大阪の戦後学生運動史 1 (『大阪社会労働運動史 第4巻』より))
第四節 学生運動
ー、一九五五年から六〇年安保闘争の高揚へ
1 解散論さえでていた五五年頃の府学連
<事実上活動停止状態の学生自治会>
一九五〇( 昭和二五)年に起こった共産党の分裂とそれに続く極左冒険主義の影響で学生運動は大きな打撃を受け、一九五五年には多くの自治会が事実上活動停止状態にあった。
このような状態の中で、全学連第八回大会六月一〇~一三日)と第七回中央委員会(九月二~三日七中委)は「平和と友情一歌と踊り」の路線を確定し、身近な要求こそ重要と規定した。
この時期、大阪の学生自治会の内では再建どころか、解散論さえでている。
「各大学の自治会活動は停滞し、阪大の法・文・ 経・工・理・南校の各自治会解散」 (総評大阪地評十年史年表』ニ八六頁)
また、 大阪の学生運動では常に中心的な役割を担ってきた大阪市立大学(市大)でも、学生課長が沈滞を嘆く談話を出している。 (『大阪市大新聞』六三号、 55・4・25)。
全学連七中委の路線を受けて、ー二月二日には関西学連が「今迄の学連のあり方は不満足」 (大阪市大新聞』七五号、 55・1・25)と解散を決議し、協議会に改組している。
<歌と踊りの平和友好祭>
大阪府学生自治会連合(府学連)が、この年に組織的に取り組んだのは、「全学連の平和と友情」路線に沿った第五回世界青年学生平和友好祭くらいである。
一九五五年一月二二~三日、来阪した「世界民主青年連盟訪日代表団五名を歓迎するための世界民青連訪日代表団関西歓迎集会実行委員会」に府学連は参加し、地評青年部, 府青協・社会党青年部・民青などとともtこ同月二三日、中之島中央公会堂での約三千名の歓迎集会を行った。
次いで五月一六日開催された「ワルシャワ青年学生平和友好祭大阪地方準備会」にも参加し、五月二二日、兵庫、京都、奈良、和歌山の府県学連と共同して、学生・高校生六七〇人を奈良公園に集めて「関西学生ピクニック」を開きフォークダンスやおべんとう・写真コンクール等を行っている。そして、七月三日から八月二一日まで続く大阪青年学生平和友好祭の各催しに参加している。 (1)
(1)五名の代表団は、マルコム・ニクソン(団長・英電気労働者、世界民青連書記)、スカトノ(インドネシア人民青年団、農村青年)、アデモラ・ト一マス(英領北アフリカ、学生)、ルチア・ルザフト(イタリア社会党代議士)、マリーモルヴァン(フランス女子青年団)であった (大阪地評昭和二九年度一般経過報告書』)。
(2)大阪青年婦人学生平和友好祭の行事は次の通りであった。
六月二二日 (於市立労働会館)第四回世界青年学生平和友好祭記録映画「平和と友情」試写会
七月三日 ( 於中之島公園)たそがれのフォークダンス 青年男女六〇〇名)
七月一三日 ( 於中之島中央公会堂) ワルシャワ平和友好祭参加の大阪代表歓送大会、歌と踊り演劇・(一五〇〇名)
七月二三日、世界青年学生平和友好記念国際リレ、一 自転車駅伝)
八月二〇~二一日 (於私市くろんど池)大阪山の祭典,(キャンプ、男女一八〇名)
(大阪地評昭和二九年度一般経過報告書』)
<大阪市立大学校舍返還闘争>
府学連が統一組織としてほとんど機能していない状態で各大学の運動が散発的に行われている。
大阪市立大学(市大)では米軍に接収され兵舎となっている杉本町校舎の全面返還運動を全学的に展開し、七月五日、米軍から七月三一日ごろまでに返還するとの通告を受け、実際は少し遅れて九月二〇 日になったものの宿願の校舎全面返還を実現している。
<学閥抗争に学園民主化を要求した学大>
大阪学芸大学(学大・現大阪教育大学)は天王寺校舎に本部を置き天王寺・池田・平野の三分校で構成されている。天王寺の旧大阪第一師範、池田の第二師範を合併して出来たこの学校は合併後も旧師範時代の学閥意識を克服出来ず、卒業生もそれぞれ旧師範時代以来の同窓会(天表は友松会、池田は蛍池会)に所属するという対立を続けていた。教授会も少数派の池田分校と多数派の天王寺 平野連合の両派に別れ、 池田分校主事問題でついに対立が爆発した。
天王寺派の意向が強く働いたとみられる駒田教授への主事発令に、池田分校は教職員・学生あげて非民主的発令だと反発し、七月四日に北川学長と池田分校代表の教授との話し合いが決裂。 五月池田分校学生大会は、辞令撤回・学園民主化を要求し要求が入れられない場合は実力によって闘うという姿勢を打ち出した。そして天王寺、平野両分校自治会も池田分校自治会と共闘を組み学園運営の民主化を要求した。
これに対して学長は先手を打って六~九日全学の休講を指令。 以降、教授会は紛糾を続け、 池田分校側三教授への辞職勧告、学長も同意した池田分校独自の主事候補選挙の実施、選出された主事候補の教授会による承認拒否等九月以降まで荒れ続けた(『毎日』, 55・7・5~9 ,4)。
2 漸く確立した大衆路線 (五六年~七年)
<授業料値上げ反対が再建の契機となった全学連>
一九五五年一二月 に全学連の解体状態を幸いとして発表された国立大学の授業料値上げ案と国鉄運賃の学生割引率切下げの意図が、 逆に学生を刺激し全学連再建のきっかけとなった。
運動の再建を摸索していた活動家が、 翌五六年一月一五日の全学連中央執行委員会の反対声明に応えて、東京を中心に授業料値上げ反対闘争を組織したが各府県学連や自治会の解体状態のため全国闘争にならず値上げ案の国会通過を許し、前年度の全学連第七回中央委員会(55・9・3)路線の批判を呼び起こしたのである。
全学連は四月四~六日第八回中央委員会(八中委)を開き、平和と友情・身近な要求政治闘争回避の方針を、自治会、学連の解体すら生ぜしめ、全国の学生の期待を裏切るという決定的誤りを犯した(全学連第八回中央委員会決議)。」と厳しく批判した、
そして、四~五月に小選挙区制、教育三法 教育委員会法・教科書法・臨時教育審議会法)、アメリカのエニウェトック水爆実験等に反対して全国統一行動を行うことを決定した。
また、原水協、護憲連合への加盟を決議し他階層・大衆的諸運動との共闘を回復した。
<府学連五・二六大会以降の大衆運動路線>
全学連八中委の路線転換を受けて大阪でも元全学連書記長鮒子田耕作らを世話人として府学連再建の自治会代表者会議が四月二八日に開かれ、五月一二日の自治会代表者会議では各大学でシンポジュウム等を開いて教宣活動を活発に行い、五月二六日には各大学別学生大会と府学連主催による全大阪学生大会を開くことを決めているが、組織の再建が軌道に乗るのは五月闘争以降となる。
メーデーには自治会の弱体化を反映した個人参加が多かったが、教育三法等を巡る国会の緊張に促されて大学生高校生的二千人が参加した(『大阪市大新聞』八三号、 56・5・10)。
この学生の自主的な政治への関心の高まりに支えらて五月二六日の府学連主催・大阪学生大会(中之島)には久々に三千人が集まり、学生運動が大衆運動に復帰しつつあることを印象づけた。
<全学新も路線転換>
全学連八中委の路線転換と平行して全国学生新聞連盟(全学新)も四月三〇日に名古屋で第九回大会を開き、さらに六月三日には関西学生新聞連盟(関西学新)が大阪で第八回大会を開き、全学連と軌を一して、 ”政治に厳しい目を″ 持った新聞への脱皮を遂げている(『毎日』56・5・1、 56・6・5)。
<全学連第九回大会で態勢確立>
一九五六年六月九~一二日に開かれた全学連第九回大会は、八中委路線を再確認し、『平和と民主主義、よりよき学生生活のために』のスローガンの下に、①平和を守るために、②民主主義を守るために、③民主教育を守るために、④国民各層との提携等の方針を決め、「日本反戦学生同盟との友好関係の回復ならびに旧全学連中執等二七名追放決議を撤回する決議」(1)を採択し大衆運動としての態勢を確立した (『大阪市大新聞』八六号) 。
(1)一九五二年六月京都で開かれた全学連第五回大会が、共産党五〇年分裂の反対派勢力武井明夫委員長を含む二七名の「国民戦線から追放」と日本反戦学生同盟の解散決議を行い、これ以後極左冒険主義路線に走った。
<府学連の国鉄・私鉄運賃値上げ反対闘争>
全学連は五六年一〇月の砂川基地拡張反対の現地闘争で大きな力を発揮し、他階層からの信頼を回復したが、府学連傘下では大阪大学(阪大)から代表が現地に派遣され、市大新聞の記者も取材に向かったが全体としては署名とカンパ・支援の教宣活動程度しかできなかった。
府学連が指導力を回復するのは国鉄・南海の運賃値上げ反対闘争で先頭にたった時からである。
この直前に大阪でも大阪市大を中心にして日本反戦学生同盟の支部が組織され、この闘争の中心になって府学連の再建を担った。
二月五日大阪、兵庫、京都の三府県学連が共闘し天王寺公園で一千五〇〇人の集会をひらき大阪駅と難波駅にバス・ トラック一六台に分乗して自動車デモを決行し国鉄・南海電鉄の運賃値上げ反対闘争の火蓋をきり、以降他階層と協力して運動の中心となった。
二月六、七、八日の連続的行動(『毎日』56・11・6、11・8、11 9)に続き、ー一月一七日には中之島公会堂で府学連が二千名の運賃値上げ反対全大阪学生決起大会を開き、大阪駅までデモ。 駅構内で乗客集会を開いて運動を大きく盛り上げた。 (『大阪市大新聞』九四号)
<クリスマス島水爆実験反対闘争>
一九五七年の学生運動は原水爆実験反対、 原子戦争準備反対の平和運動一色に塗り潰された。 府学連再建の中心となった日本反戦学生同盟(反戦学同)の大阪市大支部は、一月の新年会でイギリスの水爆実験反対闘争に全力で取り組むことを決めた。 これは、 前年以来全学連が平和擁護闘争を学生運動の第一義的任務と規定したことを受け、原子戦争準備反対のスローガンを実践するものであった。市大反戦学生同盟の呼びかけで三月十六日市大理工学部校舎で英水爆実験反対大阪大会準備会が開かれ、社、共、地評青年部、府学連、平和を守る会、全青婦、民青、婦人民主クラブ、大阪府青年団体協議会(府青協)、わだつみ会等多数の団体が出席した。三月二三日の第二回会議でクリスマス島水爆実験阻止全大阪青年婦人学生連絡会議を結成し四月一九日に青年婦人学生総決起集会を開く事 等を決定している (『大阪市大新聞』九九号) 。
四月一九日、折からの激しい雨にもかかわらず中之島公園(テニスコート東側)の集会には六〇〇人が集まり、「ク島水爆実験阻止」「米英ソは直ちに核実験停止協定を結べ」等を決議した。(提灯デモは雨のため中止)(『毎日』)これを契機に大阪の青年, 婦人学生の共闘態勢が継続的なものとなった。
四月二七日には全日本学生決起大阪大会(四〇〇人) (『大阪市大新聞』一〇一号)。 原子戦争準備反対全日本学生総決起デーの五月一七日には天王寺音楽堂に一五〇〇人が集まり、難波までデモ。
一方高知県原水協が三月三日の原水協全国理事会で提案したクリスマス島への抗議船団派遣案に対して反戦学同はいち早く一〇人の参加を決定し、大阪市大支部も一名の参加を準備した(派遣計画は原水協内の意見の相違により中止) 。
<原水禁大会から二一国際統一行動へ>
府学連は五月二一、二三日にも原水爆反対の街頭宣伝に出て反対闘争を継続し、その後は第三回原水禁大会の成功のための街頭署名とカンパ活動を展開した。
第三回原水禁世界大会で決定された一一月一日の原水爆実験禁止協定即時無条件締結要求国際統一行動にむけて、一〇月一六日大阪学大に大阪、京都、兵庫、奈良、和歌山、滋賀の自治会代表が集まって、一ー・一闘争方針を決定(『毎日』57・10・17)。 翌一七日に府学連は扇町で原子戦争準備反対全国学生総決起大阪大会を開き、ー一月一日には大阪市大経済学部大学院のスト等傘下の多数の自治会がスト授業・放棄を行い、天王寺区等の地域集会に参加した後、 中之島公園の全大阪大会に一七〇〇人が集結した。
この日は夜学連も七〇〇人が関西大学(関大)天六校舎で集会の後扇町から中央公会堂へデモを行った。 このデモで一名の逮捕者が出たが、抗議闘争により即日釈放された。
<学長選挙参加を巡る市大の交渉>
大阪市立大学では学長選挙に対する学生の参加権を巡って、七月六日に市大全自協(各学部学生自治会の協議体)が大学側の学長選挙内規委員会に信任権を求める申し入れを行 った。 しかし、市大全学協(全学の教授の協議会)は八月六日に従来通りの規約(学生の参加は各学部からの学長候補推薦選挙のみに認める一学生の信任権は認めない)で行うことを決め、学生が要求している参加の意向を候補推薦の方法にどのように折り込むかは各学部教授会に任せるということになった。学生はこれを不満とし、医・理工学部自治会以外は候補推薦選挙をボイコットした。
学生の学長選挙に於ける拒否権を国・公立大学で認めているのは一橋大学のみで、私学では早稲田、慶応、 同志社、立命館大学等で何らかの形で学生に参加権が与えられている。
3 勤評警職法闘争と学園スト
<全学連多数派の共産党との対立と分裂>
全学連は一九五六年の砂川闘争で他階層との共闘に成功したが、この闘争の評価を巡って論争が発生し以後燻つていた。 一九五七年一一月の全学連第一四回中央委員会で少数派の二名の中央執行委員が罷免され対立は一層深まり、一九五八年五月二八日から開かれた全学連第二回大会で対立が表面化した。
多数派は「国際緊張が激化している。帝国主義に対する激しい闘いが必要」と主張し、少数派は「国際緊張は緩和しつつあり、運動は幅広く行うべきだ」と主張した。
少数派の主張は刻々の政治情勢に厳しく対決する大衆運動を軽視するものだと大方の支持を得られなかったが、多数派にも「われわれが強力な(闘争)形態をとればとる程、対決する勢力との矛盾は鋭くなるが、われわれの周りに結集する勢力も大きくなる」ー 第一〇回大会方針 ーとする急進主義的傾向を内包していた (資料・戦後学生運動』一九七頁) 。
この対立は大会参加の党員を集めて六月一日に代々木の共産党本部で開かれた共産党員グループ会議で爆発し、後に『六・一事件』と呼ばれる党員学生の処分に発展し全学連と共産党の関係が急速に悪化していく。 また多数派の中核である反戦学生同盟も一九五八年五月二六日に社会主義学生同盟に転換し共産党と決別する方向に進んでいった。
さらに一二月一三日から開かれた全学連第十三回臨時大会は階級闘争の観点にたって学生運動を労働運動の同盟軍と規定する路線転換を行い、 以後安保闘争に至る過程で組織的分裂に進んで行く。
<原水協に参加し、 勤評闘争で激闘した府学連>
二月三日府学連を含む準備会で大阪原水協の発足が確認され、府学連は結成時からこれに加盟した。
府学連は一九五八年一月二八日市立労働会館の勤評実施反対大会を皮切りとして勤評闘争に全面的に参加。
四月二六日扇町プールで開かれた総評・大教組主催の勤評反対集会に全国学生総決起の一環として参加し大阪府庁までデモ。 五月一五日のエニウェトック水爆実験反対、勤評反対全学連全国学生総決起には扇町公園で集会を開いている。 この日、阪大当局は南・北両校舎を午後から休講として学生大会を開く事を認め、学大でも学校が公認する学生大会が開かれている。
六月一八日には府学連を含む一七団体によって「勤評反対、教育を守る府民共闘会議」が結成されたが、この日府学連は天王寺音楽堂に一五〇〇人を集めて集会を開き府庁にデモをかけて浜田教育長に勤評の抜き打ち実施を行わないよう申し入れた。
六月二五日、学大自治会がストを行い、府学連は一五〇〇人を動員して府庁に押L掛け大教組の対府教育委員会交渉を支援して府庁内に座り込む。
八月一五日、府学連は和歌山で開かれ翻評反対国民大会に総評等と共に多数を動員して、臨時列車で和歌山に乗り込み四万五千人の大集会に参加した。
よく一六日「勤評阻止・平和と民主主義を守る青年婦人学生全国大会」後のデモに右翼と警官が殴る蹴るの襲撃をかけ多数の負傷者が出たが、 府学連傘下からも入院が必要な負傷者が数名出、 執行委員の佐道正彦( 阪大医学部)が逮捕された。
九月一五日、学大三分校、大阪経済大学(経大)、大阪府立大学(府大)がスト、市大などは授業放棄。府学連は五〇〇人が中之島から府庁まで 雨中デモを行い、府庁南門の扉を突き破って突入を計るが警官隊に阻止される。学生一名が逮捕されるが、午後八時すぎに釈放。
九月二四日奈良の元米軍キャンプで開かれた「道徳教育講習会」反対闘争で九名の学生が逮捕されたが、大阪府学連の逮捕者は鍋野市蔵執行委員長を含め八名 (他府県学連を含め一〇人起訴) 。
<勤評・警職法闘争で学園スト>
五八年一〇月一〇日から三日間大阪外国語大学(外大)が勤評反対・道徳教育反対・警職法(警察官職務執行法)改悪反対でスト。関大二部も授業放棄。一〇月一四日、一五日市大経・文・法・理・工と学大平野分校が連続スト。 関大二部、市大二部授業放棄。
一〇月二七日、経大、学大池田分校スト。
一〇月二八日、経大、学大池田・平野分校スト、天王寺分校授業放棄、阪大全学業放棄。府学連は府民共闘会議主催の「勤評阻止措置要求大阪大会」に一五〇〇人で参加し府庁までデモ。 そのまま府庁に雪崩込み庁内デモ。 代表五〇人は大教組と共に徹夜の座り込みに入ったが午後一〇時すぎ警官隊に実力で排除された。
十一月五日警職法改悪反対統一行動日、外大、学大天王寺スト、市大は大学祭明けの休講日のため同盟登校。 扇町プールの府民大会に府学連一二〇〇人参加。
<高校生勤評闘争に参加>
大教組は五九年にも前年に続いて勤評提出に反対する闘いを激しく続けたが、高校生も闘争に参加する学校が增えた。
五九年二月一日天王寺高校定時制の生徒会は教組の追及を逃れて姿をくらました校長の態度に抗議して授業拒否 (『毎日』59・1・29)。 北野高校では教組の校長不信任決議と教員のハンストを巡って生徒大会(同上、59・2・6、 59・’2・13)。 清水谷高校では卒業生が免職教員の留任運動を行い署名四一〇人分を府教委に提出(同上、58・5・26)生徒会も留任嘆願書を提出(同上 58 ・6・24)。 貝塚高校定時制生徒会が教員処分の取消を要求して府教委に抗議文(同上 59・6・3)。
<関大の高速道路学園通過反対運動>
関西大学学友会は五九年五月一五日臨時学生大会を開き、名神高速道路が千里山学園内を縦断することは教育施設の破壊であると反対を決議し抗議闘争を行った (『毎日』59 ・5・15)。 その結果高速道路は学園の部分は地下を通ることになった。
4 府学連の安保闘争と高校生の大量参加
<初期安保闘争と府学連>
全学連は一九五九年四月一五日の第一波から安保闘争に参加しているが、初期は呼び声程に盛り上がらず、四月二八日の第二波の府学連集会は八〇名しか集まらない状態だった。この時期「安保は重たい」と労働組合でも言われていたが、「学生運動転換にともなう理論的研究活動が続けられ、若干の混乱があることも関連して、闘いの大衆化の努力と実践活動への立ち遅れ」 (『大阪市大新聞』59 ・5 ・10、一四四号)と指摘される全学連内の対立が影響している。
五月一二日安保改定阻止大阪府民共闘会議準備会に府学連も加盟。 五月二七日大阪府民大会、六月二五日安保条約改定阻止国民共闘会議第三次統一行動等に五〇〇人参加。
六月五日から開かれた全学連第一四回大会は主流・反主流が激しく対立したが、主流派内でも一一回大会で全学連の主導権を握った日本革命的共産主義者同盟(革共同、一九五七年一二月結成)系から共産主義者同盟(共産同、一九五八年一二月結成)系に主導権が移るなど学生運動全体が指導方針を巡って混乱を深めている。
この全学連の方針を巡る対立は、大阪にもおよび七月一二~一三日の府学連第二一回定期大会で指導部が主流派(鍋野市蔵委員長一大阪市大理)から反主流派(井上淳一委員長一大阪市大理)に移った。
<府学連新指導部の五九年後半の闘争>
新指導部となった府学連は五九年九月三〇日の国鉄学生割引制度改悪反対闘争第二波 (大阪・兵庫・京都・奈良・和歌山五府県学連統一行動、一千名)を経てしだいに態勢を建て直し、一〇月二〇日に五〇〇人、一〇月三〇 日に六五〇人。 二月二七日の第八次統一行動には二五〇〇人を動員し大手前か騙町公園までデモを行っている。この日のストは市大経・法・文・家政、学大天王寺等であった。
冬休み直前の一二月一〇日の第九次統一行動にも市大経・家政・文、阪大北校がストまたは授業放棄し、 一五〇〇人が森之宮の市立労働会館前からデモで大手前の府民集会に参加。 さらに大阪市役所までデモを行ったが、このデモには大阪市立盲学校(高校)生五名も白い杖をついて加わっている (『毎日』59・12・11)。
全逓労組が年末の超勤拒否闘争を行っていることに対して関西主婦連が「学生アルバイトが集まらないなら婦人奉仕隊を出す」と郵政省に申し入れたが、府学連は安保闘争で共闘している全逓に連帯して、ー二月八日の執行委員会で関西主婦連に抗議文を送ること、各大学がアルバイト学生を出さぬよう申し入れること、アルバイト学生に説得を行う事を決めている(同上、59・12・9)。
<学大スパイ事件で三名逮捕>
一九五九年一月三〇日府議会決算特別委員会で共産党の三谷府会議員の質問により発覚した府警平野署の公安刑事によるスパイ事件では、府学連傘下の学大自治会も工作の対象になっていた。このため府学連は総評等四〇団体とともに秘密警察糾弾人権擁護共闘会議を結成して公安警察の活動に監視を強めていたところ、一〇月に学大学生と外大学生にスパイ工作が行われていることを察知。 二月一三日、天王寺署の小川博巡査が学大正門で自治会役員に工作を継続しょうとしている現場を押さえ、折から講堂で開かれていた「スパイ工作抗議・完全就職獲得」の集会の場に連れ込んで糾弾。 小川巡査は出動した警官と学生が揉み合う中を脱出した。この事件で府警本部は一二月二五~二八日にかけて中辻武一府学連副委員長(学大天王寺)、石原文夫府学連執行委員(学大池田)井上淳一府学連委員長(市大理)を逮捕した。
<学大自治会への大量処分>
五九年二月に起こった学大スパイ事件で、学大自治会は北川久太郎学長に天王寺署に抗議する声明を出すことを求めていたが学長が応じないことiこ抗議、又学生の(教員)就職の見通しが思わしくなく大学側の対策が不十分だとして、二月中句から学内行動を強め、無期限座り込み等を行った。
これに対して大学は一九六〇年一月二日に「一一月一三日以来の学生の運動は不法、学園の秩序を乱した」と、天王寺、池田、平野三分校自治会役員に二ヵ月停学一五名訓戒二七名計四二名に上る大量処分を行った。 停学二ヵ月中に期末試験があるのでこの処分は実質的には一年を越えるものとなった(『大阪市大新聞』一五六号)。
府学連はこの処分を警察に追従して大学の自治を自ら破壊するものだと抗議し、一月一四日には市大・阪大・府立女子大の学生が学大天王寺構内で抗議デモを行い、 一日二八日の第一二次安保反対統一行動には学大天王寺で全大阪集会を開く等支援行動を行っている。
なお、 学生スパイ事件で逮捕された府学連の三幹部はいずれも「暴力行為」容疑で起訴された。 (1)
(1)一九五九年二月十三日の学大スパイ事件で起訴された元府学連幹部三被告に対して、六二年五月二三日大阪地裁・網田裁判長は無罪判決を下したが大阪地検は即日控訴を決定した(検察側控訴の第二審、第三審も無罪判決で、一九七〇年三月無罪が確定) 。
<全学連臨時大会の分裂>
安保国民共闘会議は一九六〇年一月一六日に調印のため渡米する岸首相らの羽田空港出発に対しては、現地動員の阻止行動を行わないことを決めたが (第三章第四節六五八~九頁参照)、全学連(主流派)はこれに反対した。反主流派の大阪府学連も現地闘争は行うべきだとして一月一五日に大阪府民共闘会議の代表団(二〇〇名)に二〇名の代表が加わり、夜行列車で東京に向かった。
そして、 羽田に着いた時には既に空港に立て籠もっていた全学連主流派が排除された後であったので空港周辺の道路で抗議闘争を行 った。
この羽田闘争の評価を巡って全学連主流派内で共産主義者同盟系(多数派)ど革命的共産主義者同盟系(少数派)が対立し、二月九日の第二二回中央委員会で少数派の中央執行委員八名が罷免された。
これに先立つ一月三一日に、阪大医学部自治会室で大阪府学連・兵庫県学連・和歌山大・立命館大自治会等八大学(阪大・市大・大阪府立女子大・大阪学大・神戸大・神戸外大・和歌山大・立命大)自治会が懇談会を開き、全学連の民主的運営と臨時大会開催を求める声明を出し、大会要求の準備委員会を設けることを決めた。しかし、大阪府学連は二月四日の評議員会で、 臨時大会要求は変えないが大会要求の準備委員会を設けることは組織的分裂につながると態度を修正している。
二月七日、関西の主流二派(共産同系、革共同系)が自治会代表者会議を開いて八大学自治会声明に反論し、この後第二二回中央委員会で指導部に排除された主流・少数派(革共同)が二月一八日に代表者会議を開いて主流多数派(共産同)を批判した。
こうして全学連は三派に別れて対立するようになった。反主流派の要求する全学連第一五回臨時大会は三月一六日目黒公会堂で開かれたが、代議員証交付を巡って紛糾し、主流・多数派がピケを張って他の二派を入場させなかったため大会は分裂し、以後全学連は分裂状態のまま安保闘争を闘うことになった。 なおこの時期の関西の状況は、 京都府学連は全学連主流多数派が、大阪府学連と兵庫県学連は全学連反対派がそれぞれ指導権を掌握している。
<統一を維持した府学連>
東京では学生単独国会突入を主張する全学連主流多数派と、安保国民会議や東京都青年学生共闘会議との統一行動を主張する反主流派間の行動の統一が不可能となり、反主流派は「東京都学生自治会連絡会議」(2)を結成している、 しかし、大阪府学連(反主流派が多数)は組織的分裂を避ける方針により大阪では主流派との行動の統一を維持した。
(2)「東京都自治会連絡会議」は全学連第一六回大会(一九六〇年七月)後「全国学生自治会連絡会議」となる。大阪府学連は同連絡会議と友好関係を保ちながらも、分裂の固定化を懸念して、参加を留保。
<安保闘争の連続スト最大動員のデモ>
府学連は、安保改定阻止大阪府民共闘会議の下で、六〇年四月以降連日のようにストライキ街頭デモを行い、大阪の学生運動史上最大の動員力を発揮した。
府学連の動員とスト等は次のとおり。
四月二六日一五〇〇名。 スト=市大経・阪大教養・学大池田・外大。授業放棄=市大各学部
五月一四日 一千人
五月二〇日 四五〇〇名。 府学連未加盟の関大一部・大阪府立社会事業短大(社事大) も参加。 スト=市大全学部・外大・女子大・学大池田経大(以上全日)、府大・社事大(部分)。 授業放棄=阪大
五月二六日 三五〇〇名。 スト=市大・学大天王寺・同平野・府大教養(以上全日)、女子大・府大農・経・工)、外大 ・阪大(以上半日) 。 授業放棄=経大 ・関大
六月四日 前夜から市電の霞町車庫等にピケ要員三〇〇名を派遣して大交ストを支援。 牛後から扇町で開かれた府民大会に七千名。 新たに梅花女子短大・大阪商業大学(商大)・大阪工業大学も参加。 スト=市大・阪大・府大・女子大・外大・学大・経大(以上全日)。 各大学では破防法、警職法以来の教職員との共闘集会が開かれた。 阪大は扇町の府民大会会場まで教授団を先頭にデモ。 府学連デモは淀屋橋から大阪では初めての「フランスデモ」を行い、本町二丁目交差点では機動隊と対時して三〇分座り込み。
六月一一日 雨の中を千名でデモ。スト=市大(医・商を除く)・外大・女子大・阪大・学大、経大はスト又は授業放棄。
六月一五日 国労のスト拠点竜華操車場に前夜からピケ要員五〇〇名を派遣。 デモは八千名。 府学連未加盟の桃山学院大学(桃大)・大阪工業大学(工大)の学生も参加。スト=全加盟自治会(市大・阪大・学大・外大・府大・女子大・経大・関大二部・市大二部)。 夜学生も二一〇〇名
六月一六日 前日の国会デモで東大生樺美智子が機動隊に殺されたことに抗議し、大手前公園で五八〇〇名の緊急抗議集会を開き、府警本部前で一時間の座り込み、 自民党府連にも抗議後、雨の中を弔旗を掲げ喪章を付けて扇町公園まで無届けデモ。 夜間は全大阪青年婦人学生会議の抗議集会参加し、中央郵便局までデモ
六月一八日 九千名以上。 府学連未加盟の梅花女子短大も参加。府学連加盟全自治会がスト。府警本部前に座り込みの後難波までのデモ。 この日は先発の労働組合が御堂筋で労組組合としては、初めて「フランスデモ」を敢行したが、後に続いた府学連も途中戎橋で機動隊の阻止線と対峙して座り込み。 夜に入って関大二部等夜間学生三千名もデモ
六月一九日 「安保無効・岸退陣」要求の独自デモ。一五〇〇名
六月二〇日から全組織で三日間の連続スト
六月二一日 雨の中二千名。 府警本部へ抗議の後大阪駅までデモ
六月二二日 国労スト拠点の宮原操車場に前夜から支援ピケ隊八〇〇人を派遣。 横なぐりの激しい雨の中や空き列車で夜を明かし、翌二二日早朝国労集会に参加。午後三千人で靭公園から中之島まで無届けデモ
<安保闘争への高校生の大量参加と生徒会連合結成>
前年、 大教組の勤評闘争を支援して高校生が活発な動きを見せたが安保闘争には多数が参加した。高校生が集団として登場したのは六月四日のデモから。
六月四日、高津高校生徒会が参加を決議。(3)清水谷・住吉・夕陽丘・布施・八尾・山本・泉尾・今宮工等三三校三千名(府高教組調べ)。 六月九日には府高教組が自主的参加を呼び掛けたが、これに応えて六月一〇日の夜間集会には市岡高校定時制の生徒四〇〇人参加。 六月二日三千人、六月一五日五千人と参加が増え、六月一六日北野高校定時制生徒有志七〇〇人が樺美智子追悼の授業放棄で扇町までデモ。 六月一八日には北野・住吉・高津・岸和田等七千人が大教組のデモの後について行進。
このような安保闘争の高まりの中で高校生の自治意識が高まり、ー一月一三日には大阪府定時制高校自治会連合(大定連)が発足。 大阪府高校生徒自治会連合(大高連)も二月中旬の結成を目指して運動を進めるが、府教育委員会、各校校長はこれを阻止する姿勢を示し、一方府高教組と大教組は生徒の運動を支持した。特に、定時制高校の生徒会は学習環境の維持改善、社会的地位の向上(全日制との差別の解消)、福利の増進(育英資金等)」等切実な課題を掲げている(『毎日』60・10・10、12・30)。
(3)高津高校 表王寺区東高津北)の生徒会は五月二九日から連日生徒会をひらき、 安保反対の運動方針について協議して、六月一日の生徒会で「四日の統一行動に生徒会の名で参加しよう」ということを決定し、同日午後、学校側に統一行動参加の承認を求めた (『毎日』60,6,2 夕刊) 。 校長は参加を思い止まるよう説得を重ねたが、四日第一時間日からの教員の職場集会と歩調をそろえて午前八時三五分から各教室で ホーム・ルームの集会を開いた。「学生よ立ち上がれ」「国民の声を聞け」などのデモ用のプラカードを立てかけた教室の中で”安保問題″ で論議し、一日に投票で決めた統一行動参加方針を再確認、午前中の授業を受けたのち、午後の扇町公園の府民大会に全員(二二五〇名)が参加し、デモを行ったのである (『毎日』60・6・4夕刊)。
<浅沼刺殺に抗議>>
社会党の浅沼書記長が一〇月二日右翼少年に刺殺されたことに抗議して、府学連は翌一三日午後三〇〇人で府警、自民党に抗議し、天満から中之島まで無届けデモ。 一四日の全大阪青年婦人学生共闘会議の集会、二六日の「平和と民主主義を守る大阪府民総決起大会」、二〇日の社会党大阪府連葬等にも参加している。
二、安保後から一九六四年迄の動向
1 安保後から六三年までの府学連の運動
<私学授業料値上げ反対闘争>
安保闘争に高揚した府学連の運動が、安保闘争終了による挫折感を脱却し、これを克服する闘争は、次のように授業料など物価値上げ反対闘争を通じて展開された。
<一九六〇年秋から六一年>
一九六〇年秋、私学の授業料値上げ案の発表が相次ぐ中で二月一五日、関大・経大・立命館・同志社・関学の五大学で共闘組織が結成された。 市大も私学学生だけの問題ではないとこれにオブザーバー加盟し、大阪府学連は二月二五日、京都府学連も一二月六日、支援を決定した。関大二部では三月一五日の法・文・経済・商全学クラス討論で一六、一七日の抗議ストを決議し、一六日は抗議集会を行った。一九日はクラス討論、二〇日には学生大会を行うなど二一日の冬休みまで闘争を続けた。その結果一八日には学長が二部学友会(自治会)と話し合い、「一部および二部学友会・教職員組合・教授会理事会の四者協議会を作る。それまでは現状のまま進展させない」と約束した(『毎日』 60・12・17、 12・19、12・22) 。 各大学でも学生自治会との話し合いの姿勢を示し、問題は翌年に持ち越しとなった
<諸物価値上げ反対闘争>
一九六〇年一二月二一日、国鉄が大幅な運賃値上げ案を発表し、政府は一九六一年一月五日これを承認する考えを明らかにした。 既に私学の授業料値上げが問題になっており、 国公立大学・高校の授業料直上げも一九六一年度予算案に折り込まれた。値上げは国鉄が定期料金で四四%、 国立大学授業料で三三%等、学生生活への影響は極めて大きいので、六一年一月九日、近畿六府県七三大学の学生部課長・厚生課長が運賃値上げ反対の実行委員校を選出、 一〇日に阪大で開いた合同会議は、「定期券値上げは学生生活に重大な影響があるので慎重に考慮されたい」と国鉄に要望することを決めた(『毎日』, 61・1・10~11)。
私学の授業料値上げは私立大学連盟加盟五一校の内四六校に及び、値上げ幅は平均四万三一五三円と大幅なもので、入学金や校友会費等も値上げされることになった(『毎日』 61・1) 一月二〇日、大阪府学連八〇〇人は全大阪青年婦人学生共闘会議主催の「青年の生活と権利を守る決起集会」(於中之島公園、 一千名)に参加、 国鉄関西支社までデモ行進をし、 バスでやってきた京都府学連五〇〇人と共に、国鉄関西支社長を激しく追及、その後大阪駅中央コンコースで乗客集会を行った。一月二四日には地評, 婦人団体府学連等二〇団体で「公共料金と物価値上げ反対大阪懇談会」を結成した (『毎日』. 61・2・6)。
<政暴法反対闘争>
六一年六月三日の政治的暴力防止法案に反対する大阪府民共闘会議の決起集会に府学連は一千人参加、難波までのデモを行ったが、難波・商街会館前で機動隊と衝突し学生側に重傷一名と軽傷五名が出た。六月六日の府民共闘会議の統一行動に府学連は一五〇〇人が参加し、大阪中央郵便局前で二名が逮捕されたが(二時すぎ釈放)、六月八日にも一千人が大手前で機動隊と衝突、学生一名逮捕、重傷二名軽傷八九名を出した。
<臨時工業教員養成所新設反対>
文部省は工業教員を養成するために国立大学に三年制の臨時工業教員養成所を新設することにし、近畿では阪大や京大が対象となった。五月一九日、阪大学生自治会連合は、学生部次長制新設と臨時工業教員養成所設置反対で学長等と深夜まで交渉し、三年制では不十分な教育しか出来ない、 四年制の工業教員学部 といったものを設けるべきということで意見一致した (『毎日』61・5・20)。
<市大差別事件>
大阪市大で女子学生に対する部落差別のビラが張り出される差別事件が発生し、 大阪法務局人権擁護部が調査に乗り出したが、大学はこれを重視し「差別問題対策委員会」を設け、大学協議会(大学の最高機関)が一二月一九日に「部落問題全学集会」を開いた (『毎日』’61・11・1、『大阪市大新聞』一九三号) 。
<高校等で紛争多発>
勤評闘争・安保闘争以来生徒が行動を起こす事件が多発し、 中学校生徒にまで及んできた。府立八尾高校定時制では、府高教組の学力テスト拒否闘争による教員の処分の撤回を要求して生徒会が六二年一月二五日から二月一七日まで四週間にわたって授業拒否したが、大阪商業大学付属高校(私学)でも五月二一日、 賃上げ闘争による教員の解雇処分に怒った生徒が大学本部に雪崩込み六人が負傷。
PTA が学校側の不誠実に反発して生徒の登校拒否を決議し、生徒会が同調して六月五日から一〇日まで同盟休校した(二〇二五~六頁参照 ,4巻)。 二月一六日には処分された先生を返してと、泉大津市立第二中学校の生徒一〇〇人が教組のデモに参加し、 四月九日 には和泉市立山手中学校の生徒二〇人が教員異動に反対して市教委に陳情した。
<盛り上がった大学管理法反対闘争、改憲阻止闘争>
六三年三月一七日の憲法調査会近畿地区公聴会(大阪・コクサイホテル)と、七月二一日の名古屋鶴舞公聴会 (名古屋市公会堂)に対し、旧全学連主流派社学同系の大阪市大生等が激しい阻止闘争を行い、名古屋では重体一名、重傷三名など学生二三名が負傷した(『毎日』62・3・17、7・21)。
一方、府学連は四月二七日、核実験反対・憲法改悪反対集会を大手前公園で一千名が集って開いた。
六月二〇 日中央教育審議会が大学管理制度改革法案を発表した。これに対して関西三府県学連で構成する「大学管理制度改悪反対関西学生連絡会議」はすでに六月一三日に、大学管理制度反対で六月二一日に統一行動で決起するよう全国に呼び掛けていたが、府学連は二一日、市大・阪大・府大・女子大・学大・外大・経大・工大・近大等二五〇〇人を中央公会堂に集め、中之島か難波までデモを行った。
その際に警官隊との衝突で五名の逮捕者(1)、ニ一名の負傷者を出した。六月二九日には大教組・国民文化会議との共闘集会に二千名参加(『大阪市大新聞』二〇六号)。一一月三〇日、市大(商・経・法・文・理)が全日スト、阪大教養・学大・市大(工・家政・医)が半日授業放棄を行い、同日、府学連一七〇〇人がデモをした際、三名逮捕された。さらに一二月八日にも市大は全日スト 、阪大は授業放棄を行った。
(1) 六二年六月二一日の大学管理法案反対デモで市公安条例違反容疑で逮捕された桐村彰郎府学連執行委員、新保寿雄府大自治会執行委員、島顧忠阪大理学部自治会執行委員の三名を、大阪地検は一二月四日公安条例違反・公務執行妨害で起訴した。
<流産した大管法>
大学管理法案上程を政府が諦めたため、 焦点は国立七大学学長を認証官にするという問題に移った。一九六三年一月二〇 日、阪大の大管法対策連絡協議会(教職員組合、学生自治会連合)が、大学の問題は民主的に解決されるべきである旨の共同見解を文部省に送った (『毎日』, 63・1・20)。 尚、一月二四日には市大教養部は認証官反対でストを行った。
<授業料値上げ反対闘争>
六三年一一月六日、 次年度から授業料値上げが予定されている私学の八大学自治会(関学・同志社・立命・大工大・大経大・桃山学院・近大・大南大)が値上げ反対の共闘会議を結成し一一月二二日に統一行動を行なう事を決めた(『毎日』 63・11・7、11・12)。
関学では一一月二二日、神学部を除く六学部が授業放棄、ー二月一〇 日には法・文・社会学部がスト、経・神が授業辞退を行い、二日には理学部も授業辞退に加わった。しかし、大学理事会は一二日、奨学金の増額を付帯して値上げを決定した(『毎日』, 63・11・22、 12・11、12・13)。
一一月二七日大阪市大の大学協議会は次年度から授業料を三千円値上げすることを認めたが、これに反対する自治会は一一月二九日に教養学部がスト入り 、午後市議会決算委員会前で座り込みを行った。
ー二月一七日には全学部スト、併行して市庁で徹夜座り込みに入り、翌一八日から二学生がハンストに入った。ー二月二四日も座り込みを行い、続いて翌二五日にも市事務局が築いたバリケードを突破して座り込んだが、警官隊のゴボウ抜きで排除された。
2 府学連の分裂
<分裂した全学連と統一に努力した関西>
安保闘争後、全学連主流派内も分裂を繰り返えし、一九六一年一二月一五~一七日に開かれた全学連第一八回臨時大会は「マルクス主義学生同盟」(革命的共産主義者同盟全国委員会派)単独大会となり、全学連は完全に分裂した。
これに対して関西では六一年一二月大阪市大に、 旧全学連主流派の社会主義学生同盟系や全国学生自治会連絡会議の構造改革派など京都・大阪・兵庫・香川・和歌山の一八大学四四自治会が大阪府学連・京都府学連・兵庫県学連共同の招請で集まり、 関西規模での行動の統一を確認し関西学生自治会連合準備会を設けることを決めている。
<遂に府学連にも亀裂>
その後、 この関西学生自治会連合準備会の動きを引き継ぎ、六二年七月に東京で社学同(社会主義学生同盟)、社青同(社会主義青年同盟)、構造改革派の三派が、マル学同(マルクス主義学生同盟)単独の全学連大会とは別に、 自治会代表者会磯を開いたが、共闘のあり方を巡 る対立で三派の統一を果たさなかった(『大阪市大新聞』二〇七号)。 一方、全国学生自治会連絡会議のうち共産党系は八月に「平和と民主主義を守る全国学生会議」(平民学連) (1)を発足させ、独自に全学連を再建する方向に向かった。この平民学連には大阪府学連傘下の府立大学・府立女子大学・府立社会福祉事業短期大学の府立三大学自治会が参加し (資料戦後学生運動』六巻四四九頁)、大阪府学連にも亀裂が入った
(1)一九六一年の日本共産党第八回大会前後の大量の脱党、除名が影響し、全国学生自治会連絡会議に共産党系と構造改革派の分岐が生じていた。
<分裂した原潜阻止などの闘争と相次ぐ逮捕者>
一九六三年五月三一日、原子力潜水鑑寄港阻止・日韓会談反対・東大ポポロ座事件判決破棄等で府学連七二〇人が天満橋から中央局までデモを行い、途中で市大生六名が逮捕され、十数人が負傷した。
六月一五日、兵庫県学連・京都府学連・大阪市大・和歌山大等三五〇〇人が、神戸市役所前で原子力潜水鑑寄港阻止全関西学生総決起会を開き、激しいデモを行った。 一方大阪府学連は「平民学連」加盟している府立三大学自治会との関係を重視して神戸の集会には参加せず、中之島で阪大・外大・府大・女子大・桃大等七〇〇人の集会を行った。六月二五日の安保府民共闘の「原子力潜水鑑・F105D 配備反対統一行動日」に、市大は全学ストに入り、同日の府学連の一五〇〇人のデモにおいて、二名が逮捕され、三〇名が負傷した。一〇月三一日、「改憲・核武装阻止・原潜寄港・日韓会談反対・池田内閣打倒・青年の生活と権利を守る全大阪青年婦人学生総決起大会」(於扇町公園、七千名)に市大など少数が参加し、デモにおいて五名逮捕された。ー一月二九日には、府学連独自で七〇〇人のデモを行った。
一九六四年四月一六日、青年婦人学生共闘会議主催の「日韓会談反対、春闘勝利」デモで市大生が二名逮捕され、五月二九日の五〇〇名の府学連デモにおいても市大生が八名逮捕された。六月一九日新政暴法と憲法改悪反対等のスローガンで大阪府学連・京都府学連・兵庫県学連が共同して「関西学生総決起大会」を京都円山公園で開き、 阪大一四〇〇人など五二〇〇人を集めた。デモでは二百数十人の負傷者を出し市大生一名が逮捕され (『大阪市大新聞』二四六号) 。六月二五日の府学連の七〇〇名デモでも二名逮捕された。七月三日の憲法改悪阻止・憲法調査会答申反対府民大会(於扇町公園、三千名)に、府学連は六〇〇名が参加した。
八月二日、社学同等新左翼系が大阪で「全国労働者学生集会」を一七〇〇人で開いた。九月二七日の「原子力潜水鑑寄港阻止西日本国民集会」(佐世保) に大阪府学連は市大・阪大・経大から代表を派遣した。一〇月一六日、原潜寄港反対集会(於扇町公園、七千名)に府学連六九〇人。 市大生一名逮捕。一〇月二九日、府学連六〇〇人デモ、五名逮捕。 二月一二日、神戸で「原子力潜水鑑寄港阻止全関西学生集会」(大阪府学連・京都府学連・兵庫県学連共闘会議共催)に五二〇〇人結集。
大阪府学連参加は阪大、工大、経大、学大、関大、市大。 市大は午後から授業放棄。 日韓条約に反対する闘争は翌一九六五年一二月まで続けられた。
<授業料値上げ反対闘争>
大阪府は昭和三九年度当初予算で府立の大学と高校の授業料値上げを一旦は見送ったが、ー二月府議会に大学授業料の値上げを提案したため一二月九日、大阪府立大・女子大・社会事業短大の自治会六〇〇人が値上げに反対して府庁に詰め掛け、 知事に反対の申し入れを行った。
授業料等の値上げ反対闘争を進めていた関大二部で一一月一二日と一一月一八日の二度にわたって闘争委員会が体育会系の学生に殴られて負傷する事件が発生、大学も暴力を振るった学生の処分を決める方針を固めた。 (『毎日』 64.11.20)。
<自治会への相次ぐ処分、弾圧>
一九六二年一二月五日、授業料値上げに反対し大阪工業大学(工大)二部自治会が授業放棄、ー二日には座り込みを行ったが、一九六三年一月二七日大学は自治会委員長に停学一ケ月等六名の処分を行った。
大阪市大大学協議会は六三年七月二日、六月二五日の全学ストで自治会がバリケードを築き学生の入構を阻止したことで懲戒委員会を設置した。これに対して八月二二日から学生三名が無制限ハンストに入った。懲戒委員会は八月二三日八木孝昌自治会委員長の無期停学処分(実際は一ヵ月)を決定(『毎日』, 63・8・24、『大阪市大新聞』ニニ八号)。 ー二月二八日、大阪地検が大阪市大自治会の藤本昌昭・八木孝昌・多名賀哲也の三役員を公安条例違反で起訴。
大阪外語大学は九月一三日、学生自治会に「学生心得を守らない場合、九月三〇日を以て解散させる」と通告している。
また、府立三大学(府大、女子大、社会事業短大) でも、ビラ・ポスター、集会の許可制を巡って自治会への規制が強められている (『大阪市大新聞』二三〇号) 。
六四年一〇月一〇日大阪地検は市大の八木孝昌執行委員を四月一六日の「四・一七公労協スト支援、原子力潜水艦寄港阻止」(全大阪青年・ 婦人学生共闘会議) のデモの際の公安条例違反容疑で前年一二月に次いで再度起訴。 二月二四日、大阪学大は一〇月一二日の原子力潜水艦寄港阻止のための府学連評議員会を学内で無届けで開いたと自治会役員一〇名に停学一カ月の処分を行った。 (『毎日』’64・12・15)
<大阪府学連の分裂>
一九六一年八月に結成した共産党系の学生自治会(平民学連)は、六四年一二月一〇~一三日単独で「全学連再建大会」を開き、このため大阪府学連から府立系三大学が離れ府学連の分裂も決定的になった。 (『大阪市大新聞』二五五号) 一方、社学同系、社青同系、構造改革系の三派は、ー二月二一日東京で全国自治会代表者会議を開き原潜寄港阻止、 日韓条約阻止共闘会議」を結成、大阪府学連もこれに参加した。(井上淳一)