【書評】「脱工業社会」と「イデオロギーの終焉」再論のもつ意味

【書評】「脱工業社会」と「イデオロギーの終焉」再論のもつ意味
D.ベル『知識社会の衝撃』(山崎正和・林雄二郎他訳、TBSブリタニカ、1995.9.7.  2,000 円)

かつて『イデオロギーの終焉』および『脱工業社会の到来』によって激しくマルクス主義を攻撃したダニエル・ベル(D.Bell,1919~)が、『知識社会の衝撃』なる著作で今一度自説を展開している。本書は、ソ連崩壊後「マルクス主義や旧来のイデオロギーの時代もまた崩れ去ろうとしている」と見るベルの見解を裏打ちしようとするものであり、同時に彼なりの未来社会論(情報社会・知識社会論)の展開でもある。しかしその細部には現代社会についての鋭い指摘があるとはいえ、看過し難い問題点が数多く含まれていることは従前と変わらない。
ベルは人間の知的活動を二つに分類し、「知識」(knowledge)と「意味」(meaning) と名づける。前者「知識」は、これを生産・応用・評価(政策担当)する人々によって担われ、後者「意味」は、ずっと古い時代から礼儀を司る人々(聖職者)、美意識の表現者、イデオロギーを用いる人々によって担われる。
さて前者の「知識」は、その本質に従ってさらに「昔ながらの経験的知識」と「理論的知識」に細分されるが、現代社会において中心的な役割を果たしているのは「理論的知識」である。すなわちベルは、ある社会の発展を「技術の梯子」という概念で特徴づけて、その社会がどのプロセスを歩んでいるかによって、「前工業社会」→「工業社会」→「脱工業社会」と区別する。そして「脱工業社会」においては「モノからサービスへの移行」と並んで「技術革新や技術変化が初めて『理論的知識の体系化』によって得られる」こと・・・例えば、コンピュータの演算が、イギリスの数学者ブール(1815~64) の記号論理と二進法(ブール代数)により可能になったように・・・が決定的なのである。
「脱工業社会に関して重要なことは、工業社会において資本と労働がまさに社会変革の戦略資源であったように、『知識と情報が社会変革の戦略資源になる』という点にある」とベルは主張する。こうして「脱工業社会」は「社会的・技術的組織や生活様式にかかわる新しい〈原則〉」として推奨され、この段階に達したとされるアメリカと日本が論じられる。
しかしベルの理論には、この「脱工業社会」を推進している社会構造の分析が抜け落ちていることが指摘されねばならないであろう。新しい情報技術が新しい知的技術の基礎となるとはいえ、それが社会構造とかかわって使用されると、社会のどの部分にいかなる影響を与えるのか(例えば、自由と開放かそれとも管理と操作か等)については全く考慮されない。ベル自身が、「技術における革命」と「その結果として起こる社会的変化」とを「はっきり区別して考えている」と言明しているにもかかわらず、である。
もっともベルによれば、「データ」(あるいは情報)と「知識」(判断の集合体)とは区別されるべきものであり、現代社会においては「データ」(情報)の爆発的な増加に対して、「知識」(判断)の量は増加しているとは言えないという認識がある。
そして20世紀ではこの「知識」は「理論と理論知の体系化」に依存していることから、「脱工業社会」(知識社会)では、一方では高等教育の充実が要請されるが、他方では多くの人々が、「能力不足や人種差別、教育機会の欠如といった原因のために」、新しい社会に必要な知識を吸収できずに、労働の現場から排除されて、「下層民」に転落しかねないと指摘する。このことは、先進資本主義諸国間の激烈な競争と国内での諸矛盾の指摘ではあるが、また明らさまな能力主義的人間観・人種差別の宣言でもある。「脱工業社会」は、「知能の低い人間」=「下層民」として切り捨てられる社会なのである。
次に知的活動の後者である「意味」は、主としてイデオロギーににかかわって問題とされる。
ベルは、マルクス主義を含めて、イデオロギーという用語そのものが曖昧な意味しか持っていないこと、従ってこの言葉は歴史的な背景からしか理解されず、「本質的」な定義などあり得ないとする。(「マルクスの多くの仕事がそうであるように、彼が自分の用語を決して説明もせず、一貫した使い方もしていないということである。全体を通して観念、イデオロギー、意識、上部構造といった言葉の間には唖然とされる混乱がある。ときによっては、観念とイデオロギーが逆に使われることがある」等々。)
また特にマルクス主義は、イデオロギーを「個人利益をさまざまな化粧で合理化し、社会支配の構造を隠すごまかしの世界」と見なし、自らを「科学、もしくは歴史的真実」と見なしてきたが、このマルクス主義も「個人や階級を未来の目標に動員する一つの意見」としてのイデオロギーになったとされる。
かかる主張がなされる基礎には、ベル独自の歴史的観点・・・17~19世紀に西洋社会で生じた大変化「巨大なクロスオーバー(交差)」が存在する。クロスオーバーとは、近代市民革命において「当の革命家自身は伝統的宗教を攻撃し、迷信と見なしていたにもかかわらず、いまや公然と『政治的』な革命の目的が、実は一連の宗教的な衝動の仮面になっていたこと」(すなわち「宗教の言葉で演じる政治の舞台」)を意味する。従ってこの視点から見ればマルクス主義は「政治的宗教」(「世俗宗教」)であり、「必然の王国から自由の王国」へと「飛躍」する「一つの終末論的な運動」ということになる。
しかし今日、「イデオロギー」(物象化・現実の凍った模倣・諸範疇に偽りの生命を与える言葉の実体化としての)は・・・崩壊した社会主義の例を引くまでもなく・・・涸渇し自己崩壊を始めている。そしてこれに代わって、「近代性に対する反乱」(「欧米に対する戦い」)、「被抑圧者の回帰」、「宗教的原理主義」、「攻撃的ナショナリズム」が高まりを見せている、とベルは主張する。これこそ「イデオロギーの終焉」の意味するところであり、同時にこの概念の完全な「開示」でもある。そして「イデオロギーはもう取り返しのつかないほど『堕ちた』言葉」となっているのである。
以上のベルの議論は、ある意味では皮肉にもイデオロギー的な思考方法一般に対する批判として、教訓的な側面を含むかもしれない。そしてベルが指摘する「欧米に対する戦い」・・・その代表は、イスラム原理主義と中国のナショナリズム・・・にも世界の眼が集まる可能性は高いと言えよう。しかしベルの文明論は、前述の「脱工業社会」における基本的構図を一歩も出ないものであり、「イデオロギーの終焉」も結局は現状肯定にとどまらざるを得ないであろう。本書の一見楽観主義的な記述の底を流れる悲観主義的(実存的)雰囲気は、きわめて深刻なアメリカ社会の諸矛盾の反映という印象が強い。
本書は、マルクス主義への手ごわい敵対者の著作であるが、現代社会の諸課題を考察する上で反面教師として、われわれ自身の視点の確立と深化に有益な書であると考える。(R)

【出典】 アサート No.220 1996年3月23日

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