【映画評】戦争が生んだ「悪」と「善」
映画『シンドラーのリスト』を観て
ステイープン・スピルバーグ監督が、十年の構想を経て監督・製作にあたった映画「シンドラーのリスト」を先日観た。上映時間3時間15分の長さを全く感じさせない、すばらしい出来であった。「ジュラシック・パーク」の大ヒットで得た収入を全てつぎ込んでもやりたいとスピルバーグ監督が語っていた作品だから、公開されるやすぐ観たのだが、期待していた以上のものが得られた。
自分自身がユダヤ系出身であることにこだわり、ホロコーストをテーマに選んだ監督の真撃な姿勢や映画人としての生き方に、強く引かれた。
1980年、オーストラリアの作家トーマス・キニーリーは、アメリカ旅行の途中訪れたカバン屋で、オスカー・シンドラーという男の名を初めて聞かされた。カバン屋の主人ペフアーベルクは、ポーランドの元陸軍中隊長であり、「シンドラーのリスト」に載ってアウシエビッツから奇跡の生還を遂げたいわゆる”シンドラーの生き残り組”の一人だった。あまりにも衝撃的な話に、キニーリーは小説の形で書き上げることを決意し、各国に散らばって今も生きて続けている当事者約50人にインタビューを試みた。映画の最後の場面で、実際にこの人達自身が登場する場面は、事実の重さと感動を余すところなく伝えてくれる。
この小説をスピルバーグが知ったのは、1982年「E・T」が世界的大ヒットを収めてまもなくの頃だった。その時点ですぐ映画化権を取得したが、映画化に着手することなく10年。満を持しての製作・公開だけに、3時間15分という長編、映像も全編モノクロで、ジョン・ウイリアムズの音楽と合わせて、ナチスの犯罪性と極限下に生きた人間の哀しみと強さがひしひしと伝わってくる。オスカー・シンドラー役のリーアム・ニーソンはもとよ
り、ドイツ人シンドラーの手足となりながら、なかなか心を開かなかったユダヤ人会計士イツアーク・シュテルン役のペン・キングスレーが見事であった。シンドラーは、はじめから「善」に生きていたわけではない。実業家として一旗揚げようと、ナチのバッジを胸につけ、軍の幹部に金品をふんだんに贈って取り入り、軍用のホーロー容器工場経営に乗り出す。その労働力として、ポーランド人より安く雇えるユダヤ人を、シュテルンの働きで多数確保する。1943年2月、ゲットーが解体されて新しく強制労働収容所が作られ、ナチスのユダヤ人に対する迫害はますます激しくなっていくが、シンドラーの気持ちは微妙に変化していく。「シンドラーの工場の労働者になれば地獄から抜け出せる」の噂を耳にして、若い娘が両親を雇ってくれるよう頼みに来たときは、保身から娘を追い返すが、後でシュテルンの説得を聞き入れる。
1944年4月、ソ連が急速にドイツヘの反撃に転じ、ナチスは死の収容所の証拠の一掃を始めた。「このままでは、従業員たちの命が危ない」と決意を刷めたシンドラーは、全財産をかけ、身の危険をも省みず1200人のユダヤ人をチエコの工場に移した。600万人もの人間を虐殺していった残虐無道のナチスを相手に、一人で立ち向かった人間が実際に存在したという史実に改めて感動するとともに、戦争が生む「異常」に慄然とする。そして、スピルバーグが、シンドラーを「英雄」として描かず、また、収容所長を単なる「極悪人」として扱わず、戦争が作り出す「極悪人」の心理描写を丁寧にしてみせたことにより、どんな戦争も決して許されるものではないと強く意識させるものであった。人は、おかれた状況下で、「悪」にも「善」にもなれる。そんな選択をしないですむ社会こそ、平和な社会といえる。「シンドラーのリスト」は、過去と現在を強く結び付けてくれる点でも、必見に催する映画といえよう。(田中 雅恵)
【出典】 アサート No.196 1994年3月15日