【雑感】『マオ』を読んで思うこと

【雑感】『マオ』を読んで思うこと

 『マオ 誰も知らなかった毛沢東』(ユン・チアン/ジョン・ハリディ 2005/11/17講談社発行 上下巻)を読んだ。恐ろしい内容だった。
 印象に残るいくつかを書き出してみると、まず1923年1月上海・党指導部にモスクワから国民党に入党せよとの指令が下る。無節操として指導部全員が異議、毛沢東は逆に手を挙げ、党中央に引き上げられる。以後、国民党湖南支部幹部、国民党創刊の「政治週報」編集長などを歴任し、1927年の蒋介石による国民党内の共産党勢力粛清まで国民党員であったこと(中国はこのことを隠し続けているという)。
 あの有名な「長征」も、その過程において、共産党の古参の幹部を毛沢東が追い落とし、自らの権力確立のために敢えて多くの犠牲をだした。
 また、国民党時代に、末端の農民協会の粗暴な活動家達の「農村に恐怖現象を作り出す」残虐行為を「すばらしい、かつてない痛快さ」との報告を行い、以後共産党軍に合流の後も、残虐な暴力(死刑も横行)による支配を常態化させた。
 朱徳軍や彭徳懐軍に合流した1929年には、軍の中にAB団(アンチ・ボルシェビキ団、富農出身者や反革命分子という意味)がいると、摘発運動を強行。11月彭徳懐軍部隊に毛に反対するAB団分子がいるとして虐殺を開始、朱毛紅軍にも広げ「1ヶ月の間に4400人以上に達した」と毛自身が上海に報告している。
 1930年日本軍が柳条湖事件を起こし、第2次大戦への道を歩みだした。蒋介石は、共産党包囲網を解き9月南京に引き返し、対共包囲作戦を一時停止することを決定、交戦地帯から軍を引揚げ抗日統一戦線を提唱。共産党は「笑止千万の戯言」とはねつけ、党の主要任務は「打倒国民党」を言うのみで、日本軍と闘う国民党を尻目に、内陸部で革命根拠地拡大のみを行っていた。ところが現在では共産党が抗日統一戦線、一致対外を提案したとされている。
 1937年日中全面戦争にいたり、共産党軍は国民革命軍第八路軍となる。38年8月八路軍は山西省前線に向け黄河を渡り、多くの兵士は日本軍との闘いに勇み立ったが、毛は「戦闘ではなく根拠地創造に集中せよ」と指示、指揮官達の反発の中、9月山西省.平型関で初めて日本軍と交戦、毛はこれに猛烈に怒り、「蒋介石を利するだけ、何の足しにもならない」として、日本軍が国民政府軍を打ち負かすのを待ち、その後背地を領土として獲得せよ、むしろ日本軍の進軍に「大いに感謝したい」と述べたという。
 抗日戦最中にも、国民党軍を倒すため、日本軍に対して国民党の軍事情報を提供し、見返りに共産軍への攻撃を控える密約をかわす。
 1940年日中戦争重大局面に入り、重慶に退いた国民党に対する日本の重慶爆撃の爆弾総量は、連合軍が日本全土に投下した爆弾総量の1/3にも上った。毛は日本軍が「重慶あたりまで侵攻してくれることを望んでいた」と語っている。ところが八路軍を指揮していた彭徳懐は党よりも国を優先させる決断を下し「百団大戦」という日本軍への大規模な作戦計画を立て、毛に何度も打電するが承認を得られず、8月戦闘開始命令を出し、日本軍にとって「完全に予想外の出来事」で、1ヶ月の戦闘によって日本側の損害は「きわめて深刻かつ甚大」であった。毛は蒋介石敗北の可能性が小さくなったとして、怒りで煮えたぎり、百団大戦は中国が日本占領下にあった8年の間に共産党勢力が実行した唯一の大規模作戦であったにもかかわらず、後年、彭徳懐は高い代償を支払わされる。
 1942年毛はケシ栽培事業を「革命的アヘン戦争」と呼んで、公然と大々的に生産、取引を拡大し、43年2月毛は周恩来に、延安は「財政難を克服し、2億5千万法幣相当の貯蓄ができた」と告げている。この額は陜甘寧辺区の年間予算の6倍に当り、43年の毛の阿片売上高は44760kg、値段で24億法幣、当時のレートで6千万米$、今日の価格で6億4千万米$という途方もない額に達した。延安の党幹部の生活は劇的に豪勢な生活に変化した。一方、延安の地元住民からはあらゆる搾取を続け、43年6月には「まもなく蒋介石が延安を攻めてくる」という口実で「自発的寄付」が強制され、農民はどん底の生活で極度に衛生状態が悪化し、2年間で31%の住民が死亡する地域まで出現した。
 「上巻」には1950年中華人民共和国建国までが書かれており、「下巻」は、それ以後の、朝鮮戦争参戦、「大躍進運動の失敗」や、国民を飢餓に追い込んでも、軍事予算を増やし続けたこと(大躍進と大飢饉の4年間に3800万人近くが餓死または過労死したと記されている)。ソ連に対抗し「超大国」を目指して、中ソ対立を煽ったこと。自らの独裁を守るために、朱徳や彭徳懐を攻撃し続け、最終的に文化大革命という国家破壊を強行したことなどが描かれている(文化大革命以後は、軍の粛清により、300万人が犠牲になった)。劉少奇・林彪も失脚・逃亡死去し、最後まで毛沢東を支えたのは、周恩来だけであった。こうして毛沢東の中国は4000万人を越える人々を犠牲にしてきた事になるのである。
 同様の内容を含む書籍には、「中国がひた隠す毛沢東の真実」(草思社、北海閑人著)があるが、中国内部のしかるべき地位にある人が著者だそうだ。私は先にこちらを読んでいたので、ショックは経験済みだった。『「マオ』について、私は、真実に近いのではないかとの感想を持っている。
 かつて、著者のユン・チアンの「ワイルド・スワン」を読んだ時の感動を忘れてはいないし、彼女は、「ウィルド・スワン」を上梓した時、次は毛沢東を取り上げてみたいと言っていたという。以来15年を越える取材ののち、書き上げたのが今回の『マオ』である。インタビューは470名に及び、本書下巻にはリストが示されている。中には、毛沢東のロシア語通訳・秘書・医療関係者も含まれている。上下巻1000頁を越える本書であるが、膨大な文献リストまで含むことはできず講談社のホームページに掲載されているほどである。
 年配の活動家の皆さんは、口を揃えて「反共の書だ」と、切って捨てる方が多いと聞いている。しかし、果たして、そんな簡単に無視できるものではないと私は思う。
 今年は、文化大革命40周年にあたるが、中国共産党は、毛沢東が仕組んだ権力闘争である文化大革命の功罪について、論評も行わずじまいだった。
 本書によると、「国共合作」の時代に、国民党内に多くの共産党員が送り込まれた。その中には、国民党敗走の時期まで、軍の最高指導者であったものもいたらしい。彼らは、紅軍との戦闘において、敢えて不利な作戦を立案し、結果として紅軍の勝利に導いた。しかし、蒋介石は彼らが共産党のスパイであることを承知の上で、彼らを処分しなかったという。蒋介石は裏切りによって破れ、毛沢東はソ連の軍事支援と国民の収奪で生き延びたのである。
 文化大革命で失脚させられた鄧小平が、後に復活し「改革開放」路線に転換したことで、現在の中国の姿がある。しかし、鄧小平も1989年の天安門事件では、デモ隊に戦車と機銃掃射で対応し、平然と殺戮を行い、民主主義を葬り去った。
 毛沢東は1976年9月に死亡している。ちょうど30年前ということになる。以後、4人組失脚、鄧小平復活、江沢民と指導者は変わったが、党支配構造に変化は起こっていない。経済の発展により貧困からの脱却が進んでいるが、中央・地方党幹部の腐敗一掃が課題となっていると言われている。
 『マオ』の亡霊がいまなお生き続けていることこそ、中国の真実ではないだろうか。
 そして、スターリン・毛沢東・金日成と旧社会主義が独裁者の個人崇拝・異なる意見に対する粛清の常態化を生み出した事実。内戦の中にあったとは言え、唯一前衛党論、民主集中制、終わりのない階級闘争論がその根源にあることは疑いはないと私は思う。
(佐野秀夫)

 【出典】 アサート No.343 2006年6月24日

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