【書評】『核惨事!──東京電力福島第一原子力発電所過酷事故被災事業者からの訴え』

【書評】渡辺瑞也
  『核惨事!──東京電力福島第一原子力発電所過酷事故被災事業者からの訴え』
(批評社、2017年2月、2,500円+税)  アサート No.484 2018年3月

本書は、福島第一原発から北北西に18kmに位置していた南相馬市小高赤坂病院院長の「原発過酷事故被災事業者」からの訴えである。著者が院長を勤めていた病院は、地震と原発事故直後の3月12日(土)午後に避難指示の対象となった。この後の患者全員の避難転院、避難生活、そして損害賠償と救済と問題が山積している中での被災者/被害者としての立場からの問題の分析と批判の書である。
とりわけ本書で問題にされるのは、「原発事故による放射線障害をめぐる問題」(第2章)、「いわゆる“年間20ミリシーベルト問題”」である。これについて本書は次のように指摘する。
この数値は、ICRP(国際放射線防護委員会—-世界の原子力産業界が基金を拠出して設立した民間団体)がひとつの参考として2007年勧告で提示したものであるに過ぎない。この時点では文科省の放射線審議会での検討はまだ出ていなかったし、各国に強制するものではないとされていた。しかし「そうした中で福島原発過酷事故が起きてしまったために、原子力安全委員会がいわば独走する形で、しかも内部には異論はなかったかのように誤魔化しICRP2007年勧告を『国際基準であるかの如く』装って導入した、というのが真相のようである。いわば、年間20ミリシーベルト問題の源泉は原子力安全委員会の政治的決定にある、と言うべき経緯があったのである」。
しかもこのICRP勧告は、「緊急時被ばく状況」と「現存被ばく状況」という概念を提唱し、この境界値を20ミリシーベルトと設定していて、「20ミリシーベルト以下の現存被ばく状況は安全な環境などとは言っておらず、『20ミリシーベルトよりもさらに放射線量を低減させる努力が必要』と述べている」。「従って国が避難指示に関する行政権の執行に際して、この数値をあたかも安全基準であるかのように喧伝して被災者の生活圏域を一方的に決定して行くやり方は、政治的な意図に裏打ちされた行政権の過剰適用ないし乱用ではないかと思われる」。
ましてや文科省が出した通知(平成23年4月19日)「20ミリシーベルト/年に到達する空間線量率は、屋外3.8マイクロシーベルト/時間(略)である。したがって、これを下回る学校では、児童生徒が平常どおりの活動によって受ける線量が20ミリシーベルト/年を超えることはないと考えられる。さらに、(略)3.8マイクロシーベルト/時間以上を示した場合においても、校舎・園舎内での活動を中心とする生活を確保することにより、児童生徒の受ける線量が20ミリシーベルトを超えることはないと考えられる」としているのは論外である。
本書はこれを、「文科省が発出したこの衝撃的通知は、日本の将来を担う宝である子ども達を育てる責務を負う官庁が、驚くべきことに、空間線量率が3.8マイクロシーベルト/時もの高線量の環境下で、洗顔や手洗い、うがいや靴の泥を払いながら学校生活を送れと指示しているのである」と厳しく批判する。
またあまり世間では注目されてはいないが、IAEA(国際原子力機関—-これを管理しているのは国連常任理事国=核保有国)を頂点とする支配体制が放射線による健康被害を隠蔽している国際的なあり方も批判される。その中軸的協定(WHA12-40協定)は「WHO(世界保健機構)はIAEAの許可なしに放射線に関する事項を公表してはならない」とされている。同様の協定が、IAEAと福島、福井両県や福島医大との間に結ばれており、その「実施取り決め」文書には、「他方の当事者によって秘密として指定された情報の秘密性を確保する」という条項が含まれていた。そして「チェルノブイリ原発事故の放射線による健康障害は小児甲状腺がんと白血病だけであると断定したのもこのIAEA体制であるということもまた、よくよく知っておく必要がある」。
本書ではこの他、損害賠償金問題に関して、加害責任者である国が「税の公平性を守る」という屁理屈で被災者/被害者に「支払われた補償金に対しては課税」するという杓子定規で頑なな姿勢をとり続けていることも批判もされ、まさに「蛮行」がまかり通っているとされる。
さらに、原発事故時のみではなく、通常運転時にも常に放射能は漏洩していて人々の健康を害している—-トリチウムや放射性希カスの廃棄等の危険性についての指摘もなされる。
このように重大な諸問題が何ら解決されないまま、今また原発の再稼動が進められようとし、被災者/被害者が置き去られようとしている。本書はこう警告する。
「原発に絶対安全はない。これは紛う方なき真実である。問題は重大事故は『起きるか否か?』ではなく、『今度はいつどこで起きるか?』という問題なのである。/これは原発のプラントは未来永劫絶対に安全であるか?という問いと、住民はひとたび環境中に放出された放射性物質から安全に逃げきれるか?という問いと、人類は産業廃棄物たる使用済み核燃料を永久に、そして完全に安全に管理しきれるか?という三つの問いに対して、いずれも『否』であることを意味している」と。(R)

【出典】 アサート No.484 2018年3月

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