【書評】 孫崎享『戦後史の正体 1945-2012』
(2012年、創元社、1,500円+税)
矢部宏治『日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか』
(2014年、集英社インターナショナル、1,200円+税)
一方において安倍政権がアメリカ軍との連携を世界的規模ですすめ、「戦争のできる国」への途が着々と施行されており、他方において原発事故、軍事基地によって国民の生命が深刻に脅かされている。この危機的状況にも拘らず、一向に反対運動が目に見える力とならないのは何故なのか。この問題の回答へのヒントを与えてくれる書が出されている。それらはいずれも、第2次大戦後の歴史を根底から見直す視点を提示する。
孫崎享『戦後史の正体 1945-2012』は、「日米の外交におけるもっとも重要な課題は、つねに存在する米国からの圧力(これは想像以上に強力なものです)に対して『自主』路線と『対米追随』路線のあいだでどのような選択をするか」が「終戦以来、ずっと続いてきたテーマ」であるという視点から、戦後の日本政治を概観する。将棋の盤面に例えれば、「米国は王将」であり、「この王将を守り、相手の王将をとるためにすべての戦略がたてられます」。そこでは米国にとって、日本は「歩」、「桂馬」、「銀」かもしれず、「ときには『飛車』だといってチヤホヤしてくれるかもしれません」(最近国賓待遇でオバマと会見した安倍などはその例であろう)。そして「対戦相手の王将も、ときにソ連、ときにアルカイダ、ときに中国やイランとさまざまに変化」するが、「米国の世界戦略の変化によって、日米関係は大きく揺らいでいる」と要約する。
ここから戦後の首相たちを「対米追随派」(吉田、池田、中曽根、小泉)と「自主派」(石橋、岸、鳩山一郎、佐藤、田中、福田赳夫、細川、鳩山由紀夫)に分類し、それぞれの政権時の政治状況を分析する。そして長期政権となったのは「対米追随」グループで、「年代的に見ると一九九〇年代以降、積極的な自主派はほとんどいません」。これ以前でも「自主派」は、佐藤を除いて「だいたい米国の関与によって短期政権に終わっています」と指摘する。そしてさらに重要なことは、「占領期以降、日本社会のなかに『自主派』の首相を引きずりおろし、『対米追随派』にすげかえるためのシステムがうめこまれている」。それは戦後「米国と特別な関係をもつ人びと」が政治家、官僚、報道、大学、検察の中に育成され、未だに主導権を握っているという事実を認識しなければならないということである。
本書は、この米国からの圧力とそれへの抵抗という軸に戦後史を見ることを提唱する。
また、矢部宏治『日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか』は、戦前戦後を通じて日本社会の最大の欠点は、「憲法によるコントロールが欠けて」いることであり、その結果として「国民の意思が政治に反映されず、国民の人権が守られない」ことであるとする。そしてその最大の原因は「天皇制というシステムのなかに、憲法を超える(=オーバールールする)機能が内包されている」ことであるとされる。
すなわち日本の国家権力構造は、(1)戦前(昭和前期)には、【天皇】+日本軍+内務官僚。(2)戦後①(昭和後期)には、【天皇+米軍】+官僚+自民党。(3)戦後②(平成期)には、【米軍】+外務・法務官僚という経緯を経てきたのであり、昭和天皇が亡くなると、米軍と外務・法務官僚が一体化した「天皇なき天皇制」が完成したとされる。それはまさしく「憲法によるコントロール」=「法治国家として日本」の存在が否定されていることを示している。
本書はこのカラクリを解明するという視点から、「沖縄の謎」(「日米地位協定」の支配ということでは東京も同じ支配下にあることは、オスプレイの配備をみても理解される)、「福島の謎」(「裁量行為論」や法規での「放射性物質の適用除外」の基礎にある「日米原子力協定」の仕組みも「地位協定」と同じ構造を持っている)、「安保村の謎」、「自発的隷属とその歴史的起源」という問題に迫る。
この日本を支配している構造は、戦後日本のスタート時に、そのボタンを決定的にかけちがったことから始まっているが、その最たるものは、「日本国内で有事、つまり戦争状態になったとアメリカが判断した瞬間、自衛隊は在日米軍の指揮下に入ることが密約で合意されている」(吉田茂の1952年と1954年の口頭での約束–アメリカの公文書に存在している)ことである。このことは、自衛隊の前身である警察予備隊の訓練において号令がすべて英語であったという事実と合致するであろう。
その上で本書は、「オモテの憲法をどう変えても、その上位法である安保法体系、密約法体系との関係を修正しないかぎり、『戦時には自衛隊は在日米軍の指揮下に入る』ことになる。『戦力』や『行動の自由』をもてばもつほど、米軍の世界戦略のもとで、より便利に、そしてより従属的に使われるというパラドックスにおちいってしまいます」と警告し、「唯一、状況を反転させる方法は、憲法にきちんと『日本は最低限の防衛力をもつこと』を書き、同時に『今後、国内に外国軍基地をおかないこと』を明記する」、「フィリッピンモデル」であることを提唱する。前者の防衛力の問題にはまだまだ議論があろうが、後者の外国軍基地の存続の問題については大いに考えさせる主張である。思えばわれわれは、この問題についてきちんと考えることもしてこなかったという反省を含めて、本書の問題提起を謙虚に受け止めるべきであろう。(R)
【出典】 アサート No.450 2015年5月23日