【書評】現代哲学(男性哲学)の行き詰まりと女性哲学の可能性?
–三枝和子『女の哲学ことはじめ』(青土社、1996.7.10.発行、1800円)
「女の哲学は抽象の壁を破って、論理を展開する! 西欧哲学の権威主義的視座を根底からくつがえし、フェミニズムに新しい地平を拓く大胆な思考」と帯に印刷されている本書は、「女」の立場から哲学を試みる書であるということになっている。しかしながらこの威勢のよい本は、首肯または疑問視するべき多くの問題をも含んでいる。
著者は、哲学にかかわるにあたって、男の思考とは、次元も方法も異なる女の思考を前面に打ち出す。すなわち「女性にあっては、男性の哲学で考えられているような『主体性』ないしは『自我』とかいったものは無い」と主張する。このことは、女性に「主体性」や「自我」がない、ということを意味するのではなく、「従来の哲学が今日行き着いた『主体性』とか『自我』とかいう概念を、哲学が行き詰った場所、思惟の思考方法が行き詰った場所としてこれを捉え直し、新たに女性の哲学を打ち出」すためになされる。
では男性とは異なる女性の思考とは何か。これを著者は次のように述べる。
「男性にあっては、自己が他者より優位であると認識することによってしか自己確認 ができないのではないか、という男性の思考の形態の問題点(後略)。
ひるがえって女性の自己確認の形態を考えるに、このような他者と相争うような形で自己確認をしないのではないかということだ。(中略)女性における他者とは自己と対決するものではなく、自己が許容できるもの、自己を許容してくれるもの、という関係にあるものではないか」。
つまり男性の場合には、自己に対立する他者とこれの否定を通して自己を確立するが、女性ではその対立と否定など存在しない別の論理が働いているとされるのである。
著者によれば、それは一般に考えられているような文化によって規定された男性や女性というカテゴリーを通してでなく、むしろ「生物学的必然性」にもとづいて男女の思考方法の差異、「ヒトのメスの奇妙な精神構造」を検討することで得られるのではないかとされる。つまり人間と動物の違いよりも、オスとメスの違いを重視し、「ヒトのメスはヒトのオスよりもライオンのメスに近いのである。私たちはヒトのオスとの共通点を求めるよりも、ライオンのメスとの共通点を求める方が容易なのではないか」という立場である。
この視点からの考察は、女性の思考に関して、「自我もなく主体性もなく、何とでも同化できる同一性」と「自己のなかから他者を生み出すプロセス」(受胎~授乳へと続く子育ての期間、「自他未分化の状態にあった自分の子どもを分離させる過程」)のなかに確認できる「区別性」と、無自覚なままに女性がそれ自身である「根拠」という特徴を見い出す。
そして女性の哲学は、自身が無自覚なままに根拠であったことを自覚することから始まるとされる。ただし「無自覚であったということを自覚するとは、単なる自覚がそこから始まったということにはならない。それは無自覚が自己の本質であることを知るわけだから、自己が自己の『根拠』をあらためて無自覚に置くことになる」。
換言すれば著者が問題にするのは、今までの哲学(男性の哲学)の論理の運び方それ自体であって、それに対しての女性の論理=「裏返りの男性の論理」を打ち出そうとしているわけではない、と主張していることが留意されなければならない。
この点で批判の対象となるのは、女性の自立を目ざして論を展開してきたボーヴォワールの発想の「男性性」であり、これは「遅れて来た男性」としての哲学であるとされる。そうではなくて、「ボーヴォワールの主張する、女性も『主体』確立しなければならない、というふうに論理を展開しないで、何故『主体』という意識が生じてきたのか、という方向で考えて行くことだって出来るのではないか。『主体』という意識が持っている構造からしてこの意識を粉砕するほうが『自由』を獲得できるのではないか」というわけである。
男性哲学の主張してきた「超越」的な「至高の孤独」、「主体」の思想ではなく、その発想の枠そのものが問題とされるところにもどることこそ、女性哲学の出発点であり、現代哲学の行き詰まりを打破する視点であるとされる。この意味でかかる哲学をもたらした端緒であるプラトンの哲学が俎上に乗せられる。著者によればプラトンこそは抽象化と理論的説明(ロゴス)によって共同体の言語を否定することで男性哲学を確立した哲学者であり、この伝統のおかげで女性原理は全く哲学から排除されてしまったのである。
それ故本書における検討から目ざされるべき哲学は、このような論理そのものの根源にもどらねばならない。著者はこの哲学の特徴を、「他者否定のない自己主張」、「受容的自他関係」、「無限の融和」、「拡散」の思考等々と表現しているが、その内容については現在のところいずれも素描程度でしかないのは残念である。
さて以上のように本書の提起した問題は現代哲学(著者によれば、男性哲学、西欧思想、人間優位の思想)の行き詰まりにひとつの焦点を当てたものである。それは現代思想の枠組みのあり方自体を問題にしたという意味では重要であり、しかも男性性に対して女性性を切り口として迫ったということには大きな意義があろう。個のような視点からの哲学へのアプローチが今後ますます発展することが期待される。
しかしその女性性をあえて「生物学的必然性」としてのヒトのメスを基点にしたことについては問題のあるところである。著者の論理──たとえば、受容性の主張等──に説得力があるだけに、人間の社会性とその発展に、もっといえば社会性を発展させてきた社会構造の発展に重きを置かず、ヒトのメスという設定のみが基点とされることが妥当かどうか。また同様に女性哲学の特徴としてあげられた「自他未分化の状態」の本質とそれがどう発展していくのかということについても、果たして(男性の)論理抜きに展開できるのかどうか、今後の議論に待たざるを得ない。
以上のように大きな問題は残るが、本書は哲学の流れに投ぜられた一石であり、これがどういう波紋を生んでいくか興味深いところである。(R)
【出典】 アサート No.228 1996年11月23日