【書評】ロシア革命と社会主義建設の本質に迫る
ロイ・メドヴェージェフ『1917年のロシア革命』
(1998.9.20.発行、石井・沼野監訳、現代思潮社、2500円)
社会主義国家ソ連の成立と歴史をどのように分析・総括していくかは、きわめて困難ではあるがしかし緊急を要する重大問題である。この問題についてのメドヴェージェフの新著が本書であり、本書はロシア革命の発生、ソ連の成立時代を扱う概史という内容を持っている。著者メドヴェージェフは、スターリン主義下のソ連において反体制的立場を取り続けた歴史家であり、『共産主義とは何か(上下)』(邦訳、1973~4年、三一書房)、『10月革命』(同1989年、未来社)等でよく知られている。またこの10月初旬に来日したばかりでもある。
さて著者は、ロシア革命(二月革命、十月革命)に関する定義論争に、「フランス革命には、(略)1789年から94年にかけての全事件が含まれるように、ロシア革命にも1917年2月から、ネップ[新経済政策]への移行が完了しソヴィエト連邦が成立した1922年12月にかけてわが国で起った全事件を含めるべきなのである」と主張する。そしてこの革命におけるさまざまな要素と諸問題を分析した上で、「ボリシェヴィキによって準備・組織され、臨時政府の支配に終止符を打った武装革命は、あっと言う間に、しかもほとんど無血のうちに終った」、「政権に就いたボルシェヴィキは、自らの勝利を確実にし拡大するための大規模な活動を展開した。十月革命後百日間の彼らの活動は、ほとんどあらゆる観点からみて順調であった。しかしながら、そのプロセスの多くは自然発生的に進行したのだった」と指摘する。それ故十月革命直後から、次のような状況が出現した。
「国民および社会生活の運営と整備に移行する段になってボリシェヴィキとレーニンは、まだ自分たちに解決の準備ができていなかったある問題にぶつかった。何を、どのような方法でロシアに創造するかを決めなければならなかったのである。(略)これらすべての問い(経済、国家建設等──引用者)に対するはっきりした答はなかった。というのは、そもそも社会主義とは、そして社会主義一般とロシアにおける社会主義革命とは何なのか、という肝心の問題がはっきりとは理解されていなかったからである」。
「1913年春、マルクス没後三十周年にあたって小論を発表した時、わずか五年後にはプロレタリア国家がいかなる『新しいもの』を創造し、いかなる『古いもの』を一掃すべきかという一般的でない具体的諸決定を自分が下さねばならなくなろうとは、レーニンには思いもつかなかったであろう。それがボリシェヴィキの多くの失敗や敗北の原因となった。レーニンと党にあったのは科学的理論ではなく、単なる社会主義の思想であった」。
そしてこの点については、レーニンのみならず、マルクスもエンゲルスも同様であったと著者は述べる。
「十九世紀および二十世紀の社会思想や社会・政治運動に彼(マルクス──引用者)が与えた影響は、何よりもまずプロレタリアートの歴史的使命についての学説と結びついていた。プロレタリアートは支配階級となって人類を社会主義と共産主義に導かねばならない、というものである」。
しかし「批判的分析を始めれば気付くように、マルクスは、新しい社会・経済の発展段階としての社会主義に関してまとまった学説など皆目持ち合わせていなかったし、彼もエンゲルスも社会主義社会とそれが機能するためのメカニズムについての何らかの詳細な計画をつくろうなどしていなかったのである。二人は傾向や目的について語り、若干の仮説を提示したに過ぎなかった」。
かくしてレーニンにとっては、「革命が勝利した『翌日』、この党は一体何をすればよいのか? あるいは百日後に何を?」ということがさし迫る大問題であった。「しかし、一つ彼が確信していることがあった。一刻も早く『収奪者を収奪し』、生産手段の私有、貨幣の力、商業および商品生産を廃止すべきだということである」。
このような状況の下にソ連の国家建設が進められることになるが、しかしその場合の「急進主義」「社会主義を理解する際の視やの狭さや教条主義」がかえってソ連の困難をもたらし、「大多数の国民の利益や要望に反する政策を実施しはじめた」とされる。
この点について著者は、こう述べる。
「ソヴィエトの文献では長いこと、内戦と干渉こそが『戦時共産主義』や『赤色テロル』を生んだとの説が定着していた。しかし実際はその逆だった。当時誰も『戦時共産主義』政策とは呼ばなかったボリシェヴィキの極めて厳格な経済政策こそがテロルや内戦を引き起こしたのであり、食糧徴発やテロルの激化がその内戦を長引かせ、深刻化させたのである」。
この経過と評価については、さらに研究が進められるであろうが、しかしともかくこの後に実施されたネップが新生ソ連を危機と荒廃から救ったということについては異論がないであろう。
「1924年にはまだレーニンは、ネップを農民への一時的譲歩、一時的後退であるとしていた。同年末レーニンは『後退は終わった』と書いた。レーニンは多くのことに驚かされていた。彼の覚書にはネップを戦術的駆け引きとする書き込みが少なくない」。
「1922年秋頃になると、レーニンの気分とネップに対する態度は変化し始めた。農民たちは難無く、ほとんど何の強制もなしに食糧税の義務を遂行し、そのことが経済的にも政治的にもソヴィエト政権を強化した。1922年秋頃すでにレーニンは、ネップについて1921年秋とは違った調子で発言しはじめた。今度は問題は、戦術ではなく戦略であり、一時的譲歩ではなく『本腰を入れた、長期にわたる』政策であり、また革命的方法から『改良型』の方法への移行であった」。
かくしてソ連は徐々に安定度を増していく。しかしそれは皮肉にも小ブルジョア型の綱領によってであった。そしてここに、後の時代に一層大きな困難となる問題の種が蒔かれることになる。すなわち「レーニンは、経済政策の自由化がこうした政党の影響力強化につながりはしないかと懸念していた。したがって、経済の自由化が政治の民主化を伴わなかった」のである。
この点について総括して、著者は次のように述べる。
「ネップの枠内で経済活動の自由を徐々に拡大していきながら、政治活動の自由も徐々に拡大してゆくべきであった。(略)ネップの導入を主張し、党に対してこの新経済政策が『本腰を入れた、長期にわたって』実施されるものであることを説得しながらも、レーニンは社会主義的民主主義を拡大させる必要性については一言も言わなかった。それどころか彼はテロルの維持、つまり法によって規制されない暴力の維持を要求した。ネップ導入はレーニンの最大の功績であり、民主主義の役割と重要性の過小評価が、彼の最大の誤りであったと私は思う」。
このレーニンとボリシェヴィキについての厳しい評価が、現在1990年代のロシアの状況に対する評価にまでつながっていることは、本書の終わり部分を読むと理解されるが、著者の立場からは、次の語が結論となる。
「いずれにせよ民主主義の軽視こそが基本理念としてのレーニン主義の危機だけでなく、ソヴィエト社会主義のあらゆるモデルの危機の原因になったと断言してもよいだろう」。
以上本書は、ロシア革命と社会主義の本質の深く迫るものであるが、また翻ってわが国の社会主義運動を考える際にも、他山の石として多くの教訓を与える書であると言えるであろう(R)
【出典】 アサート No.251 1998年10月24日