【書評】内発的発展論をめぐる二冊の書物
鶴見和子「内発的発展論の展開」
(筑摩書房 1996.3.15 5,000円)
保母武彦『内発的発展論と日本の農山村』
(岩波書店 1996.8.27 3,000円)
環境・エコロジーの問選、異文化多元的世界の問題等、地球的規模の諸問題が出現している現在、従来までの近代化論(欧米単線型社会発展論)によっては解決の展望が見い出せないとする論調が次第に大きな比重を占めるようになってきている。たしかに欧米近代社会を基準にしてすべての地域の社会の発展程度を測るなどということは、もはや無理な状況であるといえよう。また、これに代るものとして、「世界システム論」なども出現しているが、これとても従来の国家間の関係をこえた世界を対象としているという点で、欧米近代化論の延長上にあるものと見なされている。
そこで、これまでの観点の枠そのものを打ち破り、人間と自然、人間と人間との関係をもっと密接なかたちで示している「地域」を中心に社会の発展を見ていこうとする観点が出現した。これが「内発的発展論」である。この理論は、あくまでも国家の部分としての「地域」を前提とする「地域主義」とは、それ故異なった様相を見せる。
今回は、この「内発的発展論」にかんする2冊を紹介する。
まず前者、鶴見和子の「内発的発展論の展開」は、内発的発展ということを正面に据えた本格的な理論的かつ実証的な書物といえよう。鶴見は、「内発的発展」という表現に、先進国=内発的発展、途上国=外発的発展という図式に対する批判の意味があることを指摘した上で、内発的発展を次のように特徴づける。
「内発的発展とは、目標において人類共通であり、目標達成への経路と、その目標を実現するであろう社会のモデルについては、多様性に富む社会変化の過程である」。
「そこへ至る経路と、目標を実現する社会の姿と、人々の暮らしの流儀とは、それぞれの地域の人々および集団が、固有の自然生態系に適合し、文化遺産(伝統)に基づいて、外来の知識・技術・制度などを照合しつつ、自律的に創出する」。
このような視点から鶴見は、内発的発展論の先駆者として、民俗学者・柳田国男と中国の社会学者・費孝通を評価する。柳田は、「自然と人間との関係を、自然のままに従うという面と、人間が自然を制御するという面との両面から捕えている」とされ、費孝通の「小城鎮」(地方小都市にあたる)にかんする地域的調査は、内発的発展の対象とされる諸「地域(同じ生態系を共有する村と町との連続体)」を調査することで、「異なる地域の異なる社会変動のモデル」(「模式」とよばれる)を導き出し、地域内の連携と協力の関係を創り出すことをめざした、とされる。(「第1部 原理原論」)
また著者自らの携わった調査として、水俣病多発集落における水俣病患者・健康者の聞き取りから得た結果から、水俣における内発的発展のかたちを確認する(「第2部 事例研究」)。
そこでは、水俣病に村する認識として、「水俣病の発生は、部落内の人間関係を「奇病」という差別のレッテルによって分断したが、裁判闘争はそのような差別に抗して、団結を高揚させた。しかしその団結の成果として補償金をかちえたとき、人間関係は崩壊しはじめた。水俣病によってではなく、お金によって、人間関係が崩されたことは一つの逆説である」とする鋭い指摘もなされる。
そしてその危機をのりこえて、人々が「自分たちを絶望の瀬戸際まで追いつめた、いわゆる「近代化Jとは異なる生活の形と、人間関係を創出しようとして、さまざまな小さな集団を形成しつつある」という事実を踏まえて、「中央集権型近代化に対して、その弊害を身に受けた小さい民が、小さい民の立場から、地域の水と土と歴史とに根ざして、こころみはじめた、内発的発展への萌芽」を見る。
この過程は、鶴見によれば、「自らの身体を、自分たちの住む地域の自然の一部と見なし、内なる自然と外なる自然との対話と共生をとおして、自立した判断と行動の主体を形成するという姿勢」に裏打ちされている。そしてそこには、「近代の負の側面を修復するために、前近代の正の側面を賦活しようという、世界的な動向に、つらなるもの」があるとされる。
ここから鶴見は、さらに飛躍して、次のような仮説が成立するのではないか、と述べる(「第3部 アニミズム・エコロジー」)。
「それは、現在の地球的規模での生態系の危機に直面して、暴力のより少ない科学および技術を形成するために、アニミズムがその動機づけの体系として役立つのではないか、ということである」。
すなわち近代文明の合理主義の行き詰まりの打開策を、近代合理主義の思考方法の根底にあるとされる「生命の原初形態」「生命の根源」にさかのぼることにより克服しようとする0そしてその例を南方熊楠の「南方曼陀羅」論に代表されるエコロジー運動に見い出すのである。
ここに見られるように鶴見の内発的発展論は、近代化論に対する割合にまともな批判にはじまるが、これをのりこえる展望としてアニミズムに代表される前近代的な方向へと進んでいく。さまざまな多様な個々の取り組みは、それぞれ現代社会に対して意義をもったものであるとはいえ、それらがかかる前近代的非合理的方向へとつながっていくものであろうか。むしろ鶴見が述べているように、「多様な実例と多様な理論とを、どのように共通の目標にむかって、つなぎあわせてゆけるかが、内発的発展論のもっともむずかしい挑戦的課題であろう」というのが正直なところではないであろうか。
次に後者、保母武彦「内発的発展論と日本の農山村」は、この内発的発展論の日本の農山村における実例をもとに、より具体的なかたちで論述する。本書は、農山村の現地調査と戦後日本の農山村政策の検討を踏まえて、説得的政策的な提言を出している。前者の鶴見の著書が内発的発展論の本格派とすれば、本書はその社会派というべきものであろう。それだけに内容にはわれわれ自身の足元の現実の重みがある。
保母の間題意識は次の文に集約される。
「今後の農山村は「生産」と「環境」をキーワードにしていくことが必要である。地域づくりの目標は、「維持可能な発展」と「生活の質」におかれる必要がある。地域振興の方法としては、複合経済の確立、農村の共同事業の実施が大切なテーマとなる。決定的なのは住民の参加と自治である」。
このような視点から農山村の現代的状況、特に過疎の問題を通して、日本の農山村のもつ本質(農林業・農山村がもつ公益的機能の評価)が指摘される。
「日本の農山村の衰微は、農山村居住者だけの問題ではなく、食糧、水源や余暇活動の場を農山村に求める都市住民の問題であり、また国内の木材や食糧生産をおろそかにして輸入に依存するという点では、地球 環境の問題でもある」。
それ故「国家政策としては、何よりもまず、農林業・ 農山村が持つ社会的の評価において、食糧生産機能に加えて、地球環境、国土政策(治水、流域管理等)及び都市住民(健康、余暇等)にとって国内の農山村の維持存続が欠かせないことの認識をはっきりさせる必要がある。そして、農家の維持存続や農村集落の維持存続を経済的に支える制度的、財政的制度の検討が急がれる」。
すなわち農業は、「商工業とちがった別の論理」で動いていることの認識が必要であり、国際化のもとでの「市場論理」、「経済効率」論で割り切ることは、日本の国内農業の否定にしかつながらない。従ってここに、農山村の地域(特に中山間地域)における再生が問われることになる。そしてそれは外部資本の導入による活性化(外発的発展~これはしばしば地域に経済的その他の利益をもたらさないばかりか、害を与えることもある)ではなくて、内発的発展論にもとづく政策としてなされる必要がある。
それは、農山村のもつ資源・環境・景観を含めた地域社会への総合的視野をベースに、「有効な人工政策」「就業対策」「生活対策」(「農村的生活様式の今日における再生」)が目標となる。そして「地域の独自性」「地域の個性」が、農山村の「自律性」として現われてくるような政策が必要とされるのである。
ここには前出の鶴見の内発的発展論と通じるものがあるが、保母はこれを具体的な政策として検討する。例えば、生産条件の不良な中山間地域に対して、ヨーロッパにおける「ハンディキャップ地域政策」のような環境保全の具対策を提言する。あるいは経済効率至上の理論からの農山村補助金の解放を主張する。
(なお保母は、鶴見の内発的発展論に対して、「そこでは政策論が消えている」と指摘する。そして「内発的発展論が「権力」奪取を目的とするものでないことや社会運動を必要とすることはそれなりに肯首されるとしても、だからといって、政治権力の一つである地方自治まで拒絶する論理によって、どのような展望を持ち得るというのであろうか」と厳しく批判する。)
このようにして、保母は、経済効率一辺倒で突っ走ってきた日本社会に地域の「自律」概念によって切り込み、「維持可能な社会」の実現、「生活の質」の要素の重要性を強調する。
以上の2冊は、内発的発展論をそれぞれの視点でとらえて現代社会を批判し、新たな改革への足掛りとしようとするものである。この理論そのものがまだまだそれほど知られていない時期にこれらのもつ意義は大さいといえよう。(R)
【出典】 アサート No.232 1997年3月21日