【書評】『漫画 君たちはどう生きるか』
(吉野源三郎(原作)、羽賀翔一(漫画)、マガジンハウス2017年、1,300円+税)
周知の少年文学の古典といえる書物であるが、2017年に漫画化され、非常な売れ行きを示している。岩波文庫本(1982年)では300ページを越えていて、読むときにそれなりの覚悟と持続力を必要としたが、今回のものは筋が漫画でスムーズに流れていて読みやすいのは事実である。しかも主人公コペル君への「おじさんのノート」の部分は活字のままなので、これもまたじっくり読むには適している。ということで、今なお汲むべき教訓に満ちた書である。
コペル君の呼び名となった経験—-デパートの屋上から街の人々を眺めて、「人間って、分子なのかも」とつぶやく。おじさんはこれを、天動説から地動説への転換を唱えたコペルニクスにたとえる。「君が広い世の中の一分子として自分を見たということは、決して小さな発見ではない」と。
「人間が自分を中心としてものを見たり、考えたりしたがる性質というものは、(略)根深く、頑固なものなのだ。/コペルニクスのように、自分たちの地球が広い宇宙の中の天体の一つとして、その中を動いていると考えるか、それとも、自分たちの地球が宇宙の中心にどっかりと座りこんでいると考えるか、この二つの考え方というものは、実は、天文学ばかりのことではない。世の中とか、人生とかを考えるときにも、やっぱり、ついてまわることなのだ」。
そして大人になれば、大体は地動説のような考え方になっていくが、「いや、君が大人になるとわかるけれど、こういう自分中心の考え方を抜け切っているという人は、広い世の中にも、実にまれなのだ」、特に利害損得にかかわることになると、たいていの人が自分に都合のよいことだけを見て、自分を離れて正しく判断できなくなると鋭く指摘する。この自分が世界とつながっているという認識を絶えず持っていることの重要性が、本書を貫く一つのテーマである。
そしてその世界の仕組みをどのように知っていくか。ここで大事なのは、世界との経験とその中での自律した思想であるとされる。
「君は、水が酸素と水素からできていることは知ってるね。それが一と二との割合になっていることも、もちろん承知だ。こういうことは、言葉でそっくり説明することができるし、教室で実験を見ながら、ははあとうなずくことができる。/ところが、冷たい水の味がどんなものかということになると、もう、君自身が水を飲んでみないかぎり、どうしたって君にわからせることができない。誰がどんなに説明してみたところで、その本当の味は、飲んだことのある人でなければわかりっこないだろう」。
だから人間としてどう生きていくかは、「これは、むずかしい言葉でいいかえると、常に自分の体験から出発して正直に考えてゆけ、ということなんだが、このことは、コペル君! 本当に大切なことなんだよ。ここにゴマ化しがあったら、どんなに偉そうなことを考えたり、言ったりしても、みんな嘘になってしまうんだ」。
この視点を、現在実施されようとしている道徳教育にあてはめると、こうなるであろう。
「君は、小学校以来、学校の修身で、もうたくさんのことを学んできているね。人間としてどういうことを守らねばならないか、ということについてなら、君だって、ずいぶん多くの知識をもっている。/(略)しかし、—-君に考えてもらわなければならない問題は、それから先にあるんだ。/もしも君が、学校でこう教えられ、世間でもそれが立派なこととして通っているからといって、ただそれだけで、いわれたとおりに行動し、教えられたとおりに生きてゆこうとするならば、—-コペル君、いいか、—-それじゃあ、君はいつまでたっても、一人前の人間になれないんだ」。
「肝心なことは、世間の目よりも何よりも、君自身がまず、人間の立派さがどこにあるか、それを本当に君の魂で知ることだ」。
「立派そうに見える人」とほんとうに「立派な人」との区別、「君がいいと判断したことをやってゆくときにも、いつでも、君の胸からわき出てくるいきいきとした感情に貫かれていなくてはいけない」という指摘は、まさしく道徳教育の押し付けの限界を言い当てている。
こうしてコペル君はさまざまな体験から学んでいくが、そのクライマックスは、上級生からの制裁(リンチ、いじめ)に対して、その時には友人みんなで助け合おうと約束しながらも、しかし現実には恐怖のために足がすくんでついに動けなかったことから生まれた、コペル君の「自分が取りかえしのつかない過ちを犯してしまったという意識」である。自分で考え行動することの重要性を自覚していながら、なおも現実にはできない自分をどう扱うか。本書はこう述べる。
「自分の過ちを認めることはつらい。しかし過ちをつらく感じるということの中に、人間の立派さもあるんだ」。
「僕たちが、悔恨の思いに打たれるというのは、自分ではそうでなく行動することもでたのに—-、と考えるからだ。それだけの能力が自分にあったのに—-、と考えるからだ。正しい理性の声に従って行動するだけの力が、もし僕たちにないのだったら、何で悔恨の苦しみなんか味わうことがあろう」。
カントの道徳律に通じる問題である。この事件についてはそれぞれが読んでいただいて判断
される他はないが、まさしく現在的な問題提起でもある。
本書は、時代的な制約──本書の刊行は1937年(昭和17)という言論出版の自由が制限さ
れ、労働運動や社会主義運動が激しい弾圧を受けていた時代—-の中で、「偏狭な国粋主義や反動的な思想を越えた、自由で豊かな文化のあることをなんとかしてつたえておかねばならないし、人類の進歩についての信念をいまのうちに養っておかねばならない」(吉野「作品について」、岩波文庫所収)という思いのもとで書かれたものであるが、いままた本書を読む人々が増えていることは、現代が明暗両方の時代であることを映しているのであろうか。
(なお岩波文庫に付載の「『君たちはどう生きるか』をめぐる回想」で、丸山真男が本書の上級生のリンチ事件に関連して自分の経験を述べているが、これも興味深い文章である。)(R)
【出典】 アサート No.486 2018年5月