【書評】「全体主義の時代経験」藤田省三著
筆者の藤田省三氏は、永らく法政大学で教鞭をとっていた。その間、先輩の古在由重氏や石母田正氏と親交を深め、様々な分野で共有するものをもっていたようである。(これらについては、本書のなかで触れられている)
周知の通り、藤田氏はその名著「天皇制国家の支配原理」や「維新の精神」で学究の徒として高名であるが、こういった学術的な成果とともに、常に、時代の先端において、鋭敏な批判精神と、ストイックとまで言える強い倫理観に貫かれた評論を展開してきた。 また、ともすれば忘れられがちな、底辺の市民運動にも積極的に参加してきた。それは、たとえば、「地球環境と日本の役割を問う国際市民会議」(作家の野間宏氏がその代表を務めていた)であり、京都の虫賀宗博氏夫妻が自宅を開放して続けていた手作りの「講座・言葉を紡ぐ」への献身的な協力である。ちなみに、藤田氏の、この講座での話をまとめたブックレット1号「私たちはどう生きるか?」も発行されている。
こうした営為は、筆者が、本書のなかで、「個人的な努力の限界と共同作業の重要性」を強調していることの証のように思われる。
評者は、氏のマルクス主義に対する深い理解と、「絶望するからのめりこまない」というスタンスについて、その友人から賛嘆をこめて聞いたことがある。
本書の序文のなかで、筆者は、これは、本にすることをまったく考えていなかった論稿であり、おそらく最後の書物になるだろうと述べている。
藤田氏の前著の、「精神史的考察」(1982)において、「安楽への全体主義」という概念を提起して、日本資本主義のシステムについて深い考察を行った。それは「不快を感じさせる全ての物事の元のものを根こそぎ一掃しようとする」傾向を指していた。そして、これに対峙する精神が「反省能力」と「自己批判能力」であるが、それをも抹殺しようとする風潮を厳しく批判した。本書では、この全体主義を市場経済そのものの批判の中心にすえている。
本書は、90年代の筆者による思想的総括ともいえるものであり、多くの論点を含んでいる。評者が、注目したのは、冷戦終結と社会主義の後退のもとで、「マルクス主義のバランスシート」を論じようとする、塩沢由紀氏との対談である。そこで、藤田氏は、極めて冷静にまた公平にその立場を表明している。そのいくつかを紹介しよう。
「近代以後はすべてブループリント(構想)の時代であり、マルクスの根本理念は生きている。」「純粋学問の枠を取り払ったところにマルクスの功績がある。」「マニフェストの前半に出てくるブルジョワ社会の画期性の叙述は凄い。また、資本論第1巻24章のいわゆる原始的蓄積過程、あそこの社会史過程の叙述と判断には驚く。」「今日的段階で、より大きな社会的不幸が世界的規模で厳然としてある。その成立過程をきちんと叙述し、解決に努力する態度が、第2、第3の新しい『マルクス』として出てこなければいけないと思う。しかし、それはもう個人では果たすことの不可能な時代であるから、そういう集団を世界的にどうつくるか、これが課題である。」等々。
これらは、評者が、主観的に重要と思われる部分を引用したもので、筆者の真意が伝っていないと思う。しかし、これらから、藤田氏の姿勢といったものは感じられるであろう。
また、評者は、本書のなかで、藤田氏の次のような発言に触れて、感慨深いものがあった。 「文明史的に完全に新しい段階が来た。例えばソ連にしても、昔からそう思っていて政治的配慮で口に出さなかったのですが、なんで帝国主義反対といいながら、ロシア帝国の領土だけはそっくり貰うのか、これは中国も同じこと、あれは不思議だ。」
藤田氏の「政治的配慮」がどのような性質のものなのか知ることは出来ないが、これが、政党レベルの配慮でないことは確かである。
評者にとって感慨深かったのは、評者がかって行ったような「生硬な政治的配慮」ではなく、もっと重心の低い「宣伝的」でない「配慮」というものが存在したということである。
以上、手前勝手な書評を試みたが、読者の目に止れば、是非ご一読願いたいと思う。
(みすず書房・198ページ・2,884円)(大木)
【出典】 アサート No.209 1995年4月18日