【書評】近代思想の系譜の新たな視点を探る

【書評】近代思想の系譜の新たな視点を探る
       –山本晴義『対話近代思想史』(三一書房、1998.3.31.発行、1900円)

戦後のマルクス主義哲学について、ラディカルに自己検証を続けている著者による近代思想史である。それ故本書には、これまでマルクス主義哲学では問題にされてこなかったり、あるいは見落とされていた視点が随所に見られる。
著者の基本的視点は、ルカーチの『理性の破壊』に依拠してきた「正統マルクス主義」=スターリン主義の立場を次の2点で批判しているところにある。その第一は、「哲学の根本問題」という「超歴史的な教条、公式」から出発することですべての思想を評価し批判していくことの誤りであり、第二は、レーニンの『帝国主義論』、コミンテルンの『世界綱領』、「資本主義の全般的危機論」の誤った規定である。著者はこれらの点を押さえた上で、近代思想の発展段階を区分する。
それらは「近代」──これはさらに(a)17・18世紀の絶対主義・市民革命の興隆期、(b)19世紀の産業資本主義に分けられる──と、(c)「現代」──19世紀末~20世紀の「後期資本主義」あるいは「大衆的資本主義」という区分である。
(a)では、アダム・スミスとヘーゲルが、(b)では、J.S.ミルとニーチェ、およびM.ウェーバーが、(c)では現代アメリカの思想──T.パーソンズ、G.H.ミード、C.W.ミルズ──が取り上げられる。(なお(b)の時代最重要の思想の一つであるマルクス、エンゲルス、ドイツ社会民主主義等のドイツを中心とする思想については、著者の「自己検証」が未だ不十分のため後日を期したいとして割愛されているが、残念と言わざるを得ない。)
(a)さて本書の特徴を示している主な事柄を指摘すれば、まずアダム・スミスの、一定批判的ではあるが予定調和的な独立生産者の社会観に対するヘーゲルの「市民社会」における個(特殊性)と全体(普遍性)との分裂とその統一という積極的な課題が取り上げられていることである。そしてこの課題がマルクスへとつながっていく過程が次のように述べられる。
「マルクスは、ヘーゲルが行ったこの近代社会における個と全体の合一という課題を、市民社会の矛盾の国家への楊棄としてではなく、市民社会の徹底的な批判と実践をつうじて楊棄してゆくなかで国家を吸収していこうとしたのだと言えるでしょう」。
そしてこのマルクスの姿勢がグラムシへと通じていると著者は指摘する。すなわちグラムシの、「国家──政治社会+市民社会」「国家とは、強制力の鎧をつけたヘゲモニー」という規定、「国家(政治社会)の市民社会への吸収」という規定こそ、グラムシがヘーゲルから学び、マルクスの国家論を継承している所以のものとされる。
(b)次にJ.S.ミルにおいては、その社会主議論でもっとも注目に値するのは、各種の協同組合(アソシエーション)、特に生産協同組合の問題であるとされる。そしてこれ
に関連して、いわゆる「ユートピア社会主義」と呼ばれてきた思想の意義が検討される。
「オーエンやサン・シモン、フーリエにみられるように、そしてJ.S.ミルやトーマス・ヒル・グリーンの社会主義にみられるように、資本主義的矛盾は原子論的な個人主義や科学的な実証主義では非人間化された大部分の人々の願望をみたすことができず、それを内在的に乗り越えるような高い倫理的・精神的な結合、種々のアソシアシオンを生み出したのでした」とする著者の分析は的確である。
さて本書で最も注目されるべきは、これに続いて検討されるニーチェであろう。この箇所において著者は、従来ニヒリズムを提唱する非合理主義哲学者としてしか見られていなかったニーチェの先駆的思想を指摘する。
「マルクスは、あくまで理性と民主主義・社会主義の見地に立って『市民社会(ブルジョア社会)』における『社会的生活諸活動』を追求し、そこにおける人間の『物象化』、人間の貧困化(『ブルジョア社会の唯物論』)を暴露し、労働者階級による反省と批判をつうじて実践的に楊棄することを説きました。ニーチェは市民社会が目指していた理性的調和が現実には大衆社会化状況をもたらしつつある現実に対する批判から、理性そのものに対する反逆を内面の中でやろうとします」。
つまりニーチェは、近代資本主義社会が生み出した「大衆社会化状況」(社会の合理化・機械化の貫徹、マスコミの拡大による大衆の平均化・画一化・受動化、議会主義の空洞化等)の「負の側面」を強烈に批判していると著者は評価し、この批判は同時に社会主義国にもあてはまるとする。
「1989年から崩壊したソ連をはじめとする社会主義国の現実は、まさにニーチェが言う『畜群的人間』のルサンチマンとデカダンス、ニヒリズムの支配する社会と言えると思う。また『真理への意志』、『絶対的に正しい真理への信仰』に対するニーチェの批判も、スターリン主義に対する批判として重要だと僕は思います。なぜなら『認識論主義』や『科学主義』、全ての『科学的真理』や『世界観』を自負している『マルクス・レーニン主義的革命家』のもとでは恐怖的な権威主義が生まれてくるのは不可避だからです」。
このニーチェの評価は、彼の近代社会に対する批判を肯定するものであるが、しかし著者はまた「とくに後期になると単なる反理性主義、非合理主義が露骨になりますね。ナチスに利用されても仕方がない」として晩年のニーチェの思想に批判をくわえる。そしてニーチェをナチスに積極的に結び付けた人物として、彼の妹エリザベート・ニーチェの存在が決定的に重要であるとされる。『権力への意志』は実はエリザベートによって編集されたものであり、「端的に言って『権力への意志』はニーチェの著書ではないということ」、そして「ともあれニーチェはドイツの国粋主義を否定しています」という著者の指摘は、これまでのニーチェ思想の評価の再検討を迫るものであり、同時にナチス時代の思想(ハイデッガーを含めて)のさらなる探究を要請するものであろう。
続いてニーチェとの関連で、ウェーバーの近代社会批判が取り上げられる。ウェーバーは、近代社会の原理として目的行為的類型を取り出し、これが現在では「鉄の檻」にたとえられるような化石化した「官僚制」(ビューロクラシー)の世界組織──官庁、企業、工場、学校、軍隊等──にまで巨大化し、自主的責任主体の喪失にまで至ったとする、絶望的なペシミズムの立場に立つ。この意味でニーチェの精神的系譜に属しているとされる。
(c)の時代では、主としてアメリカの現代思想が社会学を中心に論じられる。ウェーバーと同様の問題意識を持ちながら、ペシミズムとは逆のオプティミスティックな「社会システム論」によって体制支配の安定した形態を正当化したパーソンズ。これに対してラディカル・デモクラシーの立場から批判を加え、「社会学的想像力」の提唱によって歴史形成に主体的に参加する能力を主張する「率直なマルクス主義者」ライト・ミルズ。さらには「シンボリック相互作用論」によって自我の形成と社会的諸関係の不可分の関係を認識することでコミュニケーションの重要性を主張したミード(「普遍的な討論は、したがって、コミュニケーションの形態上の理想である。もしコミュニケーションが行われ、完全に成し遂げられれば、そこには・・・民主主義が存在する」)等々である。
このように著者の問題意識は近代思想史から現代を見通し、これらの思想の延長上に「現代の稜線」として、ハーバーマス(「主体的中心理性」から「コミュニケーション的理性」への展開)、ウォーラステイン(「世界システム論」)、グラムシ(「国家(政治社会)の市民社会への吸収」)を見い出す。そしてこれらの思想の中にこそ次の時代への跳躍の鍵が存在すると主張する。著者の思想の自己検証と現代についての深い問題意識が、この展望を生み出していると言えよう。小著ながら価値ある一冊である。(R)

【出典】 アサート No.246 1998年5月23日

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