【投稿】女性問題ことはじめ
アサート読者で性差別に関心のある方はどれぐらいいるのでしょうか。僕は労働運動を考えていくなかでフェミニズムに出会い、徐々に魅かれていきました。なんといっても“深い”のです。「単なる一つの分野」というより、日本的経営、働きすぎ、福祉、教育等の諸問題と大きく結びついているのです。ここでは働きすぎの問題と絡めて少し説明してみます。
日本人が働きすぎていることは、完全週休2日になっていないことによって19日分、有給休暇が少なくその消化率も低いことによって20日分、欠勤が少ないことによって9日分、その他残業などの分を合わせると合計年間で約500時間、3カ月分ドイツより多く働いていることでも明らかです。何故こんなに働くのでしょうか。
原因はいろいろあります。会社の強制力という直接的な理由もありますが、むしろ問題は「仕掛けられた自発性」とでもいうべき、強制されつつも本人が内面化している発想の問題です。つまり、「どうせ仕事は多いんだから残業してでもやってしまおう」とか「休むと仲間に迷惑かけるから」あるいは「残業を断ると出世に響く」「真面目に働いて家族を養うのが男の責任」と考えて残業長時間労働をしかたなくやってしまうのです。この背景には、労働組合が、要員や仕事量、昇進昇格などに規制力を持っていないことがあります。再度、労働組合の再生が求められていると言えましょう。また、家事・育児・介護を妻に任せることができるが故に、男性労働者は長時間労働ができるという問題もあります。
この間題を考えるとき、いわゆる男女関係の問題を組み込むことが決定的に重要です。ところが依然として、男と女には特性があるのだから性別分業はあって当然と考える人がほとんどです。しかし近年の研究では、男女の差(ジェンダー)は社会的に造られるものであり、「結婚」は決して普遍的なものではないことが明らかにされています。今私たちが異性愛性分業結婚を受け入れているのは、とても時代の制約を受けています。簡単に言えば男女の性差が大きく、性差別が大きいほど結婚のメリットは増大します。男女が自立するほど、結婚のメリットは低下します。つまり本能・自然というより、「結婚をしたら得だ」という条件が多い時代というだけのことなのです。
さて、この性分業があると、家事・育児は女性の役割となりますから、男性は別時間フルに会社人間にならざるをえないことになります。「子どもがいますから早く帰ります」といっても「奥さんがいるだろ」と言われてしまうのです。会社は「家族賃金」「扶養手
当」として妻子を養う家族分まで払っているのですから、男性社員には心置きなく残業をしてもらうつもりなのです。
また、男性は家族を養うという責任を持つので、首を切られないよう働きつづけ、出世競争に頑張らざるをえなくなります。年功賃金のもとでは査定による出世の差が大きく年収の差などに結びつくのです。
つまり、男性は競争に勝たねばならない、強くなくてはならない、妻子を養わなくてはならない、リーダーシップを持たなくてはならない、感情を出してはならない、寡黙でなくてはならないといった、「男らしさ」秩序に縛られてしまうことになります(この点がいま「男性学」として大きく発展しています)。この点を根本的に考え直さないで「時短一般」を唱えていても駄目です。
この性別役割分担には、その他いろいろな問題があります。まず女性が働くときに男性と同じような賃金や労働条件を得ることが難しくなります。「女性は養ってもらう」ことが基本とされるからです。補助的な労働やパートなどの悪い条件でしか働く場所がなくなります。
また「女らしさ」というステレオタイプが押しつけられてしまいます。家事・育児・介護の負担がすべて女性の肩にかかり、それをタダでやっても当然のことにしか過ぎません。それ以外をやろうとすると「わがまま」とされます。長時間働いても経済力がないので、自己決定カがなく依存的にならざるをえなくなります。
性分業が肯定されると異性愛結婚も肯定されるため、それ以外の選択をしたとき--離婚した者や独身者、ゲイ・レズビアン等--に不利に扱われます。
ではどうするか。経済と家族の現実は、いま大きく変わりつつあります。昔の性分業家族モデルに合わせているだけでは、「働きすぎ」問題にしても、「女性差別」問題にしても解決しないでしょう。
したがって「働かざるをえない状況」を変えるには、もう一度労働者一人一人、女と男ひとりひとりが、原点に立ち返って、自分がどのように何をして生きたいのかを明らかにする必要があると思います。カントは、「虫けらになることを受け入れたものは、踏みつけられても文句は言えない」といいました。自己主張をする個人が増えないと、会社や組合などの社会構造は変わりません。個人は暮らしている社会の影響を受けますが、その社会はそれを構成する個々人によって刻々と改造されていくようなものなのです。
この「主張する個人」のことを「シングル」と呼びたいと思います。そして、従来の性分業の社会秩序を変えていくには、性役割に捕らわれず、自分のしたいことを自覚し、それに向かって努力する「シングル」が増えていくしかないでしょう。そしてそれを援助する社会システムを「シングル単位社会」と呼びたいと思います。これは、今までの社会が性分業を組み込んだ「家族(カップル)単位社会」であったことに対応した呼び方です。言い換えれば、多様な生き方を認めあうためには、各人の共通要素である「個人(=シングル)」を単位にするしかないのです。制度としては、介護や育児も社会化し、高齢者や児童や障害者自身の権利として社会保障体系を作り替えることが必要となります。「主人/主婦役割からなる家族」というものを解体していくことが必要なのです。「専業主婦」や「妻役割」を肯定するような「ものわかりのいい」ものではないと思います。「家族」「性・セクシエアリテイ」をめぐる問題は、第1級の政治的課題なのです。これは古い左翼にはなかった思想です。
しかし、このことは言うは易く行うは難しです。従来の秩序から離れると、「受け身的姿勢」ではいられず、各人は不安定を受け入れなくてはなりませんし、自分で方向性を決め、創造力を培っていかなくてはならないからです。役割でなく、個人を生きなければならないからです。親でも子でも、妻でも夫でも、まず自分を持たなくてはならないからです。
でもこれは各人が自由を手に入れる希望でもあります。「シングルになる」とはそうした「創造的な営みのことでもあるのです。そうした試みや努力と結びつくことなしには、真に女・男がゆとりをもち、楽しく働き生活していく民主主義社会を造ることはできないでしょう。
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性差別を考えていくと、(家族)というものについて考えざるをえませんでした。驚くほど「家族肯定」「異性愛肯定」があふれていました。性別分業はあっても、女性も「カを持っている」「評価されている」「庶民の女性はしたたか」という見方は非常に多いのです。「男女の対等なパートナー」「セックスは全人格的コミュニケーション」といったカップル幻想・エロス幻想も非常に多いのです。セックスを生殖に結び付けることによる「ゲイ・レズビアン排除・変態視」は無意識的・意識的に前提でした。「わかったように言う人」はもちろん、いわゆるフェミニストや左翼や労働組合運動家、民主的市民運動層、革新系政治家でさえ、そうした家族にまつわる現在の有り様を無前提に所与のものとしていたり、疑ってもいない場合がほとんどなのです。家族の中の「人間的な暖かい心の交流」が、権力や貨幣と対抗的な価値と思われているのです。
でも、それは思考の中断の結果でしかないとおもいます。女性が「家のなかでしたたか」でも、性別貸金格差にはつながるということがあるのです。セックスが成りたつ背景には、対等でないく女と男>という2分法に基づく幻想があるのです。「女」「男」という
意識(性的自己認識とそれにもとづく性的志向性)自体に既に抑圧関係があるようです。「全人格的でない要素」でセックスをしているのです。家族はそうした「男制、女制」を再生産する場でもあるのです。つまり落とし穴が<家族)<性別分業>にはありました。(愛)に落とし穴があるように。男女が職場と家庭を単に相互乗り入れするだけの問題ではないということです。このことは保守派(宗教勢力、右翼)がこぞって家族や愛や性役割を肯定していることと結び付けて考える必要があります。女性が「家のなかでしたたか」ということと、ゲイ・レズビアン差別やシングルペアレント差別とを切り離して考えられるとおもうのはオネボケです。
この点を深めないで、今日の「人権」を語れるとは思いません。「会社人間」になることと「結婚する」ことには、秩序の観点から同じ根があります。私たちが「自由」なつもりでいて、いかに秩序に囚われ、秩序にそって思考し、秩序の上位へいこうとしていることか。そんなことでは、近代自体が生み出している差別の構造は乗り越えられないでしょう。「男らしさ、女らしさ」というものを受け入れることは、同じ意味で、今の社会に全く受け身的です。それでは民主主義は呼吸できません。
ではどうするのか。そういう立場で僕はこの度『性差別』と資本制』(啓文社)を書き上げました。今までフェミニズムに興味のなかった人も是非読んでやってください。この本では、民主主義の方向性とは、制度においての従来の幻想を解体することにあるということをいいたかったのです。とりあえずは制度的秩序を具体的に解体していくこと。制度において、この私たちの幻想を幻想と意識すること。それしか現実的に性差別を乗り越える展望はもてないと思います(それでも完璧はありませんが)。そしてその上で、長期的には、ジェンダーやセクシュアリティを意識し解体し新しく作っていくこと、その意味での多様性を認めることしかありません。
「シングル」とはそういう「秩序から逸脱するスタイル」のことです。民主主義の単位のことです。「シングル(個人)単位」という言葉には馴染みがない方も多いかと思いますが、いまフェミニズムや福祉制度、家族法、税制度関連分野では徐々に共通認識になりつつある重要な概念です。
『性差別と資本制』の構成はこレギュラシオン理論を援用し、従来のフェミニズムをめぐる諸論争をカップル単位制度の観点から整理・再評価することで、本書の基本的考え・基本概念・自説体系を提示するⅠ章、サービス経済化・ME化や現在のカップル単位の具体的諸制度といった現状を中心に、蓄積体制に対応した家父長制の歴史的推移と内容をみるⅡ章、家事労働の無償性の解明を通じて再生産構造の経済学的把握を試みるⅢ章、結婚と家族の機能分析などを通じて、カップル単位と性差別の関係を解明するⅣ章、カップル単位からシングル単位社会へというパースペクティプで、生産/再生産構造の再編成を展望するV章から構成されています。また、補論1では、上野千鶴子氏の「二元論型マルクス主義フェミニズム」を、統一論型マルクス主義フェミニズムの立場で批判的に検討しています。
本書は家族単位社会がなぜ性差別的なのか、またシングル単位社会とはどのような社会であるのかをはじめて総括的に展開したものです。単純な「男VS女」でなく、新しいフェミニズムの表現です。労働問題だけでなく、行政や教育を考えるうえで非常に実践的な政策提起にもつながっていますので読んでみて感想をお聞かせください。(ヒロユキ・イダ)
【出典】 アサート No.207 1995年2月15日