【書評】池内了著「疑似科学入門」

【書評】池内了著「疑似科学入門」
                     福井 杉本達也

 水を燃料として走る自動車を売り出したという。水から電流を取り出す新しい発電システム「ウォーターエネルギーシステム」だというふれこみである。水が燃料なら石油もいらないし、CO2も出さないから地球の環境問題は一気に解決だと思う。6月に大阪府の議員会館でも説明会が行われ大勢が詰めかけたそうだが、福井市内で行われた説明会の主催者は、実は、昨年金沢で爆発事故を起こし、「開発者」?の同僚を死亡させ過失致死罪で起訴されている。恐らく、水を電気分解する際の水素ガスに引火したのではと思うが、電気分解するにはエネルギーが必要であり、水からエネルギーを作り出すというのは「エネルギーの保存の法則」に反した「永久機関」であり、まさしく「疑似科学」である。
 今日、様々な「疑似科学」や「ニセ科学」が流行っている。疑似科学とは、科学のようなふりをしているが科学ではないもののことである。科学的であるためには、①客観的であること、②合理的な説明がつくこと、③いつでも・どこでも実証できること、といった基準を満たす必要がある。だが、科学的な言葉をちりばめただけの疑似科学の例には事欠かない。
 著者は疑似科学を三種類に分けている。第一種の疑似科学は人の心の揺らぎにつけ込む「まやかしの術」であり、占い系、超能力・超科学系、「疑似」宗教系である。TVでは毎日のように、超常現象の番組が放映されている。日本のTV局は全く異常な番組作りを行っている。そんなことはあるわけがないと信じなければよいのだが、中には信じてしまう者もいる。なぜ、信じるかであるが、自らの体験としての情報は、見る、聞く、覚える、考えるという感覚への刺激から脳における再現・合成という過程を経るが、この情報処理過程でエラーが生じるのだという。「情報を得る」段階と結果を「信じる」段階の間に「認知」の過程があり、たとえば、「知覚エラー」や「記憶エラー」あるいは「思考バイアス」―たとえば、ある仮説に対して、それに合った事例のみで判断してしまい、反証事例を検討しない-などがあるという。
 第二種の疑似科学は科学の活用・援用・乱用・剽窃・誤用・悪用・盗用などで、科学的装いをしているが、何ら根拠のないものであるという。松下電器を始め大手家電メーカーはいまだにエアコンや掃除機をはじめ電化製品に使っている「マイナスイオン」などである。確かにマイナスイオンというものはあるが、プラスイオンとどう違うのか、「マイナス」のどこが健康にいいのか全く不明である。このようなものが、どんどんイメージを膨らませてTVCMに流され続けている。「波動」「フリーエネルギー」「ゲルマニウム」「ポリフェノール」「エイコサペンタエン酸(EPA)」「アルカリイオン水」等々、関西テレビで打ち切りになった「発掘あるある大辞典」などでも様々な商品が「紹介」?されたが、こうした事例は枚挙にいとまがない。著者は、現代人にとって、時間の感覚が加速されていることから、早く結果を知って安心したい、手早く簡単に効能を得たいとして、じつくり考えることをせず、すぐに答えが得られる方を選び、それを紗呑みにしてしまう。「テレビで言っているから」「エライ先生が推薦しているから」と、手軽に怪しげな商品に飛びつく。自分の頭で判断することなく周囲の雰囲気に同調してしまうのだという。
 第三種の疑似科学(これが本書の核心部分であるが)は、気象や気候変動、環境問題や生態系など非線形・複雑系の、現代科学が明確な判断を直ちには下せない不得意な分野である。その解決には時間がかかるのもやむを得ないのに、そのことを忘れ、短絡的に原因と結果を結びつけたり、原因が不明だから結果も曖昧だとしたり、相反する要素をあげつらって不可知論に持ち込んだり、挙げ句は科学は信用できないと断じたりするという。
 ここで、著者が大胆にも論争の火中の栗を拾ったのが「地球温暖化問題」である。地球は複雑系であり、地球が温暖化していることは事実であるが、二酸化炭素を始めとする温室効果ガスが大気中に増えていることも事実であるとしつつも、過去の地球の歴史を見れば、二酸化炭素の量が上昇してから温暖化が起こった場合もあるし、温暖化が起こってから二酸化炭素が増加した場合もあり、いずれが原因で、いずれが結果であるか、簡単には判断できないとの立場を取る。
 洞爺湖サミットの直前に各テレビ局は地球温暖化特集を組んだが、特にひどかったのがNHKである。「ためしてガッテン!常識逆転!地球温暖化ビックリ対策術」という番組は、北極のグリーンランドで氷が溶ける姿や、南極の棚氷の先端が崩落する映像などで海面水位の上昇を煽り、旱魃の被害映像などをたれ流し続けた。8月17日、国土交通省と気象庁は今夏の猛暑と局地豪雨を温暖化に結びつけて調査すると発表したが、何もかも温暖化に結びつけて良いのだろうか。このような傾向に対し、著者は、少しでもこの数年なかったことであれば、直ちに「異常」と断じ、「地球温暖化のせい」と決めつけてわかった気になる風潮に危うさを覚えるという。見かけの効果だけを取り上げて解釈し、自然現象に責任を押し付け、思考停止になっており、「地球温暖化」が合い言葉になり、真実を見えなくしていると警鐘をならしている。
 著者は、複雑系である地球温暖化など、結果から原因を「科学的に証明しづらい」「未成熟科学」の問題に対しては『予防措置原則』を適用すべきだとする。地球が複雑系であるために原因や結果が明確に予測できないとき不可知論に持ち込むのではなく、人間や環境にとっていずれの論拠がプラスになるかマイナスになるかを予想し、危険が予想される場合には、それが顕在化しないよう予防的な手を打つべきだと主張する。たとえその予想が間違っていたとしても、人類にとってマイナスの効果を及ぼさないと。この部分で著者はIPCCに同調している。
 地球が温暖化していることは確かであるが、しかし、それに『予防措置原則』を適用して、はたして温暖化を防止できるのであろうか。岡敏弘福井県大教授は『世界』2008.9号で、温暖化ガスの排出削減方法は2つしかないとし、①生産活動量は一定にしながらエネルギー利用効率を上げる・エネルギー減を変えるなどして排出量の原単位を下げる方法、②活動量を下げたり、我慢したりする方法であるとする。岡氏は、②の活動量を抑えるためには排出量の総量を規制して、個別に割り当てねばならず、割り当てるには排出権取引制度が有効であるが、取引の導入を強く主張している人の口からは活動量削減まで踏み込むべきだと明言したものは誰もいないと皮肉る。現在の炭素排出量の50%を削減しようとすれば日本では1970年代初期の生活に戻る必要がある。また、発展途上の中国やインド、アフリカ諸国に生産量を削減し、生活向上の努力を放棄せよといえるのであろうか。岡氏は活動量を削減するということは分配の問題と不況の問題から危険であるし、排出権取引などできもしないといいきる。一方の①の新技術によって原単位を下げる方法はどうであろうか。日本でも、廃止した福島県沖のガス田などにCO2を埋める技術の開発などが行われようとしている。革新的な新技術が開発できればいいが、温暖化の速度ほど技術開発の進む可能性は低い。岡氏も確実にそうなるとは予測できないとしている。岡氏の言葉を借りて、結論を急げば、温暖化の速度に見合うだけの炭素排出量の削減は不可能であり無駄であるだけでなく、途上国と先進国・国内における持つ者と持たざる者の分配の問題と経済的混乱を招くだけであるということである。
 同様の指摘は、IPCCの見解に反対する立場からもなされている。赤祖父俊一アラスカ大学国際北極圏研究センター所長は「生産を中国に任せながら炭酸ガスの放出量を削減せよと要求するのは全く勝手な話であり、ここに大きな矛盾が起きている。」「どの国も自国の産業を守るため炭酸ガスの放出量を削減することは絶対にできない…この問題について合意に達したことはなく、合意したとしてもそれを守ることは最初からできない。」「現在では地球温暖化問題は裕福国と貧困国の争いの道具となっているだけである。」「日本以外の国は建前と本音の役割を上手に使い分けている。」「何も炭酸ガスを抑制しなくてもよいと主張しているのではない。ただ、竜のような空想的なものを追うために何の役にも立たない膨大な予算を注ぎ込み、国際的経済問題を引き起こすより、現在目前に実際起きている環境破壊を問題にする方がはるかに役立つ。」(『正しく知る地球温暖化』2008.7)と手厳しく指摘している。「予防」は先が見通せる場合にだけ適用できる。やみくもに「予防措置」を適用しようとすると、排出権取引制度を金科玉条ごとく振りかざす、新古典派経済学のような疑似科学に陥るのではなかろうか。先記した国交省の豪雨対応でも、神戸市などの都市河川を安易にコンクリート三面張り構造にしてしまったからこそ、河川の流速が異常に早くなり、わずか10分で増水に巻き込まれてしまったのではないか。温暖化調査の前にやるべきことは沢山ある。気象学も経済学も科学の基本である「③いつでも・どこでも実証できること」ではないだけに特段の注意が必要である。
 話は全く変わるが、北朝鮮の拉致事件の被害者・横田めぐみさんの遺骨鑑定をめぐって、日本の鑑定機関はめぐみさんの遺骨ではないとのDNA鑑定を出した。これに対し、雑誌『Nature』誌(2005.2.3 3.17)は1000度以上もの高温で焼かれた遺骨から本当にDNAが採取できたのかという疑問を呈した。専門家の間では検出できないというのが定説になっており、著者は政治が関与すると科学的真実も曖昧にされてしまうと述べている。当書は、このように随所に様々な「疑似科学」に対する見方がちりばめられており、読めば読むほど味のある入門書である。
 著者は最後に、疑似科学に引き込まれない心構えを説く。心のゆらぎがあり、時間が加速される現代、疑似科学は廃れないが、処方箋としては、懐疑する精神をいかに育てて、いかに保つかであるという。また、疑似科学であるかどうかを知る目安として、それをどんな人間が言っているかを見て判断する方法があるとしている。その科学者は研究を極めれば極めるほど謙虚になる。謙虚か謙虚でないかが科学者の見分け方の初歩だという。、我々の周囲には、タミフル騒動や新型インフルエンザへのワクチンの事前予防接種・腹囲男性85㎝(女性90㎝)のメタボ検診等々、直接の影響を受け、すぐにも判断を迫られるが、「疑似科学」かどうか即断できかねる事例が多々ある。著者のいうように、疑い続けるのはしんどく不安なものだが、それによって洞察力を養うしか方法はないようである。

 【出典】 アサート No.369 2008年8月30日

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