民主主義の旗 59号 1969年4月25日


民主主義の旗 59号 1969年4月25日
民主主義学生同盟全国委員会発行    PDF版

【主な記事】
沖縄基地撤去・即時全面返還・安保破棄
4.28全国統一行動に起て!

【同盟五年の歩み その5】情勢の転換と同盟の再編成
12、第三期(67年後半~)の特徴と同盟の闘い。
67年後半の内外情勢の新たな転換によって、同盟は-そして安保以降学生運動もまた一第三期の闘いに突入した。
67年l・1月のポンド切下げ、68・3月金の二重価格制採用へと展開する国際通貨危機と米帝のベトナム侵略の硬直後退とは、50年代後半以降の帝国主義世界体制再編成の胎動がその本格的展開期に突入したことの表現であった。数次にわたるゴールド・ラッシュによってより一層弱体化するドルの状況、ベトナムでの後退の公式の確認たるジョンソン声明(68・3・31)は、アメリカを盟主とする一元的帝国主義世界体制の没落の序曲であった。
かかる情勢の激動と転換及びそれに対処すべく強権的に展開される諸帝国主義国の延命、再編策こそが、フランスのいわゆる「五月危機」をはじめとする世界的規模での反帝・反独占闘争の激発を規定しているのである。
日本とてもその例外ではありえない。情勢の新たな転換の中で、東南アジアの覇権確保によって対応せんとする日本独占支配層は米帝への政治的軍事的後退の補完を通じて反帝解放闘争の進撃を阻止すべく狂奔した。ベトナム準参戦国化を意味するベト・訪米(67・9~11月)は、日帝の侵略的展開の端的な表現であった。国際的市場再分割闘争に対して産業再編成と合理化=その諸矛眉の人民への転稼によって対応し、反帝・反独占闘争の昂揚に対しては、エンプラ寄港(68・1月)を日本核武装への布石としつつ70年安保の実質的強化によって対応すること-これが日帝の戦略であり、政治的上部構造の反動的再編をめざす攻勢はますます煤烈化した。かかる条件下での学生戦線の闘いは、反戦政治闘争(67・68年)学園闘争(68・69年)を通じて、かってない探さをもって闘われる。これが第三期闘争の第一の特徴である。
第二の特徴は、先行の第二期に顕在化したトロッキー主義者諸集団による「全員加盟制自冶会の否定破壊=党派別連動化」の全面的開花であり、その裏面をなす戦術の極左化である。層としての学生運動の組織的保証たる全員加盟制自治会は、政府、独占の攻撃とも相まって、いまや累卵の危磯に瀕している。
わが同盟は、この激動の情勢下での闘いを、運動の大衆的展開=全員加盟制自治会の擁護=極圧戦術の拒否、労働者階級との連帯の旗印を掲げて闘い抜いた。
山崎君(京大)の死によって血ぬられた10・8訪ベト阻止羽田闘争(67年)を反戦青年委員会の労働者と、連帯した唯一の部隊として約八〇〇の学友を結集して闘った同盟は、10・21闘争の大衆的展開11・12訪米阻止羽出闘争へ、68・1月のエンプラ寄港阻止佐世保闘争等を通じて、ヘルメット・角材デモに象徴される極左的戦術を一貫して拒否して闘い抜いた。この一貫した原則的見地こそ、次に述べるような68年春期闘争での一定の後退を跳ね返し、68・10・21闘争で、党派別運動を主張する各派のボイコットの中で、総評労働者と連帯する大阪府連千五百名の隊列を形成する原動力となったのである。
だが、遺憾ながら、わが同盟の原則的闘いは、関西学生運動に一定の規定を与え戦線の分裂をくい止めてきたが、全国的には既定力を持ちえなかった。三派「全学連」に野合したトロッキー主義者諸集団は、その解体(68・3月)後、文字通り三派に分れて、反帝「全学連、」中核派「全学連」等を自称し、単位自治会とは無関係に赤色自治会主義に基づく党派別運動を展閲した。更に68年後半からは、「全共闘運動」なるスローガンの下に、公然と全員加盟制自治会の否定に到達しつつある。わが同盟は、かかる分裂主義を阻止すべく全力を尽して闘ったが、同盟の力量の不充分さは、それを未然に阻止しえず、それは今後の課題として残されている。

13、同盟内偏向の発生とその原因
内外情勢の激動と転換の下で、われわれの任務はより一暦重大なものとなり、それに応えるためには、より強固な隊列の構築-各自治会に於ける戦闘的多数派の形成-が要請されていた。トロッキー主義者の戦術の極圧化-運動の党派別展開の組織路線は永い分裂の過程で統一的多数派の形成の困難さに絶望した彼らが、それは代位すべく打出したものであり、本質的には激動期の情勢に規定された小ブル急進主義であった。
この小ブル急進主義的偏向は、遺憾ながらわが同盟にも発生した。むろん、指導部における意見の対立は民主的、大衆的学生同盟たるわが同盟に於いては当然ありうることであり、事実それまでにも幾度かそれを経験してきた。だが、67年以降顕在化した意見の相違は、系統的対立へと発展した。
67・3月第七回大会での核防条約の評価と闘争スローガンを巡る論争は、六月中東危機とグラスボロ会談を経る中で平和共存路線に疑問が表明されるまでに至り、第八回全国大会(67・9月)で総括、情勢・方針全般にわたる対立へと発展した。第八回大会は、全国委員会の二週間にわたる論争の中で統一提案作成をかちとり統一した方針を採択したが、その後も意見の対立は深化し、10・8羽田闘争の評価を巡って、具体的行動方針での対立にまで至った。トロッキー主義者諸集団のヘルメット・ゲバ棒による耳目衝動戦術の一時的「成功」に幻惑された彼らは、極左戦術に対する批判を回避し、後に彼ら自身「学生運動の左転換」と称するとロッキー主義への転換を推し進めた。これらの政治路線に於る対立と並行して大学自治論の対立も、67・4月以降、顕在化していた。そしてこの対立は、第九回大会(68・3月)の準備過程で遂に爆発し、一定の部分が同盟を離脱し別に民学同を僭称するに至った。
彼ら共労党派がその後傾斜した政治路線、及びプロレタリア学生同盟への改称(69・3月)その過程でのトロッキー主義に転換しきれない部分の脱落と少数派化の現状を見るとき、分裂は、同盟がおかれていた諸条件下に於ては不可避であったと言わざるをえないが、にもかかわらず、この過程を「われわれは一貰して正しかった」とする代々木派的総括ではなく、自己批判的総括を行う中で更なる前進への教訓とせねばならない。
何故、かかる重大な偏向が発生したのか?そして、何故に同盟は、分裂を避けえなかったのか?ーこの点の総括は、当然にも、日本民主主義連動との全般的関連の下でのみ答えうるのであるが、ここでは、直接の原因に限定して提起せざるをえない。
第一に、激動と転換期にある内外情勢の規定性を指摘せねばならない。既に述べた如く激動する情勢下での任務のより一層の重大化と同盟の限られた力量とのギャップが、小ブル急進主義の基盤たる焦燥感を発生させただが、レーニンも指摘する如く、情勢の転換点に於ては意見の対立あるいは偏向さえも発生することば自明のことであり、従ってこの第一点ば、対立の発生を説明しえても、それば最悪の結末を導く理由ではありえない。しかも、当初から同盟を分裂させる意図を持って対立が設定されたのでは明らかになく、彼らの問題提起も、正確に表現されていなかったとはいえ、転換簸の諸情勢を反映したものであったことを考えれば、なおさらである。
問題は、この小ブル急進主義的偏な焦燥に基く偏向を何故、全体としての同盟の隊列に包摂しえなかったかという点にある。この点の解朋は、既に述べたように、日本民主主義運動との全般的関連の下でのみ明確にしうるが、少なくとも次の第二・三点を指摘しておかねばならない。
第二点は、日本民主主義闘争-就中、その中核たる共産主義運動の混乱である。プロレタリアートを中核とする闘いが、転換期の情勢に敏速に対応しうる統一した隊列を形成しているときには、発生する小ブル的動揺も全体としてその隊列に包括されるのである。だが、それを指導すべき日本共産主義運動そのものが、深刻な分裂と混乱の中にあった。
第三点は、以上に述べてきた諸条件の下で、同盟が当時もっていた力量の限界である。この限界は次の二つの点に現われた。一方では、第四国大会以降の同盟全国化の過程で、異なる闘争経験と成立過程をもつ部分が加盟し、それら各支部間の同質化を全同盟的実践の蓄電の中で果すことを要請されていたが、完全にはなしえなかった。他方で、それに関連して、発生してくる小ブル的動揺をも包括する戦闘的運動を統一的に構築しうるまでには、同盟の力量は達していなかった。
むろん、プロ学同を自称するに至っている彼ら共労党派の今日の到達点を見るとき、先に述べた如く、同盟からの彼らの離脱は早晩不可避であった。従って、われわれが、あの不幸な経験の中でなさねばならないことば、否定的契機をも同盟の更なる前進の跳躍台とするための総括のの視点を確定することでなければならない。

14、第九回大会から第十回大会での同盟の再編強化
策九回大会(68・3月)は、共労党派の復帰を粘り強く呼びかけることを決議しながらも、彼らの離脱の確定を碓認せねばならなかった。
この間とりわけ第八回大会以降、同盟は、内部に発生した小ブル急進主義的偏向を克服する闘いに一定の力量をさかねばならず、そのために大衆運動に於る一定の後退を余儀なくされた。また、68年4月以降、脱落した部分が「民学同」を倦称し京大・阪市大等でわが同盟に対する暴力的破壊に狂奔するに至って、困難な闘いを闘わねばならなかった。だが、同盟は、この因難な過程を、各支部同盟員の不屈の献身性に支えられて、勝利的に闘いぬいた。
九大会前後の経験に学ぶわれわれは、①流動的情勢に敏速に反応する攻撃的闘いを、全戦線にわたって先頭に立って闘うこと②そのために、全同盟的実践を目的意識的に追求し、その中で同盟の支部連合体化の危険性を除去して、全同盟の同質性と全国委員会の強固な指導性を軸とする単一学生同盟の資質を形成し確保すること一総じて、同盟の高い党派性と強固な戦闘性を同盟の伝統との継承性に於て再確立すること③青年労働者層との交流・連帯を組織約に追求し、学生層の特殊性に基因する小ブル的動揺を除去すること等を確認して闘った。これらの実践こそが、今後に於ても発生しうる種々の偏向を、全体としての同盟の隊列に包括しうるための保証である。
同盟は、京大支部をはじめとして、共労党派による暴力的破壊活動を徹底的に粉砕し、大衆連動に於ても前進を開始しうるまでに至った。
10・21闘争では阪大七〇〇名を中核とする大阪府学連千五百を越える隊列を創出するに至ったのである。組織建設も第十回大会前後から急速に準み、今日では、共労党派の離脱によって一時解体させられた立命館、同志社、桃山大学支部をはじめ、次々と再建され、新たに十数大学支部の建設が成功的に遂行されるに至っている。
第十回全国大会(68・8月)はこの間の政治的、組織的闘いの成果を集約し、再編成を基本的に終了した同盟の今後の闘う方針と指導部を確立するために開催された。弟十回大会こそは、七大会から九大会の過渡期を乗り切った同盟が、新たな前進と飛躍の時期たる第三期に本格的に移行したことを告げる画期的意義をもつ大会であった。大会は、闘う指導部の形成を目標に、この間の闘いの中で成長した若い同盟員に全面的に指導体制を移行し、強固な闘う全国委員会を選出した。
68年9月22日、労働者、学生五百名の参加の下に、同盟建設五周年記念集会が開催された。諸政党・政治同盟・民学同歴代委員長の挨拶を含めて行われたこの記念集会は、文字通り、同盟五年の政治的実践の集約であり、同盟の更なる前進の開始を象徴するものであった。
(つづく)(S・F)

カテゴリー: 民学同, 運動史 パーマリンク