【書評】『転向再論』鶴見俊輔・鈴木正・いいだもも
(平凡社、2001.4.5.発行、2,000円)
本書は、先日亡くなった石堂清倫の視点に啓発されて、著者の3名が、それぞれに転向問題(非転向問題)を再考察したものである。
転向問題については、日本の革命運動では、ともすれば「裏切り」の意識から後ろめたいものとして語られることが多く、個人の倫理の問題として片付けられがちで
あった。しかしこれに対して鶴見俊輔は、『共同研究・転向』(1959年)において、「転向はつねに、実行可能な非転向との対比において記述される必要がある」との視点を提出して、転向=悪、非転向=善論の単純化を批判した。
またその後、吉本隆明は、転向を「日本の近代社会の構造を、総体のヴィジョンとしてつかまえそこなったために、インテリゲンチャの間におこった思想変換」としてとらえ、佐野・鍋山型の屈服も、蔵原・宮本型の非転向も、同時代の状況との接触を失うということでともに不毛な思想であるとした。そして中野重治の「村の家」(1935年)に、日本の封建的優性との対決に立ちあがっていく革命家の姿勢を見た。
本書の鈴木論文「転向異説」では、中野の転向問題を取り上げた石堂が、その探究の過程で、当時の日本共産党の転向概念の誤りとその基礎として存在したコミンテルンの時代認識と指導理論が間違っていたことを自覚した点が強調される。
鈴木によれば、石堂自身の反省では、「1930年代から陸軍が全国各地で組織的にくりひろげた農民に対する悪質なデマゴギーとその宣伝効果を見過ごしたこと」がもっとも悔やまれたとされる。
「この動きを軽視したのはなぜか。石堂さんの反省は、最も強い反戦勢力であった日共が創立以来、コミンテルンのほうばかりに顔を向け、ソ連防衛の任務に忠実のあまり、日本の現実を自分の目でみて、その経験から反戦のための、より緩かな連帯行動を可能にするような共同の知恵を探ろうとしなかったからである」。
すなわち1930年頃の帝国主義戦争反対の運動は、<大衆の中へ>と<共同戦線>に背を向けた極左的攻撃理論と自殺戦術であり、この中で何らかの迂回もしくは緊急避難の戦術は採用されなかったのである。これは、権力・軍部の側からの「母乳とともに飲みこんだ愛国心」という日本人の泣きどころを突いた転向政策と裏腹の関係をなしていたと言えよう。
そして鈴木は、これに対して「抗日中国」における偽装転向による獄中からの同志の放免という中共の政策を紹介する。そしてそこで、革命運動における節義(正義と有効性)の問題は、この政策では「個人の道徳(私徳)の位相でなく、抵抗する集団の公徳にかんする問題としてとらえられている」ことを評価する。
そして、「もし同様のことが日本の反戦と革命をめざした運動において時機を失することなく、提起され実行されていたら、石堂さんの尊敬する中野重治が、文学の場で果たそうとしていた『革命運動の伝統の革命的批判』を政治の場で遂行できたであろうに。そして転向と偽装転向の問題はもっと生産的になり、戦後の『転向』論の趣は変わったのではなかろうか」と述べる。
この問題意識から鈴木は、「事例研究」として、古在由重、戸坂潤、吉野源三郎、中井正一の四人を取りあげてそのそれぞれの転向の本質を探ろうとする。
また鶴見俊輔の論文「国民というかたまりに埋めこまれて」も、石堂を評価して、次のように述べる。
「石堂の記述は、転向からほとんど七十年のあいだの、当人による絶えざる照合の積み重ねである。その過程で、日本共産党の転向の裁定のかたくなさと勇み足への批判、そのもととなったソヴィエト・ロシア共産党の同時代観の根拠のなさへの論証が行われる。さらに、敗戦後の満州でおこった転向・偽装転向・再転向、それらについての根拠のない流言と、流言による粛清についての記述があり、そこには敗戦後から現在にいたる知識人の右往左往への予知がこもっている」。
この視点から、「国家の圧力に屈した個人の決断」を「その一回かぎりの形を見つけるごとに記述する」という転向研究のもつ有効性を、「その特定の状況をこえて、ちがう状況の中で、その転向がもち得る意味を考えさせる。日付の特定がかえって、別の日付のちがう状況の中で、その転向の形がどのようにくりかえされるか、受けつがれるかを考える可能性をひらく」点にあるとする。
そして石堂が認識し、鈴木が指摘した点にこそ、現在の「戦後のすでに五十五年におよぶ、国家の強制を感じさせない形ですすむ転向を見すえる」枠組みを可能にするものがあるのではないかとする。
転向を近代国家としての日本の進歩に並行する事実としてとらえることで、日本文化の強さにつきまとう弱さを認識し、「非転向への不毛な固執を避け、しかもまともな人間として現代に生きてゆこうとする考え方」があらわれることを鶴見は提唱す
る。
以上の二論文の問いかけに対して、本書の約7割の分量を占める、いいだももの論文「八・一五相移転における『転向』の両義性」は、その冗長な博識の割には、内容が乏しい。ここでは、いいだの主張で注目に値すると思われる二点をあげるにとどめよう。
その一。いいだが、伊藤晃の『転向と天皇制』から次の文章を引用して、これを重要な提起としていることである。
<『満州事変』で共産党が戦わずして敗れたことこそ、二年後の起きた大量転向の潜在的な一理由だった、と考えなければならない。『満州事変』は無産階級全体に予防反革命として働いた。『指導者の転向の足下には国民大衆の転向があったのである』(本多秋五)。・・・社会対立のエネルギーが戦争のエネルギーとして吸収されていった、『満州事変』に至る歴史過程は、大衆のあいだで支配階級と共産主義運動とが思想的に競合するべき期間ではなかったか。その実戦で共産党は敗れたのではないか>。
これはまさしく石堂と軌を一にする問題のとらえ方であろう。
その二。「天皇制打倒」のスローガンをかかげた日本共産党の運動は、「スターリン専制指導部の圧倒的影響下に置かれ続けたまま、佐野・鍋山の『転向声明』以来、天皇制への帰順、中国戦争参加等への流行的氾濫は見られたものの、共産主義的異端派としてのトロッキズム運動の“洗礼”はよくもあしくもほとんど見られなかった」ことの指摘である。いいだは、ここに「コミンテルン日本支部として出発した日本共産党の理論と運動の『輸入』体質・『事大主義』根性もふくめて、そのようにも根深いスターリン主義的体質」を見、現状においてもスターリン主義批判は依然として皆無であるとする。
この点については、日本共産党のみならず、他の緒潮流においてもなお批判的検討が必要なところであろう。
以上本書について、その主なところを紹介してきたが、転向をどのように位置づけ、そこからどのような経験知を得るかは、現在のわれわれに課せられた思想的政治的問題であり、このための有効な視点が本書にはある。そして次の鶴見の言葉は、われわれ自身が考えるひとつの手がかりを与えるであろう。
「転向前と転向後の思想のつながりを自分で確認することを、最初の関門としておく、そしてこの関門を一度通ったらそれで終わったと見なさないようでありたい」。
(R)
【出典】 アサート No.287 2001年10月20日