【投稿】戦後民主主義を問い直す (no7の補論)
<いま、何かが確実に変わってきている>
小林よしのりの『新ゴーマニズム宣言スペシャル 戦争論』(幻冬社 1500円)がこの7月に発売以降、2ヶ月あまりで34万部を突破したと言われている。9月6日の毎日新聞第2面に、紙面3分の1のスペースを使った広告も掲載されている。トーハン調べの単行本(ノンフィクション)でも9位に入っている。この手の固い出版物としては脅威な数字らしい(産経新聞 9月6日)。また、自由主義史観研究会編集の『教科書が教えない歴史(全4巻)』(扶桑社)は、百万部を越えるベストセラーとなっている。来春発売予定の「新しい歴史教科書を作る会」編集の『(仮題)国民の歴史』予約申し込み件数も20万部を軽く突破していると言う。
今、何かが変わってきているのではないか。戦後50年が過ぎて、ようやく近・現代史も歴史として冷静に見つめて行こうという無意識の国民欲求の現れではないだろうか。
自由主義史観研究会や新しい教科書を作る会に対する疑問や反論や、批判、誹謗中傷が「左・右」立場を問わず展開されてきた。そのすべてに目を通したわけではないが、「左」に位置していると思われる側からの批判、反論には、誹謗中傷の類が大部分で、これまでの持論の言いっぱなしに終始し、全く論点を噛み合わせヨうとしていない様に感じる。それに比べ、「右」と言われてきた側からの反論や批判には、それなりに噛み合っており、読んで参考になる事が多かった。
私は、小林よしのりや自由主義史観研究会、新しい歴史教科書を作る会の著作に対するこれまでの「左・右」の側からの批判、反論より、これまでなんとなく「左」の側の主張する歴史観に同調していた人達が、これらの著作を読む中で、もう一度みずからの頭で考えて行かねばならないのではないかと変わってきた現象に注目している。
<「左」の批判は的を外している>
いま彼らの著作を購読し、その活動に注目している人達の大部分はこんな人達であろうと推測する。この動きが、これまでと違うのである。これまでの筋金入りの「右翼」や自民党「保守勢力」肝いりの運動とは、全く質の異なる変化であると言うことにいまだ気がつかず、従来と同じような問題意識で「保守・反動」側からの危機感の現れとしての策動と捉える「左」の側の反応は、完全に的を外しているのである。
逆に、「左」の側が、戦後50年間、「保守・反動勢力」側の攻撃に抗して築きあげてきた「戦後民主主義の成果」を、改めて「保守・反動勢力」側が、時の権力と一体になって突き崩しにかかっていると言う時代認識・危機感を持っているのだろうと思う。だから、自らのこれまでの歴史観に固守した反論の域をどうしても脱することが出来ず、論点を噛みあわそうとあえてしないのではないかと思われる。
「左」の側からの反論の代表的なものを選んで、徹底的に論じてみたいと言う衝動に駆られる事もあるが、既に論じ尽くされている事に屋上屋を重ねる事になるので、何処か気が進まなくなるのである。
もし、「アサート」に反論が載るなら、論じてみたい。と言うのは、これまで「アサート」に載った断片的な反論を読んで感じるのは、批判の対象としている側の著者の著作をまともに読んでの反論とは思われないからである。「揺らぎ」が全く感じられないのである。本誌225号の当麻太郎論文には揺らぎがあった。その揺らぎの内容に、私は共感し、共鳴した。当麻さん。再度投稿をお願いしたい。論争にも、遊びの面がなければ、面白くない。真剣一点張りでは疲れます。論破されてもかまわない。みずからの考えが間違っていたら改めたら良いのだからと、私は気楽に考えている。
アサート247号の論文「何が問題化ー戦後思想の課題」の中に、重要な依辺さんの問題提起がある。それは「しかし、このような各論のテーマはとりあえずこの場では意味がない。要するに、日本の戦後責任を明確にし、元慰安婦の人権を擁護すべきだと考える人々にとっては、自らが前提とする正当性に疑問が投げかけられること自体が認められないからである。」と言うところである。
言うまでもない事ではあるが、私は、日本の戦争責任を明確にすべきだと思っている。元慰安婦の人権を擁護すべきだと思っている。問題は日本の戦争責任とは何なのか。元慰安婦の人権を擁護するという事の内容は何なのかという事である。それを自明の事のように主張し、断定した物言いに「ちょっと待った」と感じるのである。
<新たな「侵略戦争論」の提起が必要>
あの「大東亜戦争」が、侵略戦争であったか、自衛戦争であったか、どちらかと問われれば、私は、現時点でどちらか一方に決められない「揺らぎ」を持っている。ただ、侵略戦争だと主張している側の論調への違和感が日増しに強まってきており、彼らの論調には多くの間違い、思い込みからくる「決めつけ」があると思い始めているだけである。
侵略戦争だと主張している従来の論調に違和感を持っていると言う事、あるいはその論調に異を唱える事自体が、侵略戦争を否定していることには直接つながらないと言う事が、彼らには理解ができないのである。いま侵略戦争だと主張している人達の論調そのものに明確に反対する立場からの、侵略戦争であったという論調もありうるし、そんな論調が出てこなければならないのではないか。出ているとしたら、ぜひ紹介して欲しい。
「強い普遍性や狭い絶対性を主張する近代的理性は、討議によって改めて位置付けられない限りドグマに転落する。」(アサート247号)という依辺さんの指摘はここでも省みられるべきであろう。
「右」と言われる側のあの戦争や歴史に関する論調は、さまざまな立場があって知的好奇心を覚える。いま、「左」と「右」の論争より、「右」と「右」のし烈な論争の方がはるかに質が高く、実証的であると私には感じられる。この問題に対する「左」と「左」のあいだの論争がないのは本当に不思議である。いままで、さんざん「左」の間で、さまざまな論争があったのに、この問題に対しては一枚岩のように見える。これは不自然である。社会主義世界体制が崩壊し、これまでの冷戦構造が崩れた現在社会の中で「いまの歴史教科書は、これでいいのか」について、「左」のあいだで論争がなぜ起こらないのだろうか。「左」の懐の浅さ、硬直性を感じずにはおれない。
最後に一冊の書物を紹介したい。『社会科教育98年別冊NO457号近現代史の授業改革9-特集:近現代史を見直すための文献案内』(明治図書)である。
今の私の問題意識は、(1)日本の近現代史を核としながら、世界史の中に日本の歴史を位置付けし直してみなけれなならないという事。(2)戦争論の整理と、国際法、国際条約の関係の問題。(3)グローバリズムとナショナリズムの関係から、国際金融市場の発展と近代国民国家の今後の機能変化についての問題、ポストモダン時代における国民国家論とは何なのか。そこにおける民主主義のあり方について、勉強していきたいと思っている。今回でこのシリーズを終えます。最後まで掲載していただいた編集子に感謝申し上げます。(1998・8・9織田 功)
【出典】 アサート No.251 1998年10月24日