【書評】『生・老・病・死を考える15章–実践・臨床人間学』
(庄司進一、朝日新聞社・朝日選書、2003.6.25.発行、1300円+税)
「あなたは八三歳の老人」「代理母制度を認めますか?」「安楽死を認めますか?」「人工呼吸器をつけて生きる」「白血病の長女のため第二子を産む」等々。本書は、これら生老病死にかかわる「臨床人間学」(筑波大学)の講義録である。「その目標は、生老病死に関する具体的な場面をとおして、人間、個々人の人生の意義や生きがいについて考える機会をもつことにあります。すなわち、生や死の問題を『だれかの』という三人称ではなく、一人称の問題として考えること」にある。本書で取り上げられているテーマは、それぞれ重い。しかしこれらのテーマについて他者の意見、価値観の違いに気づくことで、自らの「生きる」ことの意味を考え直すことにつながる。
講義では、テーマの提示→情報の提供→小人数での自由討論→概要の報告・全体討論→教官個人の意見の発表、という順序で進められる。すなわち、ここでは二人の教官(「臨床人間学」担当の著者と、これに協力する「臨床看護学」の教官・女性)も、自分の意見を述べる一人の人間として位置づけられているのであり、扱う問題の難しさと絡まって、これを見る視点そのものがまた論議されることになる。
一例をあげよう。「脳死になったわが子の臓器提供」の講義では、「あなたの二歳の子どもが脳死状態になってしまったとき、親として移植のための臓器提供に同意するか?」がテーマとして取り上げられる。現行のわが国の臓器移植システムという制限(15歳以下の者を対象外とする)があるものの、このテーマについては、次のようなものとなった。
そこでの諸条件–子どもの臓器の提供で何十人というレシピエントが助かる可能性、しかし臓器移植によって子どもの死期を早めてしまうという現実、そして脳死から心臓死に至る短いプロセスで臓器移植の決断を迫られるという状況等々–を考えて、選択肢が二つ提示される。すなわち①「まずは、積極的に臓器移植を行うという選択」、②「もう一つは、臓器移植を拒否し、治療をそのまま続けて、何日間かあとには亡くなりますが、見守り続ける」という選択である。そして②の場合でも、心臓死の後に提供できる臓器(腎臓や角膜など)もあること、また①の場合にも、どこまで提供するかについてさまざまなパターンがあることが指摘される。
学生による小人数での討論でも意見が分かれ、その中で、脳死をどう見るかについての、日本の文化・死生観にかかわっての解釈、15歳未満の臓器移植を認めるか否か、人工呼吸器をつけられて生きていることの是非等が出される。そして最後に著者と協力教官の意見が示されるのが印象的である。
著者は、自分の子どもが成人しているのでその意見に従うと言いつつも、「しかし、もし彼女が二歳のときにこういう状態になったとしたならば、積極的な臓器の移植を決定すことはできない(中略)、二年間、彼女と過ごしたことの思いでと分かれていく、その人の死の準備をするのは、一~二日という日数はやっぱりちょっと短かすぎると思います」と述べる。
これに対して協力教官は、「私はこれまで、どうしても助けてあげられない小さな子どもを抱えたご両親の姿を見てきました。病気の子どものご両親の身近にいて看護をしておりますと、その気持が痛いほど伝わってきます。なにもしてあげられなかった無念の経験が自分のなかにある現在は、できるだけ積極的に移植をしたいと思います。自分の夫にも賛成してほしいと思います」と述べる。
このようにテーマについての正解はなく、各人がそれぞれの視点から自分の意見を、他と比べながら考えていくきっかけを得ることが最大の収穫とされる。こうして、「無脳児の臓器提供」問題が、「出生前診断」問題が、「アルツハイマー病」問題が議論される。
本書ではそれぞれのテーマに割くスペースが限られているので、必ずしも充分な議論がなされていない個所もあるが、しかし随所に、ハッとさせられる死生観、人間観が見られる。
「安楽死」について:「私は絶対に安楽死をしないと思います。(中略)自分に与えられた命をまっとうすること、それには苦しみや辛さも喜びや悲しみも含まれている、それらすべてを味わいつくすことが生きていくことと思っています」(著者)。
「出生前診断」について:「自分としては、ひどいと思うけど、障害をもった子どもをちゃんと育てる自信もないし、受け入れられないと思っています。最初の診断もちょっと怖いと思うんですけど、でも、産んだからには頑張って育てようと思っています。自分のお祖母ちゃんが、『そういう子は育てられる親のところにしか産まれてこないよ』といっていました。親戚に障害をもった子どもがいますが、私もそういうふうに考えられるようになったらいいなって思っています」(学生)。
同上について:「また、前任地の病院で、子どもたちが病院のボランティアとしてやってきましたが、そのとき、六年生の男の子が書いたレポートに、『ボランティアは人のためにするものだと思っていた。でも本当は自分のためにするということが今日わかった』と書いてありました。かれは、障害をもっている方の車椅子を押しながら、ふと『あれ、俺ってこんなに優しい気持をもっていたんだ』ということに気がついたというのです。すごくうれしかったし、感動しました」(協力教官)。
このように本書を通じて、学生たちの、また教官~学生間の真摯な議論が伝わってくるが、これが、医療現場のみならず、ごく日常の社会一般の意識として広がっていく社会が形成されていくことを期待したい。本書はそのための考える機会を与えてくれる書であり、われわれに新たな視点を与え、勇気づけてくれる書である。(R)
【出典】 アサート No.312 2003年11月22日