【書評】池田晶子著 『41歳からの哲学』

【書評】池田晶子著 『41歳からの哲学』
        (2004.7.15.発行、新潮社、1,200円+税)

 昨年本誌319号(2004.6.26.発行)で紹介した、同著者の『14歳からの哲学–考えるための教科書』(出版・トランスビュー)の続編である。ここ2年間の連載コラム(『週刊新潮』)を整理したものであるらしいが、著者自身が40歳を超えたということから、新たに見えてきたもの、というよりも、従来からの主張をより過激に提唱している書である。

 確かに人に少しは考えさせる逆説や言い回しはある。例えば本書冒頭の章には次のような文がある。

 「人は、現実とは、生きるか死ぬこのことであると思っている。だからこんな話(イラク戦争に関連して、死の問題が取り上げられ、その中で、人間は本能的に死を恐れたり、絶望的になったりしているが、生きているわれわれは、死ぬとはどういうことなのかを知ってはいないのだから、本来これはちょっとおかしい議論ではないか、と著者は言う–引用者)は空想的非現実的だと思いがちだけれども、しかし本当は逆なのである。人がそれを現実だと思う生きるか死ぬか、まさにその生きるか死ぬかの何であるかの話をしているのだからである」(「なぜ人は死を恐れるか──戦争」)。

 すなわちここで著者は、前掲の著書と同様、「人は、他人と出会うよりも先に、先ず自分と出会っていなければならないのである。まず自分と確かに出会っているのでなければ、他人と本当に出会うことなどできない」(「誰と出会うつもりなの–出会い系サイト」)、「人生の快楽を追求するより先に、そも人生とは何かを追求する方が先であろう。快楽だけなら、サルだって知っている。なにゆえの快楽なのかを考えるから人間なのである」(「どこまで馬鹿になりたいの–テレビ」)等々と語り、考えることこそ人間の特質だと強調する。そしてその中心は、生死の謎を考えることから発する「生きること」と「善く生きること」であるとする。

 「『ただ生きることではなく、善く生きることなのだ』と、生存の価値を喝破したのは、二千五百年前のソクラテスである。『善く生きる』とは、通俗道徳の意味ではない。快楽や金銭が生存の価値ならば、定義により、生存そのものには価値はない。逆に、生存そのものが価値ならば、それらなしでも生存は価値であるという驚くべき当たり前のことである。生命至上主義とは、生存そのものが価値である、生きているならそれでいいとするものである。これに対して、ただ生きてりゃいいってもんじゃない。ただ生きているだけなら、ただ生きているだけなのだから、生きていることが価値であるわけがない。善く生きていない人にとって、なんで生きていることが善いことである道理があるか」(「今さらどうして生命倫理–クローン」)。

 著者は、この視点から世界を見る。これは、それ自体としては伝統的な「哲学」の姿勢と言えよう。ところが他方において著者は、例えば死について、「現実に自分が死ぬという経験をする時には、自分はいないのだから、自分の死というものは現実にはあり得なくて、やはり観念なのである。死はどこまでも観念、観念でしかないのである」(「死にたいのか、死にたくないのか–人間の楯」)と観念としての本質を強調する。しかも「観念」を「思い込み」、「現実」を「大勢の人の観念によって成立しているもの」と規定することで、社会的政治的諸事件に関わる個々の現実の死は、「自分ひとりで思い込んだ観念」が、「大勢の人の観念によって成立している」「現実」に敗れたものとして位置づけられる。つまり(人間の楯として)「反戦という観念に殉じて死のうとした人びと」は、「愛国という観念のために自爆して死んだ人びと」と「その心性としては」同じとされる。換言すれば、ともに自分の行き方を自分の事柄として考えることを欠如したものとされるのである。そこで社会的政治的諸事件に関わる事柄について、シニカルな主張がなされる。

 「人間の楯にせよ、自爆テロにせよ、死をもってすれば何とかなると思って何かをする人々を見ると、真面目にやれ、と私は言いたくなる。あんた、本気でやる気あるの、と」(同)。

 次の言い方も同様である。

 「イラク戦争の折に、ネット上で反戦の声を上げた若者たちを扱った番組を観た。(略)痒くなるような感じがした。気持ちはわからなくはないのだが、ものの考え方が、最初から的をはずしているのである。同じ時代に、同じ地球上で、戦争が起こっているというのに、何もできない自分に無力感を覚える。と、彼らは言っていた。/(略)/つまり彼らは、無力感を覚えるというまさにそのことによって、戦争を他人事だと思っているのである。自分のことでないと思っているのである」(「ミサイル、それがどうした–北朝鮮」)。

 「そんなふうに考えると、人というのは案外に呑気なもんである。何もできない自分に無力感を覚えるほどに、暇なのである。自分の人生を他人事みたいに生きているから、そういうことになるのである」(同)。

 次から次へと飛び出してくる著者の言葉には、まさしく自分で考えていくことの何たるかが徐々に意味づけられてくる。すなわちそれは、世界に関わっていく前に自分の人生をただ自分に関わることとしてのみ考えようとするアピールである。そうすればそこには、「自分が存在するということの不思議」、「日常こそが、神秘である」こと、「自分」の何であるかが、問題になってくる。このような自分で考えることによる世界の見直しこそ、他の何ものよりも重要であり、ソクラテスの言わんとしたことだというわけである。

 しかしここまでくると、著者の視点にはやはりどこかに無理があるのではないかと感じざるを得ない。著者の、社会の常識に異議を唱え考え直せというまっとうな主張について、その視点で欠落しているのは、自分の考えること自体が社会的に規定されているということであろう。本書には意見はあるが対話は存在しない。しかし人と人との対話を通じて真理を求め続けたのは、ソクラテスその人ではなかったか。自分を見つめ続けて愛犬と対話をするよりも、媒介者としてのソクラテスとして人との対話を望む次第である。(R) 

 【出典】 アサート No.326 2005年1月22日

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