「増補改訂 ’70年版 全学連各派 –学生運動辞典–」(1969年12月15日発行)より
以下の文章は、1969年発行の「学生運動辞典」から引用したものです。
五 構造改革系各派
【構改派の系譜】構改派はもともと、五〇年代後半ごろから顕在化した日本共産党内部の戦略論上の意見の対立から生まれてきたものである。 いわゆるイタリア共産党のトリァッチ路線の導入によって、理論形成が行なわれた。 それはひとくちにいえば、日本の現状を日本帝国主義が自立発展しているとし、日本革命の戦略は直接的に社会主義革命をめざす一段階革命であるとするものであった。 この理論は共産党中央の二段階革命戰略とするどく対立し、構改派は六〇年安保後相ついで脱党あるいは除名された。 したがって、構改派の学生、運動を理解するためには、その上部政治団体のたどった通程との関連においてこれを知る必要があろう。 いま、それを略記すると次のようになる。
日共第8回大会三十六年七月八日、中央統制監査委議長春日庄次郎は、党の新綱領草案に反対して脱党、つづいて中央委員・ 山田六左衛門、 西川彦義、内藤知周、亀山幸三、中央委員候補・内野壮児、原全五が春日に同調して脱党。 この七名が全国世話人となって、三十六年十月七日から三日間、創立総会を開き、社会主義革新運動準備会を結成した。議長・春日庄次郎、副議長・山田六左衛門、事務局長・内藤知周。
ところが″反日共中央”で大同団結した社革内部は、社革の性格を各グループの連絡協議組織とし、構造改革論を主柱に、目共、社会党、無党派などから同調者を糾合しようとする春日らの″サークル派〟と、前術党を目標として綱領を持ち、ただちに組織整備に直進せよという、西川らの″綱領派”との対立が激化。 三十七年二月の第三回全国委員会で、参院選対策をめぐり遂に分裂、春日派は四月正式に離脱して五月に統一社会主義同盟を結成するに至った。統社同は代表委員・春日庄次郎、山田六左衛門、書記長・村田恭雄の陣容。一方、春日らの脱けた社革では、西川彦義議長、内藤知周事務局長を選出した。 その後、三十八年九月の第三回全国総会では新しい前衛党をめざして組織の名称から″準備会“をはずして社会主義革新運動となり議長に内藤知周を選んだ。
青年、学生組織としては、安保後、分裂した全学連内の代々木系組織である全国学生自治会連絡会議(全自連) のメンバー佐竹徹、黒羽純久らが、春日派の脱党に呼応して全学連再建準備協議会を三十六年七月に、 また八月には民青革新委員会を結成した。 このため全自連は崩壊する。十月、社革準備会の発足とともに全学連再建協と民育革新委は、社会主義青年学生運動革新会議を結成し公然と民青系と対立した。
社革を離脱した春日派は、 統社同の下部組織として、三十七年五月、社会主義学生戦線(フロント)を結成、これに対し社革側は日本共産主義青年同盟準備会を持った。 共青同は社革分裂前から、所謂”綱領派”が青学革新会議では実際の活動ができないと組織を進めていたもので、三十七年一月に旗上げし、八月末、広島で全国結成大会を開催、全学連再建および主導権獲得をきめた。
その後、共青同はフロントとともに構改派連合を形成し、反マル学同戦線として、社学同、社青同と三派連合を組み、憲法公聰会反対關争、大管法阻止關争を統一行動でたたかう。 三十八年一月、社学同、社青同、共青同=構改派の三派連合によって、都学連再建大会が開かれた。 しかし六月には、構改派は社学同、社青同のラジカルな行動を嫌って三派速合から離れた。
一方、三十八年九月、新たに民主主義学生同盟(民学同)という学生組織が結成された。これは大阪市大の小野義彦教授指導の下に、平民学連から分裂して生まれた。構改派の組織であったが、後に日本共産党(日本のこえ)の系列下に入る。
三十九年五月十五日、日共幹部会員・志賀義雄は、党議に反して国会で部分核停条約に賛成。 参議院議員員・鈴木市蔵と六月、日本のこえ同志会を作り、機関誌『日本のこえ』を創刊し日共正統派を標榜して中共路線に傾斜した党中央への批判を展開した。つづいて中央委員・神山茂夫・中野重治が志賀支持を明らかにしたため、 四名は十一月の第九回党大会で除名され、十二月二日日本共産党(日本のこえ)を結成した。
民学同は小野教授が″親志賀系”だったことからこの傘下に入ったわけであるが、民学同とは 別個 に、大阪市大の構改派が脱党して、三十八年十一月、平和と社会主義をめさす学生同盟を結成した(これは四十一年八月、統一共産同盟となる)。
四〇年十月、日本のこえ派が″反代々木派″の結集を呼びかけると、社革はただちに呼応、統社同内でも春日庄次郎、原全五らが十一月社会主義統一有志会を作って同調し”新党”結成への動きが高まった。 こうして四十一年三月二十一日、「共産主義者の大同団結を呼びかける全国活動家会議」が東京で開かれ、組織統一準備委員会(委員長・志賀義雄)が発足した。
反代々木勢力の”総結集”は、これらの諸組織の発展、運動の拡大が予期していたよりも進まず、日共からは常に″現代修正主義”として攻撃され、トロツキスト系からも、”改良主義”と批判されて、あせりがあったことから促進されたものとみられる。
社革内部では最大組織の東京で西川彦義、中村丈夫、野田弥三郎らが別党コースに反対し、七月、またも分裂した。西川は日本勤労者解放連盟を作り、中村らは十一月に社会主義労働者同盟を結成する。
このような過程を経て、ようやく”新党”が結成される運びとなったが、中心人物の志賀が突然、結党中止をいい出して脱落。 四十一年十一月十二~十四日の統一大会を「前期」結党大会とし、翌四十二年二月四日~十四日の「後期」結党大会で、社革、こえ派の多数、統一有志会、 無党派合同による共産主義労働者党が正式に発足した。 役員は中央常任委員に内藤知周、長谷川進(家坂哲男)、一柳茂次、由井警(以上社革)、いいだ・もも、戸原酸二、原宏、樋口篤三(以上こえ)、武藤一羊(小野弘)、栗原幸二(柴田三郎)、大塚正立(堀田三郎) (以上無党派)を選出。 後に内藤が議長、いいだが書記長に就任した。
志賀はじめ、神山、中野、鈴木ら、こえ派首脳が新党から脱落した背景には、中共路線から自主独立路線に転じた日共と、ソ連との間に新たな接近の可能性が生まれ、″第二共産党” 結成を抑制しようとする働きかけがあったといわれる。 その後四十二年十月には神山、中野が、こえ派から″組織的に断絶”する。 この結果、四十三年五月、こえ派は「日本共産党」を組織名称からはずし、単に政治結社日本のこえと名乗る、志賀中心の少数派になった。
学生組織は、共労党結成とともに民学同内に共労党系と日本のこえ系との二つの系列が生まれ、前者は民学同(左派)、後者は民学同(こえ派)と称せられた。 しかし四十三年三月に至って、民学同(左派)は組織的に分離して完全に共労党指導下に入るが、これはさらに四十四年三月、プロレタリア学生同盟(委員長・ 茂山正広)と改称する。
一方、社革内で新党結成に反対、社会主義労働者同盟-を結成した中村丈夫らは、四十三年三月、その下部組識として共産主義学生同盟を新たに組織した。 この時点で構改系学生組織は民学同左派(後にプロ学同)、民学同こえ派、共学同、フロントとなるが、これらが四十二年十月全国自治会共同闘争会議に結集されたわけである。 同じ構改派学生組織によってベトナム反戦学生共同間争委員会も作られた。
四十四年に入って、五月の共労党第三回大会で、戦略方針をめぐって内藤派といいだ派が対立、内藤は議長を辞任、いいだ派が主導権を握り、トロツキスト勢力との”共闘〟路線をおしすすめていくことになった。 内藤派の長谷川浩(元日共中央委員)、内野壮児らは四十四年十月、労働運動研究所を設立した。
一方、統社同も九月二十一日~二十三日の第八回大会で山田六左衛門議長と安東仁兵衛書記長が辞任、小寺山康雄識長、高田麦書記長が新たに登場し、従来の構革路線を否定、結成以来の転換点に立っている。
共学同は、四・ 二八の沖繩闘争にさいして、中核派、社学同、学生解放戦線、第四インターと連合して″安保粉砕・日帝打倒”の戦列に加わった。 激化し流動化する学生戦戦のなかで、構改派は新たな課題に直面したわけだが、反代々木系八派連合による九月の全国全共闘連合結成へ向って、構改派学生戦線は両編成の時期に直面し、七月新たにフロントとプロ学同が中心となって、安保粉砕全国共闘が結成された。 その底流には、フロントとプロ学同の組織統一間題があり、組織統一によって全国全共闘内部での発言力を強めることが意図されているようである。 しかし、統一は秋期安保決戦以降に延期され、それまでは反帝統一戦線形成のため原則的な理論闢争、党派關争による共關関係のカッコたる確立が叫ばれている。 構造改革路線はいま大きな再編成の時期にさしかかっているといえる。 (→「戦後学生運動小史」、「民青系全学連」の項参照)。
1、安保粉砕全国学生共闘会議
【結成】昭和四十四年七月十六日
【構成】フロント(社会主義学生戦線)、プロ学同(プロレタリア学生同盟)、構改派系全共闢
【経過】安保粉砕全国学生共闘会議(安保粉砕全国共闘)は、昭和四十四年七月十五~十六日、東京法政大学に七〇〇余名を集めて結成大会を開いた。
これは、<六七年砂川聞争に始動点をもち、六八年一〇・八羽田闘争を飛躍台とした、あらたな反戦闘争の質は、本年四・二ハ沖縄闘争において、反戦青年委員会と左派学生戦線が政府ブルジョアジーとの安保正面戰に登場したことによって、新たな地平を拓いたと同時に、その限界点をも露呈した。また、六八ー六九年全国教育学園闘争は、全共闘運動にその新たな質を析出すると同時に、”安保推進佐藤帝国主義政府打倒″の意織性に裏うちされた秋期安保政治決戰へ向けては、未だ一定の脆弱性を内包しているといわなければならない。これまでの反戦・反安保闘争、数育学園闘争を自治会全共闘運動において、あるいは各大学全共關の最前線において担ってきた全国の戦闘的学生は、フロントとプロ学同に領導されつつ、これまでの運動形成の一切の弱点を自ら大胆にあばき出しつつ、そのすべての総括こふまえて、安保政治決戦とそれに向けての学生戦線の革命的再編成の事業を根底から担う機関> (『平和と社会主義』一七六号)として結成されたもので、これまでの構改派系諸派の学生連合組織であった全国自治会共關会議の発展とみることができる。(以下 省略)
2、社会主義学生戦線全国協議会 (全国フロント)
【結成】昭和三十七年五月。 全国フロントは四十四年三月発足。
【上部政治団体】統一社会主義同盟=三十七年五月三日結成。 議長・小寺山康雄、書記長・高田麦、大森誠人
【所在地】社会主義学生戦線中央書記局=東京都千代田区神田、現代社内
【役員】社会主義学生戦線全国協議会事務局代表・〇〇〇〇、全都フロント委員長・〇〇〇〇(東教大)、全国全共闘書記局員・ 〇〇〇〇(東教大)、全関西フロント・〇〇〇〇議長・〇〇〇〇 書記長
【拠点校】東大(教養)、法大(一社会)、慶大(全塾、日吉)、新潟大(民、歯、工、教養)、立命大(文)、神戸大(教義、文、理、法、経、経営、工、農)、関西学院大(社会)、神戸女学院大、富山大など。
【勢力】活動家=五六〇名。 一七自治会= 一八、七〇〇名。 動員力=五、六〇〇名。
【高校生組織】(構改派の合計)、高校生反戦協議会(高反協・東京)、高校生反戦連絡会議(高反連)、高校生反戦闘争委員会(高反委・東京)、高校反戦委員会など四十九=四〇〇名。 拠点校(東京=青山、早稲田、戸山など)。機関誌=『高反連』『高校生通信』
【機関紙誌】『最前線』(旧『平和と社会主義』)(旬刊)『若きジャコバン』(月刊)『構造改革』(月刊)、『フロント』『嵐をついて』 (月刊)、準機関誌『現代の理論』(月刊)
(以下 省略)
3、プロレタリア学生同盟 (プロ学同・民学同左派)
【結成】昭和四十四年三月
【上部政治団体】共産主義労働者党(共労党)=書記長・いいだ・ もも、副書記長・白川真澄(別名・西村光雄)、中央常任委員・武藤一羊(別名・小野弘)、樋口駕三、栗原幸二(別名・柴田三郎)、吉川勇一 (別名・田所進)、山口義行
【所在地】東京都新宿区住吉、共労党内。
【役員】プロ学同委員長・〇〇〇〇 、全国全共闘書記局員 〇〇〇〇(京大)、大阪府学連(反代々木系)委員長・〇〇〇〇(阪大)、〇〇〇〇(法大)、〇〇〇〇(中大)
【拠点校】(旧民学同左派、右派=志賀派の合計、 大阪大(教養、文、法、理、医、工)、桃山大(経、社)、大阪工大(一部)、島根大(農)、岡山大(医、教育、文)、大阪市立大など。
【勢力】活動家数= 一、一 〇〇名。 一〇自治会= 一五、六〇〇名。 動員力=八、三〇〇名
【高校生組織】全国高校生闘争連合を組纖。 (→「”全学連予備軍”高校生組織」の項参照)。
【機関紙誌】 『統一』
(以下 省略)
4、共産主義学生同盟 (共学同)
【結成】昭和四十三年三月
【上部政治団体】社会主義労働者同盟(社労同昭和四十一年十一月結成 議長・中村丈夫黒羽純久、丸山茂樹、小塚尚男
【所在地】束京都豊島区西池袋 社労同通信社
【幹部】〇〇〇〇 柴田誠(東教大、全国全共闘書記局員)、〇〇〇〇 渡辺嘉典(法大)、〇〇〇〇 水上垂之(東教大)
【勢力】少数
【機関紙誌】『新左翼』
(以下 省略)
5、民主主義学生同盟 (民学同=民学同こえ派)
【結成】昭和三十八年九月十五日
【上部政治団体】日本のこえ、代表=志賀義雄
【所在地】東京都新宿区荒木町
【役員】委員長・〇〇〇〇 (京大)、〇〇〇〇(阪大)、〇〇〇〇(阪大)、〇〇〇〇 (明大)
【拠点校】大阪市大、阪大など関西が中心。東京での活動はほとんどみられない。
【勢力】活動家数=三〇〇名。九自治会= 一六、一〇〇名。 動員力=一、三五〇名
【高校生組織】→「”全学連予備軍”高校生組織」の項参照。
【機関紙誌】〇『日本のこえ』『民主主義の旗』(不定期)
【主張】民学同の目的は、第一平和と平和共存のために闘う事である。 平和共存とは、体制の異なる諸国家間の民主的秩序を意味し、体制の異なる国家間の紛争解決の手段として武力を拒否する事である。その事は、社会主義諸国・先進国・民族解放勢力という平和共存のために關っている三大勢力と連帯し、ベトナム侵略戦争を続けている米帝国主義と闘うことであり、安保条約を結び、自ら東南アジア支配権を目指して侵略と反動政策をおこなっている日本帝国主義と闘うことである。
具体的には、安保条約破索、沖繩の基地撤去・即時全面返還、ベトナム反戦闘争勝利のために闘い、日本の核武装を阻止し、非武装中立を実現し、アジアに、平和共存秩序を確立する事である。
第二に、政府独占の全ゆる侵略と反動政策と対決し、労働者階級を中心とする反独占勢力と連帯し、反独占民主主義の為に闘うことである。
日本独占資本は、平和意法をはじめとする戦後民主主義を、きりちぢめ、形骸化しようと必死の策動をつづけている。 そして、その事は、一握りの独占資本と、それに反対する労働者階級を中心とする反独占勢力との対決を不可避にしている。ここに我々が、闘いを反独占民主主義闘争として(観念的「革命」闘争ではなく)押し進める根拠がある。 新しい民主主義は、単に防御的民主的なものに留まらず、社会、経済における民主的改革をも闘いとる積極的かつ攻撃的なものである。 我々は、そのために、広汎な反独占統一戦線形成のために闘う。
第三に、反独占民主主義闘争の一環として大学の民主的改革めざして闘うことである。現在、政府自民党は四月中教審答中を準備し、大学を独占資本の侵略と反動の道具に最終的に変えるため大学の反動的再編成を狙っている。我々は政府独占大学の反動的再編に対決し、それを粉砕する。 そして、それにとどまらず、行政的、財政的支配の強化によるなしくずし的な攻撃に対しても、それをはね返しうる保障を確立するためにストライキ確、団交権を駆使し、全学協義会を中心とする徹底した民主的改革をめざして関う。
教官層は、科学、真理の担い手として反独占の立場に立ちうる客観的基盤があるが、又一方国家の大学管理機構の末端に位置する為、往々にして、事務官僚を通じての独占の攻撃に対して闘うことが出来なかったという二面性を持っている。 又大学の自治を科学と民主主義、社会進歩という大学の使命のための保障として理解せず、自らの研究をかってにする事が出来る自由として往々に理解し、 その事を現行の大学の自治=教授会のみの自治という制度は、陰弊し、政府独占に有効に対決する事が出来なかった。
我々は、大学当局が学生対策的に提案している偽購的改革案を粉砕し、 実質上の最高決定機能をもつ全学協議会を中心とする徹底した民主的改革を闘いとり、中教審答申粉砕を共に闘う中で、教官層との闘う連帯をかちとり、闘いの中で彼らの世界観を変革し、大学を反独占の砦にするために關う。
第四に、帝国主義現代の反動的イデオロギーである「近代主義」(プラグマテイズム、実存主義)とナショナリズムに反対し、 学生の中に生み出される非合理主義とエゴイズムを克服すること。 そしてあらゆる進歩的、民主的、サークル活動の自主的発展のために闘うことである。 そのために同盟は、人間の意識から独立した事物の客観的運動法測の存在と、 その認識の可能性を承認する科学と民主主義の思想を強固に打ち固めることを自らの使命としている。
最後に、以上の日的のために、トロツキスト、民青の分裂主義、セクト主義を排し、層としての学生運動の再生めざし、その組織的保陣である全学連再建に向けて、当面、課題と大枠の戦術の一致に基づく幅広い共同行動を推進する。(『民主主義の旗』四十四年四月十一日号)
【歴史】三十八年九月、日共系平民学連の中から構改派が分裂、小野義彦(大阪市大教授)の理論的指導下にあった学生を中心に結成された組織。国際共産主義の総路線をめぐる論争と分裂の深化のなかで、共産主義運動についての意見の相違は問わず、当面の政治方針で一致しうる部分の民主的結集体として組織されたもので、「平和と平和共存、反独占民主主義」をスローガンにかかげ大阪市大を拠点として出発した。現在も小野教授の影響を強く受けている分子が多い。
三十九年十二月、部分核停条約に賛成し、日共を除名された、志賀義雄、神山茂夫、中野重治、鈴木市蔵らが日本共産党(日本のこえ)を作った。 これより前の七月、第二回平民学連学生集会が開かれたが、″層としての学生運動論“を提唱し、日本のこえの平和共存路線に同調する、京大、中央大の学生細胞を中心とする勢力があり、これらは平民学連から脱退して、日本のこえの指導下に入り、民学同に合流した。
三十九年後半からの京都や神戸での統一行動においては、参加学生の半数は民学同系だといわれるくらい、関西を中心に勢力を伸長させた。 三十九年十二月、日共=民青系全学連が再建されたが、 この準備工作に対して、構改派民学同系の大阪大学七自治会は、「学生運動分裂の歴史を総括し、現在の分裂状況を考慮に入れて、再建統一のための広範な討論を展開すべきである」と批判した。
四十二年二月、共労党が結成されると、民学同は左派と右派の二つの系列に分かれるようになる。民学同右派である志賀派は日本のこえの分解もあって少数派となってゆく。
四十三年三月、多数の民学同左派が完全に袂を分かったため、民学同は志賀派の日本のこえ系一本にしぼられることになった。(→「安保粉砕全共闘」、「民青系全学連」の項参照)。
6、統一共産同盟
【結成】昭和三十八年十一月
【所在地】大阪市北区万歳町
【幹部】藤田(大阪市立大)
【拠点校】大阪市立大中心の少数派。
【機関誌紙】『現代革命』
【性格】三十六年七月、日共第八回大会で大阪市大の構改派が脱党「平和と社会主義をめざす学生同盟」 を結成。 四十一年八月、統一共産同盟と改称した。 同じく構改派路線をとる民学同とは別行動をとって今日に至っている。 しかし、学生活動家数も少なく、構改派の少数派にとどまっている。