【投稿】国民は原発事故の「異常」の中での「正気」を取り戻せ

【投稿】国民は原発事故の「異常」の中での「正気」を取り戻せ
                          福井:杉本達也

1 ショック・ドクトリン
 気象庁は2013年8月30日から「特別警報」というものを出し始めた。発表第1号は、9月16日5時5分に京都府・福井県・滋賀県に発表された大雨特別警報で、台風18号の大雨によるものであった。特別警報は「・尋常でない大雨が予想されています。・重大な災害が起こる可能性が非常に高まっています。・ただちに身を守るために最善を尽くしてください。」(気象庁リーフレット)といった内容である。同日福井県の敦賀・若狭地方では小浜市で24時間雨量が384ミリとなる記録的な大雨となり、若狭町の常神半島の3集落では道路のがけ崩れによる閉鎖で1か月間も孤立状態が続いた。また、テレビでは観光地京都の嵐山が冠水した映像が繰り返し流されていた。16日の警報は「特別警戒【大雨】福井県 全域 京都府 全域 滋賀県 全域」という形で出されたが福井市内はそれほどの大雨でもなかった。
 物理学者の佐藤隆文氏は「毎日のように沖縄の南端から北海道まで日本全国の気候や地震の災害をテレビなどの報道で接していると災害に対する自然な感覚が狂ってしまう。」「何が平常かの認識を、その地域までは持っていないのだから反って誤認識を持つ恐れもある。」「いくら国民国家とはいえ、日々の気候災害への関心を一億国民が共有しなければならないというのでは日常性が保てない。」「一般の生活者にとっての気候や災害といった自然現象の共有というのはこの生活圏のサイズと一致して初めて身体的実感を涵養されてくるものであると思う。」(佐藤:「災害実感力の喪失」『現代思想』2013.12)と述べている。
 さらに続けて「『時たま』なら異常でも共存できるが、『常時多発』なら共存不可能である。すなわち実感する生活圏を局限することで共存可能にしているのである。そうでなければ共存できる異常から共存不可能の常時に変貌する。」とし、「生活圏を超えた人間の関わりに目を向けるのは重要ではあるが、その結びつきを感情の赴くままに発露するのは危険である。日常から飛躍するにはそれなりの準備が必要である。」と説く。

2 福島第一原発事故の50ミリシーベルトは『時たま』か『常時多発』か
 産業技術総合研究所フェローの中西準子は、福島第一原発事故による放射線量を非常に低いレベルにまで減らすには、時間と資金がかかりすぎるので、「年間5ミリシーベルト以下という目標なら、1、2年以内にほとんどの地区で達成できますし、その後特に手を加えなくとも15年くらいで1ミリシーベルトに下がります。その間の積算被曝(ひばく)量は50ミリシーベルト以下で、広島と長崎の被爆者に対する追跡調査の結果などを参考にすれば、安心できるレベルといえる」(日経:2013.12.28)という。中西のいう「50ミリシーベルト」は『時たま』なのであろうか『常時多発』なのであろうか。
 そもそも中西は何を持って50ミリシーベルト(mSv)の放射能汚染地域が「安心できる」というのであろうか。原子力規制委は去る1月31日、福島第一原発敷地境界での放射線量が基準値を大幅に超えている問題(最大で8mSv/年)で、2016年3月末までに基準値未満にするよう東電に求めた(日経:2014.2.1)。原発敷地境界の基準は年間被曝線量は年間1mSv未満である。働く者に対しての基準は1mSv未満であり、それ以下でなければ働いてはいけない(放射線業務従事者以外)。一方、原発敷地の外に住む住民に対しては50mSvでも「安心できる」として居住を強制する。これこそ全くのダブルスタンダードである。年間50mSvというのは、「胸のレントゲンを1年に1000回」するということである(胸のレントゲンは1回で50μSv(マイクロシーベルト)だから、1000回分)。誰も毎日毎日3回レントゲンを何十年もに亘り受け続ける者などいない。法律では原発内の放射線管理区域内で放射線業務に従事する労働者でさえ、5年間につき100mSvを超えてはならないことになっている(同規則第4条)。中西のいう年間50mSvは汚染地域住民に福島第一原発で使用済燃料棒の搬出や汚染水処理に従事する労働者の何倍も過酷な被曝をしろという要求である。福島を中心とする放射能汚染地域は「共存できる時たま」ではなく、「共存不可能の常時多発」地域である。

3 津波や地震は「共存可能の時たま」、放射能汚染は「共存不可能の常時多発」
 今回の東日本大震災の地震・津波では東北地方を中心に2万人近くの人が死亡した。しかし、地震や津波は数十年に1回、数百年に1回、千年単位で1回である。三陸沿岸の人々は何回も悲惨な津波の災害に遭いながらも海と共存してきた。それは「時たま」だからであり、避けられないものだからである。だから「津波てんでんこ」(山下文男氏)なのである。数十年に1回の津波はいつ襲ってくるか予測はできないし、犠牲者が多数出ることは避けられないものである。しかし、沿岸の者が全滅するわけではない。また全滅しないようそれぞれが親兄弟を構わず必死に逃げろという冷厳な言葉である。津波から生き残った者が新たな集落を築き海と共存していく思想である。これは、今、宮城県などを中心に国交省が主導して津波を物理的に阻止しようという高さ14.7m、底辺幅90m、総事業費230億円(気仙沼市小泉地区:朝日「土建国家」:2014,2.6)の防潮堤の建設思想とは根本的に異なるものである。
 佐藤は「自然災害は悲惨で不条理であるが避けられないものである。」「古来人間は、居住地を選ぶなどの方策で、それとの共存を図ってきた」「共存の基準の一つは『時たま』である。」とし、しかし、「『時たま』に常時備えるという生活はまた異常なものになる。この微妙なバランスで人々の生活は営まれてきた」(佐藤:同上)と述べているが、「巨大な堤防が建設されれば、漁船が港に着けにくくなり漁業の衰退を招く」(気仙沼市鮪立(しびたち)日経:2014.1.7)。「時たま」に常時備えようという強引な『国土強靱化計画』が被災地の日常生活を異常にしようとしている。
 一方で、旧警戒区域の避難指示解除の動きが広がっている。福島県田村市都路地区では今春に解除することとなっている。住宅地の空間線量は除染したにもかかわらず政府発表で0.34μSv/時(3mSv/年)もある(日経:2013.10.16)。「共存不可能な常時」が今後数十年に亘り続くことは明らかである。中西準子は「モニタリングポストなどが示す空間線量をもとに推計されている個人被曝線量は過大であり…安全性の尺度を個人線量計の値に切り替え」(中西:同上)旧警戒区域に住民を住まわせるよう躍起となっている。その理由は「国からの援助はそう長くは続かない」からだそうである。全てをカネで判断し・切り捨てる中西「リスク論」の“面目躍如”といったところである。いったい誰が今回の事態を惹起させたのか。そもそも恩着の「援助」などではない。国が「全面補償」すべきものである。中西はそれでも「我慢できない場合は移住を早く決断」したらどうかと述べているが、「放射線管理区域内」の場所に「我慢」して住めという感覚自体がどうかしている。

4 異常の中での正気を
 佐藤は同文章の最後で「異常との距離を見極めるのに一番問われるのは正常をよく理解しておくということであろう。平常時の付近の道路や河川や土手などの状況を実感を持って身体化しておくことである。」「正常を正常と見る正気さが涵養されていなければ、異常を見抜くことは不可能なのである。正常での正気さを備えていなければ異常の蠱惑に接近する資格などない」と述べている。
 放射線の場合、「正常」とは法律に定められた1mSv未満である。これを超えるような場所があるならばそれは「異常」である。国も中西などの一部の「専門家」もこの平常時の「正常」値を勝手に変えてしまった。理屈はカネがいるので「復興のための資金と時間を除染のためだけに消費し尽くしてはなりません」(中西:同上)というのである。「正常」時の基準点がなければ「異常」時の状態は把握出来ない。測量するのに基準点をその都度移動するのでは測量する対象物との距離を測ることはできない。しかも、国・気象庁や一部の“専門家”・マスコミはこの基準点を意識的にずらすとともに、『時たま』と『常時多発』の区分もわざと分からないような情報操作を行っている。「東南海地震」・「富士山噴火」・「地球温暖化」・「特別警報」しかりである。テレビ・新聞等で膨大な情報を流すことで『時たま』を『常時多発』であるかのように現実感覚を麻痺させ「災害共同幻想による不健康な連帯感」(佐藤)が生まれている。それは、福島原発事故の放射能汚染による『常時多発』から目をそらさせると同時に、「災害広域情報の共有で国家意識」を強める役割もはたしている(佐藤)。
 佐藤の言うように「歴史的な教訓は、異常なものへの対応の仕方」であり、「異常と正常を行き来出来る正気がなければ異常は制御出来ない」のである。福島原発事故は今、異常事態にある。ところが政府・東電・科学者だけでなく国民自体もそれに目をふさぎ、「異常」を「正常」と言いくるめ、見て見ぬふりをしている。国民が正気に戻らなければ異常事態である事故は収拾できない。収拾出来るかどうかは不明だが少なくとも正気に戻らなければ事態はより破局に向けて進行するであろう。 

 【出典】 アサート No.435 2014年2月22日

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