【投稿】「神なき終末論は、どこへ行く」

【投稿】「神なき終末論は、どこへ行く」
                      —-オウム教団について—-

今月号では、ぜひオウム問題を取り上げたかったのだが、残念ながら原稿依頼が出来ませんでした。そこで私が注目したオウムに関する論考を紹介しつつ私見を述べたい。

<仏教は出家主義>
『RONZA』(月刊論座 朝日新聞社)6月号に橋爪大二郎氏が、オウム真理教の特質について興味深い論考をだしている。それを少し紹介しよう。
それは、オウム真理教の宗教上の特異性である。サリン事件などで明らかになったオウムの教義は「出家」という仏教的内容と、最終戦争(ハルマゲドン)=終末論というキリスト教などの教義が平存しているというのである。仏教にはその教義に終末思想はない。
キリスト教は、人類は最後の審判を迎えるという終末思想を持っている。「終末とは創造(世界がある時に始まった=神がある時に世界を造った)の裏返しである」から、キリスト教にとって『終末』が来るのはいいことであり、その時神が人間を裁き、永遠の破滅か生命かの判決を与えるのである。
「終末論と出家主義は、宗教が取る典型的な二つのタイプの戦略である。終末論が「時間差」を利用するのに対して、出家主義はいわば「空間差」を利用する。」
出家とは、宗教の理想を実現するために、社会を離れ、どこか別の場所に選ばれた者達だけの共同社会をつくる方法である。そして仏教の最終目的は悟りを開くこと、すなわち解脱することである。解脱とは人間の宿命、輪廻を脱することであり、それが修行の中身と言える。そして解脱を果たしたもの(ブッダ)は、神でもなければ、創造者でもない。修行した人間の特別の状態であるにすぎない。
そしてブッタは、この世界の法則性そのものであるから極限的にはこの世界全体と一致するものであり、仏教には「世界の終末」という考えがない。

<なぜ オウムに終末論が生まれたか>
それではなぜオウムに終末論が生まれたか。オウムの麻原彰晃は91年に「人類滅亡の真実」を出版した。これが予言書になるのだが、その中で「阿含経」(初期仏教の教えを集成した経典)の中に「人類滅亡の真実」・世界最終戦争の予言が見つかったというのである。『この宇宙は、創造・維持・還元(破壊)・虚空という輪廻を繰り返している。そしてこの創造と還元の中間の時期に人類が決定的な滅亡を迎える時がやってくるのである』と。
しかし、仏教の中に終末論は含まれておらず、麻原氏が何らかの必要から終末論に熱中した結果の産物が、現在の「終末論的なカルト集団」であるオウム真理教である、と分析されるわけである。

<教団拡大のために、「終末」を作る?>
また本来出家主義の集団は対等な修行者の集団であるにも関わらず、官僚機構のような組織ができあがっているのも、教団の拡大が目的であることからかオウムの特質である。
また、教組麻原氏が同時に官僚組織の頂点に位置し、出家主義により社会から隔離された運営がおこなわれるため、オウム教団はスターリン型の超官僚組織と化す運命にある。絶対の真理という考え方は、一方で超独裁機構を作り出している。オウムにとって終末の到来はすでに決まっているから、教団=前衛党が主体的に努力して終末=革命のために努力するという構造は、強硬な勧誘や信者の拉致、資金の確保などの行動となる。
そして終末の一部を自ら現出させれば、「終末を迎える前に入信すれば、救われる」と教団の拡大になる。「神なき終末論と言う点で、オウム真理教と新左翼過激派は同型である。予言による教勢拡大をはかったある時点から、オウムはそうした過激派化への必然性をそなえるに至ったのだ。」
以上が橋爪大三郎(東京工業大学助教授)の論旨である。週刊誌的なマスコミの報道が多い中で、宗教の特質からオウムを分析されている点で説得力があった。
それにしてもここまでオウムという宗教がなぜ肥大化したか、信者が増えたのかその分析は別の問題となろう。新教ブーム、宗教ブームと呼ばれてきたが、なぜ新興宗教に人々が魅きつけられているのか、残念ながら私は理解することができない。

<目標なき社会、孤立した個人>
オウムと過激派(急進マルクス主義)の共通性を橋爪氏は指摘しているが、確かにオウムに若者が多いことも事実である。我々もかつて「社会主義」という一種の終末を求めてきたのだろうか(?)。確かに私も若かった。必然論は、人を私心なき行動に駆り立てる。現代の社会にもやはり「必然論」で救われると感じる「必要性」が存在しているのだろうか。一見「豊かな社会」は、目標とするべき課題を見えなくしているし、情報化社会は一方で人間関係を希薄にして「孤立した個人」に宗教という『逃げ場』しか与えていないのか。宗教というものに全く縁がない私には、うまく言えない問題である。(佐野秀夫)

【出典】 アサート No.210 1995年5月20日

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