【書評】『〈大人〉の条件』

【書評】『〈大人〉の条件』
              (門脇厚司・佐高信 岩波書店、2001.4.9.発行、1800円)

 教育に間する論議が盛んに行われ、文部科学省をはじめ、教育改革がさまざまに提示されている中、本書は、教育社会学者門脇厚司と辛口の社会評論家佐高信による対談を通して、その教育論議、教育改革の前提を今一度問い直す。キーワードとなっているのは「社会力」という言葉であり、これを前提にしてはじめて教育改革は実効性をもってくるものとされる。逆に言えば、「社会力」抜きの教育改革は、たとえその目指すところが高邁なものであろうとも、小手先の改革に終ってしまう危険性をもつということである。

 さて門脇によれば、「社会力」とは、「人と人がつながり、社会を作る力」とされ、次のように説明される。

 「『社会力』とは何かといえば、端的にはそれに尽きるようなところがあります。社会というのは、結局、生きた人間がいて、その人間がお互いに密接に関係し合って、そのつながりのなかで、自分がすべきことをしながら生きている状態のことをいうわけで、お互いが他の人に無関心で、バラバラに行動するようになったら、社会は解体するしかないわけです。ですから、社会が成り立ち、きちんと維持されるためには、そこで生きている人たちが互いに関心を持ち、お互いのことがわかっていて、一緒にやってゆこうという気になっていないとダメなわけです」。

 すなわち「他の人への関心」をもち、よい関係、共感をもち続けることこそが社会を作っていく基礎である。ところが現代の社会では、特に若者の間にこの関心がないという状況が存在する、と門脇は指摘する。

 「人間は他人を鏡にしてはじめて自分のことがわかる動物なのです。ところが、今の若い人たちは、とかく自分のことだからといって、穴蔵のような自分の部屋に篭もって『俺は何者だ』なんて考えて“自分探し”をする傾向があります。つまり、自分のことだから自分で考えればわかるなどと思い込んでいるわけです。これはとんでもない話です」。

 佐高は、この状況を「それはもうラッキョウの皮剥きでしかないわけですね」と評する。そして門脇は、教育改革に対する「社会力」の決定的な重要性を次のように強調する。

 「意図的な教育が効果を持つためには、人間が好きだとか、他の人に関心があるといった『社会力』の土台ができていることが前提になる。それがまったくなかったら、どんなにいい意図で教育をしたとしても、効果はそんなに期待できないということをはっきり理解しなければならない。

 ところが教育をめぐる議論では、そのあたりのところがすっぽりと忘れられてしまって、母親がしつけるとか、父親が叱るとか、教師の技量を高めるとか、教育の内容を精選するとか、これに類するようなことをすれば、要するに教える側がしっかりすれば、人間など何とでも作りかえられると考えているところがあるわけです。そてれはとんでもない思い違いだと思っています」。

 しかも「社会力」は「学力」と異なって、簡単に回復できるものではない。それ故、門脇は、「『学力の低下』が問題なのか『社会力の低下』が問題なのか」と問い、「社会力」が必要とされる時代的背景を三点指摘する。

 すなわち(1)地方分権時代において自分の住んでいる地域のあり方に積極的に関わり、民主主義を実行に移すために、市民、住民のパワーアップの必要性。(2)マクロ的に見て人類社会が凄まじい状況に直面して「世界の危機が日本の危機に直結している」時に、「身のまわりの実感主義を超えた想像力」が必要とされていること。(3)またとくに日本人にとっては、「階層間の格差が拡がりつつあることにともなって生じている厄介な問題」(=格差の固定化とこの結果起るアパシー[無気力]とアナ―キー[無秩序]の状況)を打開するために社会の構成員に「社会力」が必要とされていること、である。

 このような「社会力」の必要性を踏まえて、門脇は、教育において先生と生徒が「経験そのものを共有すること」、「同行者」(=ある一つの目的を持ちながら一緒にそれをやっていく姿勢)の重要性を説く。そして佐高は、「ナマの、今、起こっているような問題(中略)それを正面に取りあげる」ことで社会への興味を深めていくことを強調する。すなわち「アクチュアルなものと古典をたとえて、ナマ物と干物とすると、ナマ物を与えないと、咀嚼力としても栄養価としても偏る」と。

 そしてこの視点は、近代社会を支えてきたとされる原理に対する批判をも含んでいる。この点について門脇は、こう述べる。

 「近代というのは、メリトクラシーというか、能力主義をベースにしてきているから、能力のある者は社会のなかでいい思いをしていいのだ、能力のない者はおまえの努力が足りないとか、能力がないからしようがないのだ、というようなことが公言され、まかり通ってきた社会です。こういう社会のあり方はもう限界に来ているのではないかと思いますね」。

 そしてこのあり方に対して、「少ないながらもある一定の量を持った人たちが、何人か協力するような形で集まった100の方が、一人でまるごと100を持っていて、だから俺は偉いなどと威張っているよりも、はるかにいい。これからの社会はまさにそのような状態を想定しながら、物事を考えていかないといけないのではないか」と、互いに知ってつながり合い助け合う関係、「社会力」を対置する。

 本書はこのように教育をめぐる諸問題に、「社会力」という立場から、現代資本主義社会そのものの変革を迫る視点を提示する。この視点は、まだ発展深化の余地があるものの、このことを語る意義は大きい。ただし本書が著者二人に共通の体験──本書は山形県荘内地方出身者の東京学生寮「荘内館」での共同生活をもとに語られている──という枠を持つことには少々の違和感を感じないでもない。しかし「人と人とがつながり、社会を作る力」を強調する著者たちの提言は、他の地域においてもっとさまざまな形で実現されてもよいのではないか。本書に続く「社会力」の実践が期待される。(R) 

 【出典】 アサート No.288 2001年11月24日

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