【書評】福田静夫『「いのち」の人間学──社会福祉哲学序説』

【書評】福田静夫『「いのち」の人間学──社会福祉哲学序説』
                   (青木書店、1998.10.25.発行、3,800円)

「『いのち』という言葉は、近代以降、一方では、生物学や医学の場合に見るように『生命』という言葉に置き換えられて定着する内容を分化させていったし、また他方では、社会科学や哲学において『生活』もしくは『生』という表現を与えられていく部分を生み出してきた。(略)むしろ『いのち』という言葉は、『生命』という言葉によって開かれた新しい適用分野をも組み込んでその外延を拡げるとともに、新しい内包を付け加えることでいっそうその豊かさを獲得していった」。
本書は、「いのち」という中心概念に依拠して、現代社会・人間の諸問題に迫ろうとする試みである。この未定形な言葉(「いのち」)をキーワードに据えることで、かえって現代社会のすべての側面にアプローチしていくことが可能になるのではないかとする著者の立場は、これまで余り顧みられることのなかった独自の視点を提供する。
本書の構成は、「いのち」の概念の多面性に即して、現代社会の多彩な諸問題を反映している。その主な内容は、次の通りである。
[序 章]「いのち」の歴史と人間──「いのち」の自然史、社会史、「いのち」と「環境」の問題など。
[第一章]現代社会と「いのち」の諸相──「いのち」の生みと育ち、「いのち」の南北問題、「従属人口」、「いのち」の終末など。
[第二章]現代史のなかの「いのち」──戦争、高度成長、日本資本主義の格差構造
と「いのち」など。
[第三章]グローバリゼーションと「いのち」の理念型──「ゾーン・ポリチコン」
と「自然法」、「レッセ・フェール」と「疎外」、      「従属」
理論、「正義」論と「平和学」など。
[終 章]「人権」と「福祉」(「いのち」の21世紀へむけて)──「人権」問題
の新しい地平、日本型「福祉国家」の問題性など。
ここに見られるように本書では、「いのち」が、自然史的、生物学的な問題、出産や子供や老人の問題、戦争や労働との関わりの問題、理論的な諸問題あるいは世界システムとの関係の問題等々と絡めて提起されている。その個々の諸問題について詳述することはできないが、ここでは、戦争と高度成長(労働)の問題に関して、「いのち」についての著者の姿勢を見てみよう。
戦争と「いのち」の問題について、著者は、明治国家による「10年刻みの対外戦争」から「アジア太平洋戦争」にいたる日本の対外侵略での、犠牲者への戦争責任を厳しく批判するとともに、「戦後」の戦争についても言及する。 「非常にはっきりしていることがある。それは、『戦後』は、決して戦争のない時代などではなかった。反対に、相互連関の深まった20世紀後半の『戦後』の世界は、その前半の『戦前』の世界よりもはるかにしばしば戦争を体験していたし、そこで生み出された『いのち』の被害は、世界大戦のそれに匹敵する」。
「そして忘れてはならないことは、この『いのち』の犠牲の巨大化に対して、日本は世紀の前半には直接の加害者として荷担し、促進してきた責任を問われるだけでなく、『戦後』の日本の経済復興において、朝鮮(1950~52)とベトナム(1960~75)で戦われた戦争によるアメリカ軍の『特需』に支えられた不幸な歴史を持っているということである」。
「日本の支配的な文化は、残念ながら、20世紀の歴史に刻み込まれている戦前、『戦後』のこの加害体質をなお重く引きずっている。日本の国民が、この加害体質に無自覚でいるとするならば、いやおうなく国民の戦争責任、『戦後』責任が問われ続けていくことになるであろう」。
「戦後」の「いのち」への加害責任についての著者の指摘は、「買春大国」日本の問題を含め、現在真剣に考えられねばならない問題であろう。
また高度成長(労働)と「いのち」の問題については、次のように述べられる。 「戦後の日本が『経済大国』の位置にたどりつくまでの道には、いわば死屍累々と言っていいほどの莫大な『いのち』の犠牲が横たわっている。『いのち』にとって、戦後の日本はけっして生きやすい国ではなかった」。
このことは、戦後統計の存在する1952年以降の労災事故による死者数が特段の減少の傾向を見せていないこと(年間の労災による死者数は、1986年以来ずっと2300~2400名台で推移している)、驚くべき増加を示している交通事故の死傷者数(1996年で、死者約9900名、負傷者約94万2000名──1日当たり死者約27名、負傷者約2580名)、そして自殺者の数が、1977年以来95年まで(91年を例外として)年間2万人を超えていること等にあらわれている。つまり高度成長を生み出してきた日本の社会構造は、また「いのち」に辛い社会をも生み出してきたのである。
この構造は現在もなお、「ジョウゴ型の所得格差構造」、企業間格差、男女間の賃金格差や女性間格差、長時間労働と過労死等々というかたちで厳然と存在しており、著者は、これらの問題に対する取り組みと同時に、その根本的な原因としての資本主義経済システムの改革が不可欠であると強調する。
というのも「資本主義という経済システムが世界史的に勝利する時代が、『いのち』にとって苛酷な時代となったのは、資本主義というシステムが人間格差をその存在条件としているからである」。
すなわち著者によれば、資本主義の基本的過程である商品の生産・交換・消費は、制度・交通などの諸関係と人間関係の複合した複雑な資本主義適過程をたどる。しかしこの過程は同時に、市民が多面的に営む人間的生活過程でもある。そしてこの場合、前者(資本主義的過程)を条件づけている利潤による「資本主義的な合理性原理」は、後者(人間適生活過程)の「人間主義的な合理性原理」とは、必ずしも一致せず、両者の矛盾の中でで絶えず前者が優先される。この社会構造の隅々にまで利潤優先の構造が行き渡ってしまっている状況こそ、まさしく今日の日本社会なのである。
著者は、このように「いのち」を中心概念として、多面的かつ複合的に、社会構造に存在している諸問題を解明していく。この切り口は、総体としての社会に検討を加える方法としては有効であると言えるであろう
ただし、「いのち」というキーワードが、未定形ということから、今後「いのち」自体の明確な規定が必要とされていることは指摘しておく必要があろう。さらに、「いのち」という包括的総体的な視点からの社会へのアプローチという大きな問題提起が、特定の「政治的」立場の狭い枠組みにとらわれて語られている箇所が見い出されるのは、残念であると言わざるを得ない。また整合性の問題も残されているが、本書は、「いのち」学の始まりに置かれたひとつの礎として評価されるべきであろう。(R)

【出典】 アサート No.261 1999年8月21日

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