【雑感】 藤田省三のこと

【雑感】 藤田省三のこと    by 大木 透

最近の雑誌「世界」でとても楽しみにしているシリーズがある。それは「語る藤田省三」という報告である。これは、藤田が、教え子たちと開いていた研究会における、彼の発言を参加者のひとりが記録したものである。この6月号ではベケットが、7月号ではブレヒトが取り上げられている。そこには、彼独自の目の付け所や創意が余すところなく示されていて、とても感動的である★その藤田が亡くなった。以前から病弱であると言われていたので意外とは思わなかったが、多少の感慨が残った。それには理由がある。私は、アサート 209号(1995年4月18日) に、藤田の「全体主義の時代経験」について書評を書いたことがある。そこでも触れたことだが、以前に藤田の親友だったAという人間から、彼の人となりを聞いていて、藤田に親近感を抱いていたのである。今度、紹介しようと言われていたが、それはとうとう実現しなかった★ついでに、ここで、Aについて少し付言すると、彼は、その昔、某有力政党の大幹部のHに、理不尽な経緯で、恋人を「奪われた」という出来事があって、それが深い心の傷になって、その後の人生に陰を残したと噂されていた。このことは、亡くなったA・Jがどこか(多分、雑誌「現代の理論」だったと記憶しているが)に書いていたと思う。そのAが、電話などで呼び捨てにして喋っていた相手が藤田であった★よく、藤田を、予言者のように言う人があるが、たしかに、その公平無私の利害にとらわれない卓見にはその趣があった。ゴルバチョフの登場に際して、彼は「それは私の気分にいささか楽天性を甦(よみがえ)らせてくれました。私はもっぱら悲観的ですから。しかし熱狂はしません。なぜならば、幻滅はいやですから」(雑誌『世界』一九九〇年二月号のインタビュー「現代日本の精神」)と述べていた。これは予言的であったが、その目の付け所の確かさをも示していた★彼の、某政党への入党と離党の経緯については、吉川勇一が自分のHPに書いているが、まことに彼らしい人間性が発揮されていて、微笑ましい。彼は、丸山ゼミ出身者のなかでも異色であった。アカデミズムを超克する道を選んだ。それは、京都での「論楽社」の手づくり講座「言葉を紡ぐ」への献身的な支援、古在由重を支えるための活動などにその意欲が表れていた★彼の盟友だった高畠通敏が朝日新聞に追悼文を書いている(6月9日夕刊)。そこには、少々、懐古趣味ではないかと思われるようなことが書かれている。いわく、「時代を知るためには、まずその時代を作り出した社会的・経済的条件を押さえなくてならない。彼は、若いときに学んだマルクスの方法を、多くの知識人が戦後の流行に沿って捨て去った後でも、時代を理解するための最初のステップとして大切にした。しかし、彼がマルクスから読み取ったものは、それだけではなかった。経済的・社会的な構造が体制的な重圧となって時代を覆うとき、そこで苦しむ弱者に思いをはせ、思想的に体制のくびきから自らを解き放って新しい社会を構想するために努力すること。それこそが、マルクスそしてマルクス主義者と自らを規定して権力と苦闘した人々から、-彼がもっとも学んだことだった。」と★わたしは、これを読んで、威儀を正さざるをえなかった。そして、いま、彼の追悼のために、生前、彼が推奨してやまなかった小説、簾内敬司の「千年の夜」を読んでいる。 (文中敬称略)

 【出典】 アサート No.308 2003年7月26日

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