【本の紹介】「新左翼運動40年の光と影」

【本の紹介】「新左翼運動40年の光と影」(1999年9月15日 新泉社)

この本は、渡辺一衛、塩川喜信、大薮龍介の3氏の編集による、多数の意見集という形式を取っている。3氏の他にも菅孝行、樋口篤三、小寺山康雄、白川真澄、村岡 到氏なども登場する。
この本の問題意識を私なりに要約すると、次のようになる。
50年代末から、日本で青年労働者・学生の運動の中で、「旧左翼」に飽きたらない「新左翼」が生まれ、60年安保や70年安保、さらに70年代中盤までは、日本の社会に大きな影響を与えてきた。しかし、そのエネルギーはすでに分散し、過激派という言葉すら、死語になりつつある。あれだけの爆発的な運動がどうして、今のように萎んだのか。「あの運動を基盤にした国会議員の一人すらいない」現状(経験者という議員はいるが)、こうした停滞に対して、それぞれが、反省も込めて振り返りつつ、新しい運動を構想する、というようなことだろうか。
前月号の投稿にも、広島のSさんから、我々の運動の総括が必要、という意見があったが、私自身も、また我々も、60年代以降の時代を生きた人間として、運動の概括的な総括や今後の運動への新たな視点を求められていると感じている。言わば、「時代の総括」を行う必要が、個人にも組織も求められているわけである。
この本の出版については、インターネットの「マル共連BBS」での「書き込み」で知り、購入したわけだが、それなりに重みのある内容となっている。

<「新左翼」の理論自体が古典的理論だった>
共通して述べられている問題の一つが、「反スターリン主義」(或はトロッキー主義)についてである。新左翼各派は、総じて「スターリン主義」に反対して、「レーニン主義」の立場を取った。ところが、この「レーニン主義」自体が、例えば「何をなすべきか」(レーニン著)の中にあるように、自然成長主義に対して、少数の前衛主義であり、他党派に対する理論闘争であったり、また唯一前衛党主義であったり、それ自身がすでに「古い理論」でしかなかったということである。
塩川氏(『新左翼の創成、そして今』)によると、50年代後半に生まれた新左翼の共通点は、第1に、「・・・古典的革命理論の信奉であり、前衛党の指導の必要性、国家権力の掌握と革命権力の樹立、国有計画経済などなど・・」、第2は組織論について、レーニンの「何をなすべきか」に代表される、「職業革命家を軸とする前衛党が、鉄の規律をもって革命を遂行するというテーゼであり、第3には、60年代からの新しい資本主義的発展に対する認識の限界があった、第4には、従来のマルクス主義の理論では無視・軽視されてきた環境や資源問題など新しい矛盾への対応の遅れ、第5には、階級闘争の枠に収まらない地域闘争や差別問題への軽視、などを指摘する。
つまり、新左翼とは言うものの、理論は60年代時点でも、現在から見れば極めて古い理論に立脚していたのではないか、というわけである。もちろん、この本の著者の皆さんは、マイナス面と同時に、これらの運動のもっていた新しい側面の評価を忘れてはいない。
そして結論的には「こうした総括の期待される結果は、「左翼」・「新左翼」の再生や「復活」ではなくて、今は名付けることのできない、新しい運動と組織、そして様々な運動やさまざまな組織の関係(ネットワーク)についての、創造力と想像力に富んだ理念ではないだろうかと。

<内ゲバに表れた民主主義論の欠如>
大藪龍介氏は、『新左翼党派運動の歴史的意味』と題して、「・・・スターリン主義との決別、・・・共産党にかわる新しい政党、別党路線を選んだのは画期的だったが、・・・新左翼党派は、ロシア革命をモデルとし、・・・何よりも国家権力の奪取に的を絞り、それを拠点として経済、社会の変革という基本方位をとった。・・・このように新左翼党派が立脚したのは、党・国家中心主義的変革構想であった。・・・しかし、40年程を経て、20世紀社会主義の歴史を総括的反省に立ちうる今日の時点では政治革命主義や国家主導主義をもってしては革命と建設の諸問題の成功的な解決を果たしえないこと」は明白だ、と指摘される。
前衛党の建設論や唯一前衛主義や我が派独善主義は、やがて、対立党派メンバーの物理的抹殺=内ゲバ主義へと行きつき、それは党派に限らず、無党派にも向けられる。反対派を粛清したスターリンと同一の独善主義にたどり着いたことの悲劇である。現在でも、存続している新左翼党派で、過去の内ゲバの反省を総括的に行った党派が存在しないことも触れられている。
大藪氏は、この内ゲバに至る新左翼党派の原因について、第1には、民主主義に関しての決定的な歪みを指摘し、第2には至上化された自党派への集団主義的滅私奉公を挙げ、第3には、スターリンの大テロルに対する批判の薄弱さを指摘する。民主主義については、プロレタリア民主主義という一階級の中での民主主義に過ぎず、近・現代では、むしろ被支配諸階級を含む民主主義でなければ社会は成り立たないことを理解していなかったこと、党内民主主義の至上化と党間民主主義の軽視、などを指摘されている。

紙面の都合でこれ以上の紹介は行わないが、なかなか示唆に富んだ内容と言える。私自身の思いで言えば、年代の違いや党派の違いはあれ、おそらく数万人の人々が新左翼運動や我々も含む構造改革派(?)的な運動に参加したはずである。しかし、「前衛党至上主義」や党派囲い込み運動、また内ゲバの蔓延などが、大半の人々に運動への不信、幻滅を抱かせ、運動から遠退かせた責任は大きい。イギリスでもフランスでもイタリアでも、60年代後半の学生運動世代が、社会運動の主導的グループを形成し、運動を継続させていることを考えると、日本における、「世代の総括」が求められていると思うのである。
「新左翼の光と影」は、こうした世代・時代の総括を考える上で、どちらかと言えば、旧「新左翼」の皆さんからの運動総括と言う意味で、ぜひ読者の皆さんも一読されてはいかがでしょうか。(佐野秀夫)

【出典】 アサート No.263 1999年10月23日

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