹の無期限ストを決議。 同日、遊説中の社会党成田委員長に 「藤田進理事長は、社党の参院議員であるのに学生、教員の要求に対してなっとくできるだけの答えをせず、 機動隊導入と職員解雇を考えている」と要請文を手渡した(『朝日』, 69・11・7)。 機動隊導入に反対して三教員もハンスト。その後さらに封鎖を拡大。一二月四日には封鎖解除要求の二部学生大会に全闘委が乱入。 ー二月二八日、機動隊導入で封鎖解除(これで全国の大学で全学がバリケード封鎖されているところはなくなった。(『朝日』 69・12・28)。
電気通信大学で、 六九年七月三日応援団処分問題・大衆団交要求の無期限スト。ー二月二三日、学長公選・経理公開・学生会館建設等六項日確認の尊重と処分を出さない等の条件を付けてスト解除。 浪速短期大学一六八年一二月五日学則改正、 民主化要求。 六九年二月七日封鎖、翌日職員が解除。 桃山学院大学–団交決裂で六九年一一月一五日全学封鎖。大阪経済大学(経大)七〇年六月二七日自治会不承認で無期限スト。大阪産業大学一ワンマン経営、経理公開、大学身売り問題で七〇年六月二三日から九月一七日までスト、 理事長一族退陣。 大阪薬科大学–学生部長不信任等で七〇年一〇月一二日より試験ボイコツト一臨時休校一一〇月二四日学生部長辞任で休校解除。
3 国公立大学の闘争
<市大自治と市議会>
一九六七年一二月一日に 「大阪市立大学が左翼偏向しているとして教授らの思想調査をし、偏向が是正されなければ、同大学の来年度予算を認めないとの強硬方針を打ち出した」(『朝日』,67・12・12)大阪市議会自民党議員団は七日、「文教研究委員会」を発足させた。自民党本部の学生問題懇談会や教育正常化委員会等もこれを受けて 「大阪問題懇談会」 を発足させるが、自治会や教職員組合の抗議、渡瀬学長の断固とした声明(l)と世論の批判に遇って、大学へ乗り込んでの調査等は沙汰止みになった。
(1) 学長声明 「干渉には全学をあげ断固 (自由・自治の) 三原則を守る。—-教職員ならびに学生諸君の冷静な判断と良識ある行動を望む。」(『朝日』 67・12・12夕)。 自治省行政局長談「議員団の活動は・・ 個々の議員の集団の動きに過ぎないから調査権はない。—市会で議決されても、大学については管理運営面の調査しかできず、教授たちの思想や教育内容に立ち入れないはず」(『朝日』67・12・28)。
<市大医学部>
一九六八年一〇月、 授業中の教授と助教授の意見対立が発端となって教授会への不信が表面化した医学部で、一一月二九日学部運営に諸自治機関 (学生自治会、青医連、大学院自治会一この三者で医学部民主化共闘会議結成) の参加と拒否権を制度化する確認書が学生との団交で交わされた。
しかし、 先の「偏向問題」で世論の前に後退した自民党が「拒否権を学生に与えるのは条例違反」と市議会で追及。教授会は確認書の拒否権から異議申立権を骨格とする改革案に後退、他方学生側は、拒否権を骨格とする六項日を提案 (69・1)。 これが紛争の火種となった。
教授会の話し合い拒否。これに抗議する学生のスト二月二五日から六回生、ニ八日から全学年、二月六日から院生・青医連の診療拒否、無期限スト)。
二月一二日、大学協議会(全学の最高決定機関)も学生の拒否権・対等参加を否定。 以降、医学部運営民主化は全学部運営の問題となり、二月一四日全学共闘会議(全共闘)のバリケードストによる教養部試験延期から封鎖が次第に拡大していった (二月二三日、紛争の発端となった医学部教授が辞職) 。
四月八日学長が、学生等との事前合議、異議申立権を含む 「大学改革について」の見解を表明したが、拒否権を要求する学生側の封鎖により新学期の授業は全面的にストップ。
以後、 一般学生の紛争解決を求める集会、教授会公開、 医学部教員会の当直拒否、などの曲折をたどりつつ八月三日の「大学法」 (後述)成立を経て、八月一四日、医学部教授会が大学法を背に「学部の存立があやうくなる」と強硬警告。
九月二二日、「赤軍派」(社学同赤軍派)の武装闘争「捜索」を名目とする機動隊が医学部バリケードに強行突入して一旦は封鎖を解除したが、 一七日、医学部共闘会議が再封鎖。 同月二六日大阪市議会で市長の責任を追及する緊急質問等で追い詰められた大学当局が、機動隊導入を決意。九月三〇日医学部、一〇月四日には大学本部などのある杉本町校舎に機動隊が導入され、封鎖を全面解除、一〇月二〇 日、半年ぶりに授業が再開された。
<阪大>
一九六七年一二月以来、 阪大生協の学外 (団地) 販売を巡る生協理事会と生協労組間の紛糾に絡み、 六八年五月、 労組を支持する反戦会議系学生による暴力事件が発生。
同月二七日、 無届集会による 「授業妨害」。大阪国際空港反戦デモを翌日に控えた六月二五日、勢力拡大を狙う中核派(革命的共産主義者同盟中核派)系の「外人部隊」(京都の学生)が阪大豊中の教養部になだれ込み、 阪大内の中核派と共に大講義室を占拠。
七月六日、 この三事件で大学が中核派系の三学生を処分。 同月の教養部自治会選挙では民学同(民主主義学生同盟) 系が執行部を握ったが、一〇月中核派系が独自に執行部をつくり、 これ以後中核派絡みの紛争が発生。
一二月五日、 処分撤回を要求する中核派が学生部を占拠。 以後中核系の全闘委 (全学闘争委員会) が大衆団交を要求して封鎖を拡大。
他方、六五年以来、医師制度改革の闘いを続けている医学部自治会、無給医員会、青医連が「統一要求実現共闘会議」を結成して、中核派とは別に医学部の改革闘争を展開。六九年三月、教授会公開、教授選考作業の中止等で前向き回答。
六九年一月一三日、 本館を職員の手で逆封鎖。 二〇日、総長出席の全学集会。 四月六日処分解除を発表(全闘委は白紙撤回要求)。 五月二四日、基礎工学部に機動隊導入。 駐留。 教職員・ 学生の導入抗議デモ、医学部教官会「機動隊駐留反対」声明。工学部自治会、医学部無給研究者、抗議の一週間スト。
九月一八日「産学共同」の寄付計画露顕。一一月一六日機動隊導入、封鎖全面解除。二四日、授業再開。ー二月六日~二〇 日、 団交要求で教養部自治会スト。
<大教大>
大阪教育大学は天王寺(本部)、池田、平野の三分校で構成され、主事の選出方法が民主化問題として常に紛争の種になっている (『大阪社会労働運動史』 第四巻一三二五頁参照) 。
一九六八年二月、各分校主事を従来の学長による任命制から教職員の選挙に改めたが、一九六九年一月一六日の選挙当日、構造改革系フロント派 (統一社会主義同盟系社会主義学生戦線) の学生が学生参加を要求して天王寺分校を封鎖し、選挙がストップ。 同日午後、学生と学長の話し合いが実現するまで選挙を延期することを大学側が約束して封鎖を自主解除した。しかし、学生と話し合う予定の前日・同月二八日、学長が突然辞任。
二九日、全学集会で学長代行が陳謝したものの、民主化の焦点である主事選挙については話し合いが着かず、天王寺分校自治会が三〇日から無期限ストライキに突入してバリケードで本部を封鎖した。同日学長代行が過労で倒れて、学長代行代理にバトンタッチ。 二〇日、機動隊を導入しないと約束するが、ニ二日には代行代理もダウン。この年度内だけで大学責任者が六回も交代するという無責任体制と代々木系自治会執行部と全教科共闘連絡会議との確執が紛争をこじらせた。
二月二六日、天王寺分校再封鎖。団交拒否、封鎖実力解除(四月一日)、「教官つるしあげ」事件(四月二日)とエスカレート。
五月六日、天王寺分校スト解除。同月一九日池田分校封鎖、五月三〇日、「改革長期計画案」発表。
七月九日、池田分校に機動隊導入・封鎖解除。一〇月六日、紛争六代目の学長代行の話し合い路線を教授会が否決。
一〇月二五日、機動隊導入により全学封鎖解除。一〇月二七日から授業再開。
<外大(大阪外語大学)>
一九六九年一月二〇日、反代々木系学生が本館を封鎖、「外人部隊」がこれを支援。 「東大共闘会議の提起した問題を、全国に波及させなければならない」と呼びかけ。 (『朝日新聞』, 69・1・21)、翌日教職員・学生が封鎖解除(後再封鎖)。
この時期どの大学でも、 代々木系と反代々木系の学生間の確執が見られ、一般に代々木系が穏健・収拾路線もしくはバリケード反対・封鎖実力解除路線をとって反代々木系と対立し、 時には「武力」衝突も発生している。
外大では代々木系の力が強く攻撃的で、大学改革、学長選参加を巡る闘争で全闘委としばしば衝突し、重傷者も出た。五月二〇日、両派乱闘。全闘委校門にバリケード。翌日一部解除。
六月四日、研究室封鎖。六月六日、両派乱闘。七月一日また衝突。重傷二人を含め二六名けが。二日、機動隊導入、封鎖解除。 (再封鎖)二〇月二日、機動隊導入、封鎖全面解除。 一三日から授業再開。
四、 高校の闘争
1 六八年秋から始まった高校紛争
一九六八年秋から七一年春までの間に、なんらかの紛争で朝日新聞紙上に校名が出た高校は次の三六校である 。
大教大池田(国立)、市岡、阪南、茨木、茨木工、東淀川、高津、池田、豊中、島上、清水谷、春日丘、旭、泉尾、淀工、住吉、桜塚、生野、富田林、大手前、河南、北野、夕陽丘、八尾、布施、枚方、泉陽(以上府立)、汎愛、此花工、淀商(以上市立)、尼崎、尼崎北、尼崎西(以上兵庫県立)、尼崎城内(尼崎市立)、桃山、浪商(以上私立)。
この内、 占拠・ 封鎖があったのが一九校、 警察が介入したのが九校、生徒の処分や逮捕があったのが一五校。紛争は公立高校に多く発生した。
2 紛争を誘発した府教委通達
大学の学園闘争が一九六七年頃から始まったのに対して、高校の学園闘争は少し遅れた一九六八年秋頃から始まり、大学の闘争が「大学法」で終息させられた後も七〇年初めまで続く 。
六七年秋頃から反戦デモに個人的に参加する高校生が急増したが、これを府教育委員会が六八年九月一八日の通達(l)で(また文部省が「見解」で)禁圧しょうとしたことが、逆に潜在する管理教育への不満を呼び覚まし、政治活動に参加したことのない一般生徒にも深刻な衝撃を与えた。
大阪に於ける高校紛争のほぼ全てがこの「九・一八」通達後に発生し、これを巡る紛争には「九・一八通達事件」の異名が与えられたが、 紛争校のうちこれと無関係なのは例外に属する。
(1)「(大阪府教委の)通達は①各学校で生徒指導体制を確立し、教職員間で生徒指導上 の共通理解を深め、校長を中心に、全教職員をあげて指導にあたれ ②一人一人の生徒に、教師との人間的接触を深め、家庭との連絡協調を一層密にせよ ③ホームルームその他集団指導に当たって集団の中の個人の責任を自覚させよ ④生徒が個人として政治的集会等に参加することは、社会的経験に乏しく、判断力の未熟から過激な行動に走り、不測の事故などを起こすことも予測されるので、参加することのないよう指導せよ ⑤万一こうした行動をとった場合は、教育的な配慮によって、本人の反省、自戒を促し、再び繰り返さないようつとめよ」(『朝日』 68・9・l9)
「近く、高校生の政治活動を禁止する文部省通達がでる。その基本方針は–学校外の政治活動は教育的な観点から原則として禁止すべきである。 ②政治的なデモ、集会への参加は認められない。 ③デモ、集会に参加し、違法行為をした生徒に対しては、学校は処分を含めた適切な措置をとるべきである。」(『朝日』 69・10・31)
3 深まる師弟の相互不信
<市岡高校の紛争>
一九六八年九月二日、府立市岡高校の校長室がヘルメット生徒に占拠され、大阪の高校紛争がこの日から表面化する。府立高校長会の制度委員長である市岡高校の校長が府教委の指示を受けて、校務分掌の職員会議公選制を廃して校長任命制に変えようとしたことが発端である。市岡高校の紛争は一〇日後に校長が任命制を一旦断念することでひとまず鎮静化する 。
<高校生の活動取締方針>
教員の学校運営民主化運動に対する攻撃と、生徒の政治活動等を取り締まる府教委の 「九・一八通達」とは表裏をなすもので、高教組は、校長任命制に対し、生徒は通達に対し、共に高校教育の反民主的な官僚統制に反対する。
六八年二月、府立高等学校校長協会は、府下全府立高校約一〇〇校の生徒と教員の政治活動調査と活動家について、①活動家学生の派閥構成と各派の人数・氏名、②生徒自治会・ クラス集会・文化サークルの思想的な傾向・活動状況、③文化祭・体育祭・卒業式での゛造反゛の傾向、④生徒の政治活動を指導している教員の人数について調査の通達を出していることが判明して、 府高教組が二月上旬に抗議したという (『朝日』69・11・7夕刊)。
<教師と活動家生徒の対立>
しかし、 それにもかかわらず、師弟の信頼関係は既に崩壊していた。
活動家生徒は教師を抑圧者と捉え、一方教師の側においては共産党の影響力が強く活動家生徒を「暴力集団」「トロツキスト」と排撃する風潮が見られ、セクト的対立感情が生徒と教師の相互不信を増幅。大教組の沖縄返還要求集会に一部セクトの高校生が乱入して教師に負傷を負わせ (69・5・31)、告訴騒ぎを起こしている。
<お仕着せ管理と選別>
市岡の校務分掌問題は一応鎮静化したが、学校と教師への不信、取り締まり的生徒指導や卒業式等のお仕着的管理と進学中心の選別に対する不満は各学校に共通のものである 。
一九六九年二月二四日、府立東淀川高校の三年生は「自分たちで作った答辞を、自分たちで選んだ朗読者に読ませよ」と抗議集会を開き、学校側指名の答辞者朗読の際には卒業生全員が座って抗議の意思表示をし、その後生徒側が選んだ朗読者を出すことを決め、翌二五日の卒業式に決議を実行した。 (l)
(1)「能力別学級編成は学歴偏重に起因する大学受験の激化に対抗すべき策として当然といえば、当然かも知れません。しかし、それが正しいか否かということは別問題です」 「これでは先生と生徒の心のふれあいがなくなり、あの入学当時の胸をふくらませていた私たちから、次第に遠ざかってゆくように思えるのです。」一東淀川高校の自主答辞一 (『朝日』 69・11・1)。
同月二八日、 府立茨木工業高校では学校指名者の答辞が終わると、進学組に対抗して就職組の生徒が 「いまのは優等生の答辞だ。 劣等性の答辞も読ませてくれ」と呼びかけ大半の同意を得て独自の答辞を朗読している 。
<多様な紛争の火種>
このように高校紛争の火種は、府教委の「九・ 一八通達」(文部省見解)、処分、掲示検閲等の校則、卒業式・終業式・文化祭・体育祭のお仕着せ、生徒会の御用化、能力別学級編成、テスト第一主義、同和教育、育友会・PTA会費問題など多岐にわたった。
生徒の教育者に対する不信は、単にその管理・統制的姿勢のみならず、人間性にも深く及び、労働組合への姿勢も問われた。
一九六九年二月一三日、大阪総評が「佐藤訪米抗議・安保廃棄・沖縄奪還統一行動大阪大会」を開いたが、この闘争への日教組組合員としての参加をめぐり、富田林高校で生徒会主催の討論会が開かれ(13・14日)六〇人の先生一人ずつの参加・不参加の理由が追及された。 「憲法で保障されている人権を認めない地公法をどう思うか」「ストに参加せんでも、ストをした先生たちのおかげで賃金はあがる。自分だけなにもせず、ぬくぬくとしているのはおかしい」(『朝日』69・11・l5)。
そして生徒の不信は親にも向かい、経理問題も姐上に上った。同年九月二二日、泉尾高校で、百数十万円に上る PTA 会費が、先生のヤミ手当として支給されていた問題で生徒集会が開かれ授業取り止め。
一九七〇年一月一〇日から、尼崎市立城内高校 (定時制)で①民主教育の徹底 (あらゆる差別をなくす) ②授業内容の充実 ③育友会の経理公開で授業ボイコット。 枚方高校の生徒会が行った校長不信任(70・2・11) で全員投票により追求した一項日は学校経理の公開である。
こうして高校の学園闘争は、一九七一年秋まで尾を引くが、紛争がもっとも長期に及んだのは東淀川高校であった。紛争が始まったのが六九年の二月。封鎖・処分・機動隊導入、民族派生徒の闘争派生徒への鉄棒による暴行などを経て鎮静したのは七〇年七月であった。
4 学生運動各セクトの働きかけ
<セクトによる組織化>
東淀川高校の卒業式と同じ二月二五日、府立茨木高校、同阪南高校では大阪で初めての高校封鎖が行われた。茨木高校では「反戦会議」 が卒業式の自主運営を要求し、学校と生徒会との話し合いで卒業生全員のアンケートに基づく答辞作成委員会(「反戦会議」が大半を占める)で文案をつくったが、上部機購にあたる学級代表が「文章になっていない」と不採択。「反戦会議」が他校生らの応援を得て封鎖の挙に出たもの。阪南高校でも「反戦高協」などが「卒業式粉砕」を叫んで封鎖を強行、 説得の校長に角材で殴りかかるなどした。
いずれも、卒業式をめぐる反抗だが、東淀川、 茨木工の場合は、生徒の決議や支持によるものであったが、茨木、阪南の場合には大衆的支持がなく、茨木では式後の卒業生集会で「封鎖した生徒らの行動は認めない」と確認した。茨木高校の場合は市大の学生が指導したといわれ、すでに一九六八年の10・21国際反戦デーのデモに参加した高校生は、反戦高協(中核派系)、府高連(社学同系)はじめ、反帝高評(反帝学評系)、大阪高校生委員会(革マル系)さらに民学同系の高校生グループなど合わせて約四〇〇人はいたといわれていた(『朝日』68・10・22) が、 六九年に入って上記のように惹起された高校紛争は、この様にセクトの働きかけで紛争に火を着けていくケースが多くなった。
<高校自治会連合準備会の発足>
そして一九六九年一一月二三日、反戦高協、ヤングベ平連などの府下公立、私立高校生一五八名によって『大阪府高校生自治会連合準備会』が結成された。この準備会は、七〇年安保闘争へ向けて、学校教育の一環である現在の高校の生徒会を変革して、生徒会を生徒の手に取りもどすのがねらいであって、この準備会は将来は個人加盟でなく、生徒会単位で加盟できるようにすることを目標としていた(『朝日』 69・11・24)。
5 現代の「女工哀史」–隔週定時制高校
<泉州の隔週定時制高校>
高校紛争の底には、学校が産業予備軍育成所になり下がっていることへの反発もあったが、産業社会に直接的に従属し悲惨な状況を生み出したのが、泉州地方の隔週定時制高校である。
一九六五年七月、大阪府教委は、「思い切った”高校教育の改革”」の一策として府後期中等教育審議会に次の諮問を行うことを明らかにした。
大阪府下泉州の企業地では数万人の女子従業員がおり、会社はそれに高校教育を受けさせたいと強く望んでいる。ところが紡績業はほとんどが早朝と午後の二交代制で通学は無理。このため早朝と午後の二次授業を行う定時制高校を設ける。現在府立鳳高校横山分校に対し地元の要望があり、さらに広い範囲で実施したい(『毎日』65・7・14)。
この時期、 安価な労働力として中学卒業生は金の卵ともてはやされたが、地方出身の中卒女子労働者を、早業、夜業の過酷な労働に従事させている泉州機業資本は「働きながら高校に行ける」ことを労働力吸引の目玉としようとし、府教委も易々としてこの産業界の要望に応えたのであるが、その悲惨な結果が七〇年春に露呈した。
<卒業生の不満>
三月一日、 府立鳳高校横山分校–隔週定時制–の最初の卒業生三一人 (入学当時は六八人) が巣立ったが、彼女らは答辞で「会社も、中学校の先生も、普通科定時制といいました。 なのに……。 早朝や夜遅くまでの労働。その合間の勉強。教育とは、隔定とはいったいなんだろう」「疑問はすぐ解けました。郷里を出なければ生活していけない中卒者。 それを人手不足の企業がねらい、つくったのが隔定だったのです。そこに教育の姿は見当たらなかった。やめていった人が多いのも当たり前です。」 (『朝日』70・3・2)
と積もる恨みをなみいる府教委代表や、会社の幹部に叩きつけた。彼女たちの標準的生活は府立高校教職員組合の調べによると
『早出勤務の週』 は朝四時半起床、五時–午後一時半が仕事。入浴、バス通学で三時一五分–七時二〇分授業。下校後、洗濯、復習で一一時就寝。『遅出の週』は、七時半に起き、午前中にレポートなど通信科目の学習 (火、金曜は通信スクーリングで登校)。 午後一時半–一〇時半まで仕事で午前零時に寝る(『朝日』 70・3・29) であり、教室はプレハブ、体育館は週一度しか使えず、授業も定時制より程度が低く、教科書は飛ばしがち、 クラブ活動も全日制に気兼ねしてグランドの隅でという”教育″であった。
<和泉高校隔定生の闘い>
このような現実を無視し、資本の意向を帯して、府教委は新学年から四つある隔週定時制高校の内二つの募集人員を一挙に倍増しょうとしたため、ついに彼女らの怒りは爆発した。
①増募の白紙撤回、②隔週定時制を普通定時制に移行せよ、③今春入学する後輩たちにも普通定時制を保証せよ、等の抗議・要求を掲げて同年三月三〇日朝、府立和泉高校隔週定時制女生徒約三〇人が府教委に押しかけ廊下に座り込みを行ったが、府教委は要求を拒否した。
四月五日、和泉高校隔週定時制の入試に在校生二〇数人が、増募に抗議し、「わたしたちは企業のドレイになりたくない」「後輩にこれ以上みじめな思いをさせるな」とシュプレヒコールをした。六日には同校教員約三〇人も裏門付近に抗議の座り込みをしたが、他方、 森田紡績 (和泉市) では労働組合が勤労生徒の普通高校定時制編入を協定化し、泉州労連が、参加二五組合で協約運動を展開した。
四月一二日、 和泉高校隔週定時制入学式での間借り授業、 授業時間削減等の説明に、新入生も「入学前に説明がなかった」「全日制にはこんなしわ寄せはないでしょ」と怒り、生徒会は隔週問題を考える集会を呼びかけたが 「新入生は、式に出席した企業の人たちがせかせるように連れ帰ってしまった」(『朝日』70・4・13)。
五 過激な街頭の政治闘争(一九六八~七〇年)
(1)一九六八年の行動
<武装闘争化の動き>
一九六八年から七〇年にかけて原子力空母–エンタープライズ寄港阻止闘争、ベトナム反戦闘争、日米経済委員会反対闘争、沖縄返還闘争、七〇年安保闘争、入国管理法改悪反対闘争および学園闘争に対する弾圧法としての「大学の運営に関する臨時措置法」 反対闘争などがある。
これらにおいて、街頭闘争は一層過激となり投石、ゲバ棒(角材一時には鉄パイプ)、火炎瓶が使われることもあり、その「武装闘争」の中から、「赤軍派」等の武闘組織が発生し、爆弾によるテロルもあった。またこの時期から佐世保現地闘争にも参加するなど高校生の街頭政治闘争への参加も目立ちはじめ後の高校学園闘争 (前述) の活動家となる。
<六八年一月~三月 の行動>
六八年一月一七~一八日、ベトナム反戦闘争の一環として米原子力空母エンタープライズの佐世保寄港に反対し、現地に多数の学生が集合して激しく機動隊と衝突したが、このとき一月一五日、夜行列車やバスで関西から佐世保に向かった学生は三派系、 構革派、 代々木系を合わせて三百余人であった(『朝日』,68・1・16)。 同月一八日、大阪総評・ ベトナム反戦大阪実行委主催の「米空母エンタープライズ寄港阻止大阪集会」 (四〇〇〇人) には反代々木系府学連が参加し、二〇日の共産党系安保破棄・諸要求貫徹大阪実行委の「エンタープライズ寄港反対緊急大阪府民集会」(三二〇〇人)には代々木系府学連(二一大学一七自治会)が参加した。
三月一日、代々木系府学連は、国鉄運賃値上げ反対で大阪駅デモ。
四月一九日、米軍の北爆即時停止、B52沖縄撤去の「全大阪青年決起集会」(二〇〇〇人) に中核派を除く反代々木系学生が参加。六月二日、米軍戦闘機が九州大学工学部の校舎に墜落したのに対して同月七日、代々木系府学連一五〇名は抗議集会・デモを行ったが、 三派系は京都の行動に集中した。
<六八年 6 ・15闘争>
同年六月一五日、全国反戦行動大阪実行委員会のベトナム反戦行動は、御堂筋デモを巡って地裁が一旦許可したが、府警の即時抗告で出発直前に高裁が不許可とするなどで混乱。これの参加者七〇〇〇名のうち、反代々木系学生は二五七〇名 (内兵庫県から約四〇〇、 京都から五一〇 ) であったが (府警調べ)、 御堂筋で機動隊と激しく衝突し、負傷者は病院で手当を受けたものだけでも二〇〇名を越え、 現行犯逮捕は一二名に上った。
<ついに角材で 武装」>
六月二五日阪大豊中の大講義室を占拠 (阪大紛争の発端一前述) した中核派が二六日、大阪空港軍事使用反対デモを行ったが、これに阪大一般学生約八〇〇人も追随し一千名強となった。六月二八日、アスパック(アジア太平洋地域閣僚会議)粉砕を叫び、革マル系、三派・ 社学同系(京都、和歌山等も含む)と地区反戦青年委員会さらに「府高連」も加わり、御堂筋デモを行った際には、学生は角材で「武装」(大阪では初めて)し、ゲリラ的デモで機動隊と衝突、負傷二〇九名逮捕三一名全員送検。 後、学生三人(京大、同志社、市大) に凶器準備集合罪が適用された。
八月一七日、 関西べ平連、 全大阪反戦青年委、 ベトナム反戦大阪実行委共催の大阪空港軍事使用反対デモ五〇〇人。 中核派約九〇名は別行動をとり、新明和工業に突入、 四四名逮捕。
一〇月二一日、「10・21 反戦国際統一行動」 が扇町公園で開かれ、 御堂筋のデモコースに加わった反代々木系学生約三千人 (京都からも結集) の内中核系、 社学同系、 社青同解放派等が機動隊と各所で激突。解散時には、民学同、社青同など一〇〇〇人も大阪駅で集会。高校生約四〇〇人参加。負傷者一五四人(朝日新聞調べ)、逮捕者九三人。社学同系府学連委員長も逮捕。代々木系府学連は共産党系独自集会に参加。ー二月二〇日、米原潜佐世保寄港で「原潜寄港抗議府民集会」(扇町)、社学同、民学同、反戦高協など学生二〇〇人余を含む一五〇〇人がデモ。
(2)一九六九年の行動
<六九年–沖縄、安保>
一月二八日、「沖縄およびアジアに関する日米京都会議」に反対する反代々木系京都府学連、京都・大阪反戦青年委員会の「全関西青年学生総決起集会」 (三〇〇〇人) がデモ、 約五〇人が負傷、逮捕三二人。 代々木系は安保廃棄京都実行委員会の独自集会に参加。
沖縄返還「四・二八」闘争に向けて四月二六日一五〇人の高校生が集会、デモ。ニ八日には反代々木系学生約千人が中之島公園で集会の後、「沖縄返還、安保破棄大阪府民大会」 (大手前) に向けてデモ、途中十一人逮捕、府民集会は約二万人、学生は約三八〇〇人((京都、神戸と高校生を含む)参加、デモで七人逮捕。代々木系学生は共産党系の独自集会「四・二八大阪集会」(四五〇〇人) に参加。
<「大学法」反対闘争>
長期化、深刻化する学園闘争–大学紛争–に業を煮やした、政府・文部省は四月三〇日の中教審の答申を受けて、「大学処理法」立法化を計画、五月二四日に「大学の運営に関する臨時措置法案」を国会に上程した。この法律案は、紛争が半年を越えれば休校、九ヵ月を越えれば文相の機能停止命令(閉校)、一年立てば廃校、収拾に非協力の教官は排除、紛争中の賃金カット等、学園闘争を鎮圧すると共に大学の官僚統制を意図するものであった。
これに先立つ二三日を、「全学連」各派は統一行動日とし、紛争により既に無期限ストあるいはバリケード封鎖を行っている大学では集会、代々木系が強く封鎖などが行われていない大学ではストライキが全国的に行われた。大阪では、代々木系府学連の関大の自治会の一部と府立大、府立女子大、大教大池田、大外大などがストライキ。それまで紛争の形を取っていなかった大学にも紛争を広げた。 (この段階での全国の紛争大学数は警察庁調べで、 国立五三、公立八、私立二四計八五校)
七月二日の「大学法案反対」社共共闘などを経て、紛争校の教官・学生を含めて全国、全大学に反対の機運が高まるが、七月二四日衆議院文教委員会強行採決、衆院を経て、八月三日、参議院本会議強行採決で成立。
八月四日強行採決に抗議し、全共闘・反戦青年委が大阪城公園で「大学法粉砕全関西労学集会」(六〇〇人)後、御堂筋デモ。代々木系府学連は大手前公園で「大学法粉砕決起集会」(二〇〇人) の後、共産党系の大学問題大阪共闘会議・ 安保廃棄諸要求貫徹実行委の集会 (一七〇〇人) に参加した。
五日、大阪駅で「大学法強行採決労学市民抗議集会」 (中核系約二〇〇人)が座り込み、機動隊、鉄道公安員と衝突、二五人逮捕。
<六九年夏から年末までの反安保闘争>
六月一五日、全大阪反戦青年委、京都反戦青年委、 関西べ平連共催の 「反戦・ 反安保・沖縄闘争勝利六二五関西総決起集会」に近畿、北陸、 四国等からも結集 (六〇〇〇人一府警調べ)、御堂筋デモで機動隊と衝突、負傷三〇人以上、逮捕六八人。 同月二三日には反安保大阪府民共闘会議主催の「六・二三安保破棄・沖縄奪還大阪府民集会」 (九二〇〇人–府警調べ)に反代々木系学生も参加。この日は機動隊との衝突もなく平穏に終わった。
反安保闘争は、一〇月二日の反安保府民共闘の集会 (三〇〇〇人)、一〇・二一の国際反戦統一行動日には、反安保共闘の集会・デモ (五万人)に、反代々木系学生も参加。 代々木系府学連は天王寺音楽堂で三五〇〇人。
一一月一三日、大阪総評主催の反安保集会(三万人)が扇町公園で開かれたが、同公園で平行して開かれた全大阪地区反戦連絡会義、全関西統一スト実行委主催の「佐藤訪米実力阻止、ー一 ・一三全関西労学市民総決起集会」(七〇〇〇人) 参加者が火炎瓶を投げて機動隊と衝突、逮捕された学生 (岡山大) が棍棒様の鈍器で殴られて生じた頭骸骨骨折で翌日死亡 (逮捕した機動隊員が寝屋川署勤務であったことから、後にこの事件の報復と推定される寝屋川署爆破事件が起こっている)。
(3)七〇年反安保での学園ストライキ
四月二八日の沖縄デーに扇町公園で開かれた反安保府民共闘主催の集会(一万五〇〇〇人) に反代々木系学生ら約三五〇〇人が参加。 代々木系府学連は大外大で八百人の集会後、 共産党系の「国民大行進歓迎七〇年大阪集会」に参加。
六月一二日、反代々木系の「全関西労学総決起集会」 (六〇〇〇人)が扇町で開かれ御堂筋デモ、衝突なし。 翌一三日には共産党系が同じ場所で「全大阪青年学生総決起集会」 (九〇〇〇人)を開き御堂筋デモ。 一五目には、革マル系等の「全関西学生総決起集会」が一五〇〇人、中核系等の「関西統一行動」が一五〇〇人。 六・二三前後の自治会の反安保ストライキは、市大全学部一五~二三日 。 阪大教養部、法、工学部二〇~二三日、理、歯学部が二二~二三日。工大二三日から三日間。 大外大一九~二五日。 府大、 府立女子大二三日。 大教大平野、 同天王寺や府立社会事業短大、千代田短大でもスト、 集会など。
六月二三日、反安保大阪府民集会(靭公園)八万五〇〇〇人に反代々木系学生も参加、工大全闘委が社会党参議院議員の藤田進学長による処分に抗議して演壇前に座り込み。代々木系府学連は共産党系の総決起集会 (大阪城公園) 八万人に参加。 高校でも三〇校で抗議集会や授業ボイコット、デモ等を行い、府教委では代々木系・反代々木系合わせて約二五〇〇人がデモに参加すると推計。
九月一日、 出入国管理法案国会上程阻止、入管体制粉砕などをスローガンとする「関東大震災在日朝鮮人民在日中国人民虐殺四七周年全関西総決起集会」が天王寺音楽堂で開かれ、反代々木系学生を含む二三〇〇人が難波までデモをした。
六、余鑑収まらぬ学園闘争
1 一九七一年の行動
<沖縄返還協定阻止闘争等>
高校の紛争も下火になったが、七〇年三月二五日の卒業式では、府立枚方、高津、豊中、住吉、生野、 富田林、 天王寺等でビラ撒きや少数のヘルメットデモがあった。
沖縄デー目前の四月二五日、革マル系が大阪城公園で一五〇人、関西各地の中核・学生インター・フロント・プロ学同・反帝学評など八派が扇町公園で二〇〇〇人、それぞれ集会とデモ。四月二八日の反安保府民共闘の扇町集会・デモ(五〇〇〇人)に、反代々木系学生も参加。 平穏に終わる。五月一九日、関西各地の反代々木系学生約一五〇〇人が京大に集合し円山公園で 「沖縄返還協定阻止」の集会の後機動隊と衝突、ー二六人逮捕、負傷者約一〇〇人。五月二八日、「沖縄返還協定粉砕全関西統一行動」に反戦青年者や学生二〇〇〇人が参加、御堂筋デモで一〇人逮捕。五月三一日~六月四日まで桃山学院大がスト。
六月一五日、「沖縄返還協定調印阻止全関西統一行動」 (扇町) で三〇〇〇人がデモ。 一五~一七日まで阪大文、基礎工、教養スト、 医学部も一五・一七日スト。市大教養は一五日から三日間スト。一七日には府立女子大、大教大天王寺分校、関大商・工・法・社会各部もスト。
一七日、 共産党系の「危険で屈辱的な沖縄協定調印抗議六・一七緊急集会」五〇〇〇 人以上に代々木系府学連も参加、中央郵便局前までデモ。
<沖縄協定批准阻止闘争>
一〇月五日、「沖縄返還協定反対、完全返還をかちとる大阪府民集会」に民学同等も参加四〇〇〇人がデモ。ー八日、市大で学生大会の日取りをめぐって対立していた民学同系に革マル系等が実力阻止に出て乱聞、ー二人が重軽傷。
二一日、府大全学部、市大教養、阪大法、医、関大文がスト。この日中核系一八〇〇名、社学同系一五〇〇人等が独自集会やデモ。
総評系の集会にも学生五〇〇名が参加。これら反代々木系学生は全体で七六〇〇名となった。代々木系府学連は共産党系集会に参加。 沖縄ゼネストに呼応する二月一〇 日の総評系の集会 (靭公園)に約八五〇〇名が集まり、反代々木系も参加、御堂筋デモ。代々木系府学連は剣先公園で八〇〇人が集会、難波までデモ。
二月一七日、 沖縄返還協定強行採決。この日代々木系の安保破棄諸要求貫徹大阪青年学生実行委二五〇〇人が扇町で緊急集会、難波までデモ。ストは市大一八日から、関大社会学部一八~二四日、工大一九~三〇日、阪大医、理、大外大、府立女子大、府大経、工なども。一九日、全国統一行動の「沖縄返還協定批准阻止、強行採決抗議、佐藤内閣打倒、国会即時解散要求大阪府大会」 (三万六五〇〇人) に反代々木系学生も参加。 京都から来た約一五〇人が大阪駅周辺で独自の火炎瓶闘争。 代々木系府学連は剣先公園で「全大阪学生総決起集会」(九〇〇〇人)の後御堂筋デモ。
一二月一日、 大阪市が中国人保母の解雇を行ったことに抗議し、学生約三〇人が市役所に押しかけ揉み合い。
<大数大入試で障害者差別>
七一年五月二〇日、小児麻痺後遺症で右手が不自由な受験生を体育が出来ないとの健康診断を理由に不合格とした障害者差別に抗議し、大教大でハンスト。以来、「入学時の健康診断は身障者の不合格を前提にするものだ」とする学生の追及で紛糾が続き、 二月一三日同間題を話し合う全学集会を開いたが、大学側が健康診断撤廃を拒否。「全学の合意が得られないまま入試要綱決定の時期にさしかかり、緊急に大学の方針を決定しなければならない」ことを理由に同月二四日から一二月四日までの長期休講を大学側が強行。池田分校をロックアウトしたが、登校した学生が学内に立ち入ったと機動隊を導入。二日から天王寺分校がストに突入、池田分校も同調し一四日から無期限スト。七二年二月の期末試験も延期、三月の卒業式を中止し、入試もロックアウトで実施、四月には池田分校でバリケードも。
2 一九七二年の行動
<学費値上げ反対>
七二年初めから国公立私学を問わず授業料値上げ反対闘争が起こり、学園闘争以来のストやバリケード等紛争が多発した。
一月一三日、学費値上げ反対で関大封鎖。一四日、代々木系府学連も一七日から署名、 デモなどの行動を起こすことを決定。二〇日阪大教養部無期限ストに入り封鎖。ニ二日、 関大に機動隊導入、ロックアウト。二四日、革マル系が市大教養部を封鎖、三一日から無期限スト。
二六日、 電気通信大も授業料値上げ反対、経理公開で無期限スト、卒業試験も延期。 二月八日、大外大二部も二月末までのストに突入。二九日阪大封鎖解除、二三人逮捕、 同日法学部自治会が学年末試験ボイコット決定。四月一三日、阪大期末試験で教職員と揉み合い。一般学生多数がボイコットしたため延期、七月一七日にようやく試験。
<市大工学部の学位論文紛争>
七一年の工学部博士論文審査で二名が不合格とされた。その後、再審査の結果一名は合格となったが、 残り一名 (井関進) が受理を見送られていた。この措置には六九年当時の学生運動で急進的な行動を行ったことが影響したと、七二年二月二一日から当事者の学生が座り込み。 同大の法、商、経等の教授を含む教官五八人が「工学部教授会に訴える」という公開文を出し、紛争は学内全体に拡大。工学部院生協議会が大学の見解を追及し、六月一三日工学部教授会が、陳謝、学外秘密教授会を自己批判、学部長、大饗教授等三名の辞任などの確認書を学生と交わし、一六日、学長が「大学側に重大なミスがあり、 きわめて遺憾だった」 と陳謝。 井関の論文を合格にした。
しかし、一一月九日、井関が自殺。これは大饗教授が井関は「精神異常」という意味の発言をし、強制入院させようとしたためと、ニ二日には五〇〇人が追悼集会。二九日、二〇〇人が教授会会見を要求。 ー二月一日工学部教授会と学生が団交。教授会は大饗教授の辞職勧告を正式決定。学部長代行の辞任等もあったが、二〇日、教授会は辞職勧告を撤回する高姿勢に転じ、翌七三年一月一七日工学部の学生・院生が二日間のスト。 同月二三日には工学部助教授・講師・助手で構成する助講会が学部長代行の辞任を要求、後期試験の監督を断ることを決めている。
結局七四年三月、教授会が再度全面的に謝罪し一応結着。井関の命日にあたる七四年二月九日に、かねてから設立を決めながら、学生、院生と話し合いが着かず遅れていた、井関基金 (教授が毎月千円づつ三年間拠出) を設立、水俣病患者支援の運動に使うことが決められた(なお大学教授はその後、 筑波大学に移籍した) 。
七、 衰退する学生運動
1 一九七三年の行動
<授業料闘争でスト>
授業料値上げで紛糾中に、大学側が自治会役員ら活動家約八〇人の写真入りブラックリストを作成していたことが判明し、七三年一月一六日から、工大二部が無期限スト。後期試験も延期。
同月一二日電気通信大高校生徒会が授業料値上げ撤回を要求し授業をボイコットして総決起集会。一三日学校側が休講措置。二三日から一週間市大教養部が授業料値上阻止でスト。同日工大二部ストライキを解除。市大は二月一日から全学スト、後期試験延期。結局市大の授業料値上げは見送り 。
<高校生の紛争>
二月四日、浪速高校教諭宅で爆弾が破裂。卒業生ら三人逮捕、教諭の補導への恨みと自供。三月府立守口高校、君が代などなし、自主制作の答辞で卒業式。他方、住吉高校はヤジや花束放棄。その晩窓ガラス等を壊した卒業生二人を処分。 市大、学生乱入で卒業式中止 (二年続き) 。
四月二日夜、伊丹市立高校 (定時制) で、生徒との学校正常化の約束が守れないと全教職員が辞表提出。授業を休んだり 遅刻の多い教諭批判から「定時制生徒を軽視している」と話し合い。生徒の主張を全面的に認めたが当該教諭の転勤で生徒の信頼を失ったため。
五月一七日、私立興国高校で民主化を要求して生徒一〇〇〇人が騒ぎ、このあおりを受けて教職員組合が一八日に予定していた春聞要求のストを中止。 理事長が生徒や教諭を告訴、これに抗議して教職員・生徒が三〇日から同盟休校。 同窓会長の仲介もあったが、 理事者側が強行姿勢を崩さず、府の行政指導の約束で六月一八日から授業再開。
<筑波大学法などの闘い>
筑波大学法案に反対して七三年五月一七日から一週間、 阪大教養部がスト。市大教養部も一五日スト。代々木系府学連も一七日、三〇〇人の集会。六月一四~一五日市大がスト。
六月二三日、反安保大阪府民共闘の集会(扇町)で安保条約反対、国鉄運賃値上げ法案抗議とともに、 筑波大法案反対などを決議した。
七月九日通信制の府立桃谷高校生徒会一五〇人が、校舎立替えの約束がホゴにされた、通信制を軽視していると、府教育次長を追及し、七四年一〇月一三日にも同問題で五〇人がデモを行った。
2 一九七四年の行動
七四年一月二八日、 代々木系府学連ら六団体の学生生活危機突破大阪実行委員会が折からのオイルショックで紙製品工業組合にノート不足を訴えた。
一月三一日、 市大でノンセクト学生らが新案建設を要求して封鎖し、二月六日、電気通信大高校が入学金、授業料値上げ反対で授業ボイコット(一〇〇〇人)した。
四月一〇日、 阪大入学式に電気料金問題などで寮生らが押しかけ、二三日にも寮生等が 「負担区分改悪阻止総決起集会」を開き学生部に乱入した。五月二七日、教養部がこの間題でストに入り、教養部などを封鎖したが、六月三〇日教職員が解除した。
一〇月一日から市大で、同窓会館の開館に反対して教養部を封鎖したが、同月三日解除された。しかしこの余波で教養部の前期試験は中止された。
一二月二日、関大で学費値上げ反対の抗議集会後事実上の全学ストに入った。同月一三日学生二千人と学生部長が団交した。学生部長と同代理四人が学生と話し合わない理事会の態度に怒り、辞表を提出した。
七一年以来、身障者入学問題の紛争が続いている大教大で一二月一八日学生約一〇〇 人が正門前に座り込んだが、機動隊に排除された。 (井上淳一)