【書評】戦後マルクス主義思想の総括と展開の一視点

【書評】戦後マルクス主義思想の総括と展開の一視点
          山本晴義『現代思想の稜線』(剄草書房、1994.12.20)

本書は、戦後著者を「チューターにして講義を聞き、活動した」あるいは著者の「書いた本を読み、活動した労働者や学生の皆さんにあてて」書かれた書である。著者は、戦後日本マルクス主義・唯物論哲学を代表する哲学者の一人として、われわれにも馴染み深い人物であり、そのこれまでの研究活動そのものが、われわれ自身を含めて日本の社会主義運動の経過と切っても切れないものであったことは周知の事柄であろう。
本書は二つの部分に分かたれる。その三分の二を占める第一部は、著者の戦後の思想史的自己検証(現段階における)であり、第二部は、新しい思想の稜線からして現在注意を払う必要のある諸思想家---グラムシ、ハーバマス、およびハイエクに関する論考である。
さて本書を述べるにあたって著者のよって立つのは、「『絶対的哲学』あるいは抽象的思弁的な哲学、すなわち先行の哲学から生まれてくるそれのいわいる『最高の諸問題』、あるいはまた『哲学的な問題』だけ・・・を継承する哲学を否定しなければならない。先位は実践、社会的諸関係の変化という現在の歴史に移る。したがって、哲学者が規定し、、ねりあげる諸問題はこの社会的諸関係の変化から生じるのである」と主張するアントニオ・グラムシ(1891~1937)の視点である(引用は『グラムシ選集』からの本書への引用)。
すなわちグラムシは、晩年のエンゲルスが『フォイエルバッハ論』で提起した、あの「すべての哲学の、とくに近世の哲学の、大きな根本問題は、思考と存在とはどういう関係にあるのかという問題である」「この問いにどう答えたかに応じて、哲学者たちは二つの大きな陣営に分裂した」という命題に源を発する「超歴史的な」「哲学の根本問題」と物質の定義を否定し、「物質を『人間の意識から独立な客観的実在』というような定義ではなく、物質という概念を『現実的諸個人の行為と物質的生活』としてとらえなければならない」と主張する。そして自らの思想を「実践の哲学」、マルク・エンゲルスの『聖家族』に従って「人間主義と合一する『唯物論』である」とする。
ここからグラムシは、従来マルクス主義哲学の正統派と目されてきた「ロシア・マルクス主義」=「スターリン主義」哲学に対して厳しい批判を浴びせかけ、「自分自身の世界観を意識的、批判的にきたえあげ、したがって、自分自身の活動の領域を選び、能動的に世界史の生産に参加し、自分が自分の案内者」たることを要求する。これは「経済的(あるいは利己的・情欲的)な契機から倫理的・政治的契機への移行」=「カタルシス」と名付けられるが、人民の「批判と意識」と実践的揚棄=「民衆の課題の実践的変革」こそがグラムシの哲学の本質となる。
また政治的にも彼は、国家を「政治社会プラス市民社会」と規定して、ヨーロッパでは「機動戦」は時代遅れであり、「ヘゲモニー」奪還への粘り強い「陣地戦」への戦略変換を提起したが、このこともまた従来のマルクス主義に対する痛烈な批判となるのである。
著者は以上のような観点から、自身の戦後思想の自己検証を展開するが、そこには色濃く「ロシア・マルクス主義」=「スターリン主義」的体質が残されていることが著者自らの告白で記されている。それは、戦後すぐの「民主主義科学者協会」(民科)設立の時代から、50年代末の「大阪唯物論協会」(大阪唯研)を経て、「スターリン批判」後70年代にいたってもなお貫かれていた。そして先に見た「新しい思想の地平への脱出、転機は、東欧革命、ソ連邦の崩壊以後であった」とされるのである。
すなわちそれまでの思想闘争においては、「マルクス・レーニン主義」の公式によって現在ヨーロッパ諸思想がなべて堕落した修正主義であり、反革命思想であることのみが主張・断罪されて、それ以外の諸側面---例えば人民の意識を一定程度反映した諸側面等は全く無視されてしまう傾向が強かった。しかしこのことはまた、これらの諸思想が継承してきた民主主義的な歴史的諸遺産をもすべて捨て去ってしまうことにつながり、その結果「マルクス・レーニン主義」哲学自身が、マルクスやレーニンの諸断片を金科玉条のごとく扱うだけの狭い独善的思想に堕してしまった。従ってこのような化石化した思想をもってしては現代独占資本の新しい攻勢に立ち向かうことも、マルクス主義思想内部の再生への動きについていくことも到底不可能であり、ついに「マルクス・レーニン主義」自体が崩壊してしまう結果を招くにいたったとするのである。
かかる著者の自分史風戦後思想史に対しては、これまで実際に社会主義運動の最前線を闘ってこられた多くの方々から、それぞれの思想と体験に立った評価---賛意と批判---が寄せられるであろうから、個々の点については各自読んでいただくとして、ここではこれ以上は触れない。
ただ著者が、かかるマルクス主義思想を取り巻いていた状況についての自己批判点を解明しながらも、その時々の制約を負うとはいえ、「プラグマティズム」に対していち早くマルクス主義の側からの批判を与えたこと、「大衆社会論」を「マスコミュニケ-ション」の分析を通して解明したこと、マルクスの思想につながるヨーロッパの民主主義思想の系譜として、ホッブス、ヒューム、スミス、ルソー等に注目してきたことは、今後につながる方向として積極的に評価しなければならない。
また本書の後半をなすグラムシ、ハーバマス(1929~)、ハイエク(1899~1992)等の思想について、著者がグラムシを高く評価していることは先述したが、ハーバマスについては「コミュニケーション的行為」による「生活世界」の復権とマルクスの思想との関連を考察している。さらに新保守主義(新自由主義)者ハイエクについて、著者は、その思想が近代市民社会の自由概念、民主主義と対立するものであることを暴露し、人民の福祉と権利に敵対する本質を持っていることを解明した。このハイエク論は、現代政治の潮流となっている新保守主義の思想への本格的批判として大きな意義を有している。
以上見てきたように著者は、従来の自己の思想についての厳しい批判をなしているが、しかし清算主義的総括に陥ることを極力回避して、新しい社会主義像をめざす姿勢を堅持しており、今後もなお「陣地」戦にのいてなお精力的に活躍されることが期待される。それにしてもこのような姿勢で書かれた著作が現在にいたってやっと出現したということは、日本の社会主義運動の置かれてきた状況とその思想的限界を、ある意味では端的に示していると言えよう。
なお各章の終わりにあげられた年譜は、戦後マルクス主義思想概観の手引きとして便利なものであることを付言しておく。(R)

【出典】 アサート No.210 1995年5月20日

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