【投稿】長い復興・「平常」への道のり--芦屋市での数日--
<<突然の職員派遣依頼>>
1月の末日、もうすぐ一日の仕事が終わろうとしていた午後5時ごろ職場(市福祉事務所)にFAXが飛び込んで来ました。「地震のため福祉事務所(生活保護)の業務が滞っている。至急生活保護職員の派遣を求む!!」という内容でした。急きょ、職場で会議を行い、意見交換。
「うちも仕事があるのに行ってられない」
「近畿各府県に依頼しているからどこかがいくよ」
「他市が行くならうちも行こう」
「今年度は地震まで起こって、何にもいいことないなあ」(・・という八つ当たりの意見)
「困っているのは明らか。できるだけ行こう」・・・・・。
いろんな意見が出た後、その日は「情報を集めて、他市と同等の対応」という無難(?)な所に到着。
翌日朝、再度FAX。派遣依頼人数は前日の30人/日から80人/日。派遣依頼先は近畿各府県から、全国の都道府県に対して。今日中に返事を!!
また職場で会議。出る意見は昨日と同じ。しかし、結論の方向は少し違う「最初の依頼は全ての市にあったが、全ての市が派遣するわけではない。どうせ回答するなら要請者の希望にあったものを」。戦後最大級の大惨事が身近に起こったため、「何かせなあかん」との共通認識があったのかも知れません。
<<交代で芦屋市へ>>
結局、期間で2週間足らず、芦屋市へ交代で応援に行くこととなりました。
芦屋市内の状況はマスコミの報道どおり。月並みですが、百聞は一見に如かず。途中の電車から見えたぷっつり切れた阪神高速。建物が傾き、立ち入り禁止の市役所旧館。地震から4週間経っても土砂で塞がれた道路。へしゃげた家は珍しくもない。路上に散乱するビルのガラス片。波打つ歩道。割れた道路。・・・・
電車の中、隣で地図を見る若者「ボランティアですか?どちらから?」と聞くと「ええ、東大阪市からです。ぼく散髪屋です。40人の仲間で水の要らないシャンプー持って3カ所の避難所へ行くんです。」一人ひとりが何ができるかを考えているんだと感心。
市役所も避難場所。執務場所の傍らで陣地を確保している被災民。顔をあげれば着替えをしている人。洗面所へ行くと歯磨き。段ボールで囲って寝ている人。壊れたロッカー、脇に押しやられたロッカー。職員も必要最小限いるのかいないのか、聞くのも気がひける。
近くにいた福祉部のある課長さん「地震があってから、今日(2/13)初めて自分の席に座った」「職員を2つに分けて24時間交代、この体制が出来たのが地震後1週間目でした」。
夕方、私に応援のお礼を言ってから救援物資の仕分けという次の仕事に向かう係長さん。「最初の1週間、何をやったのか、よく覚えていない」
彼らは、この状態をいつまで続けなければならないのでしょうか。
炊き出しをしている公園、広場を数カ所巡る。2月の寒い昼、あっちにもこっちにも100人前後の列。芸能人もボランティア(石原プロのトレーラー、渡瀬恒彦も走り回っていた、なぜかカメラを向ける人も多かった。)「応援に来てもらって何も(歓迎)できない。これも勉強のうち、気分転換になったら・・・」と、公園・広場巡りをしてくれた職員。「お宅も地震で大変なんでしょう」と聞くと「わが家は何とか住めるようになったが、向かいの実家が潰れ、母が亡くなりました。私だけじゃなく皆さん、同じだから・・・」(大阪 T.T)
【出典】 アサート No.207 1995年2月15日