【本の紹介】「知」の正体へのアプローチ
『免疫の意味論』多田富雄著、1993.4.30発行、青土社、2200円
『自己創出する生命 普遍と個の物語』中村桂子著、1993.8.10発行、哲学書房、2200円
『ワンダフルライフ バージェス頁岩と生物進化の物語』、S・J・グールド著、1993.
4.15発行、早川書房、2600円
<<新しい知の世界>>
去る1月19~21日、NHK教育テレビで大阪・高槻市にある生命誌研究館を舞台に、生命誌=バイオ・ヒストリーをテーマに興味深い対論が放映された。その中心的な論点は、生命科学における決定論的思考をいかに乗り越えるかという「新しい知の世界」の提示であった。それは、生命はあらかじめプログラム化された遺伝子によって決定されている、したがってバイオテクノロジーを駆使して、DNAの遺伝子を片っ端から解析していけば生物があるいは生命というものが分かるはずであるし、ある意味では生物という個体はDNAの乗り物ともいえるといった機械論的、決定論的思考の限界と、誤りを明らかにし、それらに対置されるものとしての自己創出系(中村)、超システム系(多田)としての生命科学の提起である。もちろんそれは、過去の科学的遺産の無視、ないしは否定の上に提起されているものではなく、それらの中から新しい知の芽、次の芽を見出し、新たな「知の体系化」を試みようというものである。その中心論者が上記2書の著者、多田富雄、中村桂子両氏である。中村氏は生命誌研究館の副館長であり、この研究館の推進者である。生命科学自身が、最新の科学的知見にもとずく新しい展開の中で、一種の思想になり得る、新しい知の世界が出来ていく時代にさしかかっていることを予感させるものである。
<<免疫の意味論>>
多田氏は、この書を世に問うに至った理由の一つについて、「免疫学は、現代の生物学で最も急速に進展しつつある分野のひとつである。脳神経系の機能と同様、あるいはそれにもまして生命というものの全体性について示唆を与えている免疫について、これまで立ち入った議論をした書物は皆無である。そういう私の躊躇を破ったのは、そのころ燃え上がった「脳死」に関する議論である。鷺を烏と言いくるめるような議論も現れる中で、生命の全体性について別の観点もあることを発言しておくことは必要なのではないか」、と述べている。しかもこれは専門書とは違って、雑誌「現代思想」に12回にわたって連載したものを集めたものである。
まず「脳死」との関連で、たとえ脳死状態であっても脳以外の身体が「自己」を主張して免疫反応を示すことの意味が問われる。そして「自己」と「非自己」を識別する能力を決定する免疫の中枢臓器が、「胸腺」であることを明らかにする。しかしこの「胸腺」の働きについては、1960年代に至るまで全く不明のままだったのである。この「胸腺」からサプライされる細胞が、T細胞と呼ばれるリンパ球である。T細胞はいろいろな免疫反応に参加し、ことに「自己」と「非自己」を識別し、「非自己」を強力に排除するための免疫反応の主役となる。胸腺で生まれた細胞の90%以上、96~97%もの細胞は、「胸腺」から出てゆくことなしに、そのまま死んでしまう。この壮大な無駄と冗長性が、免疫系を特徴づける重要な要素である。
さらに重要なことは、免疫系をとりまく「自己」は次々に変容する。幼時には作られず、成熟してはじめて分泌されるホルモンや母乳蛋白もある。そういうものさえ、免疫系は「自己」の体制に組み入れているらしい。個体はさらに次々に異なった外部環境に適応してゆく。免疫学的な「自己」を作り出す環境は、時とともに変化するのである。刻々と変化する外部および内部環境に可塑的に適応して自己組織化してゆくわけである。そうした免疫系の「多様性」は、実はレパートリーを作り出す過程におけるランダムネスに基づくのである。一卵性双生児でも、免疫学的な反応性だけはしばしば違っている。それは、生後の経験、たとえば感染症などを通して違ったネットワークのパターンを形成したためである。しかも経験のチャンス、反応の方向性などはすべて偶発的に決まる。そしてこうしたネットワークの利点は、むしろ高い自由度と理論的不完全性によって、現実をどのようにでも受容できることを指摘する。
著者は、このように「変容する「自己」に言及しながら自己組織化をしてゆくような動的システムを、超(スーパー)システムと呼びたいと思う。言うまでもなく、マスタープランによって決定された固定したシステムとは区別するためである」と述べ、「偶然を積極的に自己組織化のために取り込むことのできるのは超システムのほかにはない」ことを強調する。
そして「胸腺」のもう一つの重要な特徴は、胸腺自身がかなり正確な「生物時計」であることである。「胸腺」は、10代の前半に最も大きく、以降経時的に小さくなってゆく。細胞の密度から見ると、すでに生後間もなくから脂肪が入り込んできて、40代ではすでに半分、60代では四分の一に縮小する。80代になるとほとんどが脂肪に置き換えられて、「胸腺」そのものは痕跡程度になってしまう。「胸腺」の退縮に応じて、免疫系にはドラスティックな変化が起こる。「自己」と「非自己」の識別の失調を含む恐るべき「自己」の崩壊過程である。さらに超システムもまた恐るべき脆さを持っている。システム内のひとつの構成メンバーに一定以上の障害、あるいは欠落を生じたとき、超システムは不連続的に破滅(カタストロフィー)に陥る。その典型的な例が、エイズと老化である。このエイズと老化、そしてアレルギー、さらには難病中の難病である自己免疫病について、それが意味するところが詳論される。
著者はこの超システムが機能するためには、第1に、システムの構成メンバーが充分に多様であること、第2に、その多様なエレメントが自己言及的なやり方で補充可能であること、第3に、それぞれの構成メンバーが単一あるいは複数の役割分担を持ち、それによって相互調節機能を持つことを、条件として上げている。この指摘の意味するところは、あらゆることに通じるのではないだろうか。
<<自己創出する生命>>
「生命誌」とは何であろうか。これについて中村氏は、「生命誌(バイオヒストリー)は、DNAをゲノムとして見るようになったことを背景にして生まれた分野である。ゲノムを総体として見るだけでなく歴史が作り上げたものとして見る。これは生命を総体的であるだけでなく歴史的存在として見ることでもある。90年代を踏まえて未来を見ようとするなら、DNAや遺伝子ではなく「ゲノム」で考える必要があるというのが「生命誌」からの提案である」と述べている。
著者によれば、DNA研究のあり様は大きく次の三段階に分けられる。最初が1960年代までで、地球上の生物の遺伝子はすべてDNAであること、更にはDNAを解読する言葉、つまりコドンも共通であることを明らかにした段階。60年代が、「何でも分る」という期待に満ちた時代だったとすれば、70年代は、DNAを用いて「何でもできる」という気持ち(それは一方で何かを畏れる気持ちをも引き起こす)をしばらくの間持たせた時代ということが出来る。しかし、この同じ技術が、高等生物のDNAが大変複雑で一筋縄で解明できるものではないことを明らかにした。1980年代の半ばになってゲノムの時代が始まる。これは一つの生物が持っているDNAを総体として見る時代である。
さてそのゲノムとは何であろうか。「ゲノム、これはある生物の細胞内にあるDNAの総体をさす。同じヒトでも一人一人が皆異なるゲノムを持っているのである。つまり、ゲノムという単位をとることによって、細胞、個体、種というような、DNA研究が始まる以前の生物学で重要な役割を果たしていた単位が呼び戻されることになる。ゲノムを通してみれば、普遍性だけでなく多様性へもアプローチできる。普遍と多様、総合と分析というように、これまで二項対立的に見えていた事柄がゲノムを通すとひとつのものとして見えてくる」というわけである。
われわれの体を作る細胞内には、ゲノムが一対(二つ)ある。二つを表すために、これをディプロイド細胞と呼ぶ。しかも、それがある時期、ゲノムを一セットだけ持つ細胞、ハプロイド(具体的には生殖細胞であり、動物の場合は卵と精子)になり、これの合体によって、新しいディプロイド細胞(受精卵)をつくる。そして、また新しく自律的な自己組織化(つまり発生)を始めるのである。こうして、この系は変化しながら続いていくことになる。親から子へ遺伝物質が伝えられはするが、親の一部が子に渡されることはなく、子は、まったく新しく作られるというところにこの系の特徴がある。故に一つ一つの個体は唯一無二のものになる。ここに著者は、生命系を自己複製系というよりは、自己創出系として捉え直すことの重要性を提起する。
さらにこのゲノムの情報の下で自己創出する生命系は、でき上がった免疫系、神経系の中にも自己創出という性質を与えている。その性質を持ったそれぞれの系は、外部との関わりの中でそれぞれの歴史を持ち、外部の影響を大きく受けた系になる。免疫系の場合、誕生以来どんな異物と出会うかによって個人の免疫系のありようができ上がっていく。
このようにして著者は、生命を物質として追ってきた現代生物学が、研究の進展にともなって歴史という視点を必要とし、それが偶然性と変化を常に内包しているものとしてとらえ、そこから生まれてくる現代的な生命の捉え方、時代を支える基本概念(スーパーコンセプト)としての「生命」を提起しているといえよう。
<<ワンダフルライフ>>
J・S・グールドはアメリカの著名な生物学者であるが、「ワンダフルライフ」という書名に関連して、「本書の書名は、二重の驚嘆(ワンダー)の念を込めたものである。すなわち、生物そのものの美しさに対する驚嘆と、それらが駆り立てた新しい生命観に対する驚嘆である。オパビニアとその仲間たちは、遠い過去の不思議な驚嘆すべき生物(ワンダフル・ライフ)の一員だった。それらはまた、歴史における偶発性というテーマを、そのような概念を嫌う科学に押しつけてきた」と述べている。ここに言う「遠い過去の不思議な生物」というのは、北米大陸カナディアンロッキー山中のバージェス頁岩から発見された5億年前の奇怪な化石動物群のことである。とくに、正確を期して新たに復元されたそれら生物の常軌を逸した奇妙さがすごい。五つの眼と前方に突き出た”ノズル”をもつオパビニア、当時としては最大の動物で円盤のようなあごをもつ恐ろしい補食者アノマロカリス、幻覚という学名にふさわしい形状をしたハルキゲニアなどである。
著者はさらに、「バージェス頁岩の無脊椎動物群こそ、世界中で最も重要な化石動物群である。現生する多細胞動物のグループが化石記録中にはっきりと出現するのは、今から5億7000万年ほど前のことである。その出現の仕方は、徐々に数を増すのではなく、爆発的だった。”カンブリア紀の爆発”と呼ばれるこの出来事で、現生する主要動物グループの事実上すべてが、地質学的にはあっという間の数百万年で(少なくとも直接的な証拠の中に)出現したのだ。バージェス頁岩は、その爆発的な出来事が終了した直後の時代、その出来事が生みだした動物のすべてがまだ地球の海に生息していた時代を今に伝えている。そこから見つかる化石群が貴重なのは、三葉虫の鰓の繊維の一本一本、環形動物の消化管内に残っている最後の食事、生物の柔らかい部位(軟組織)の構造などが、細かいところまでみごとに保存されているからである」と強調している。
ここで重要なことは、生物進化の歴史にかかわることである。これまでの進化を扱ったおなじみの図像はみな、鳥類からワニ、イヌ、古代の類人猿を経て人類が登場したのは必然であり他に優越しているという心地よい考え方を、ときには露骨に、ときにはそれとなく、補強するためのものである。ところがバージェス頁岩の化石が示したことは、「生命はたくさんの枝を分岐させ、絶滅という死神によって絶えず剪定されている樹木なのであって、予測された進歩の梯子ではない。従来の図式は、クリスマスツリーを逆さにしたような”逆円錐形状の多様性増大”というただ一つのモデルにしがみついてきた。生命は限定された単純なものからスタートし、どんどん上へ上へと、つまりはどんどん改良されたものへと進歩していくというわけである」、しかし、「科学的知識が深まるほど、自分達は万物の中心に位置しているわけではなく、人間のことなど頓着しない宇宙の辺縁に住まいする存在にすぎないことをますます思い知らされて精神的打撃を背負い込むことになるのである。いかなる意味でも、生物は人類のために存在しているわけではないし、人類がいるから生物が存在しているわけでもない。われわれ人類は結果的に生じたものにすぎず、宇宙に起こった事故のようなものであり、進化というクリスマスツリーに飾られた安っぽい飾りの一つにすぎないかもしれないのだ」ということを明らかにしている。これは、これまでの進化と人間観に関する考え方の根本的な転換を迫るものだといえよう。
著者はここで、従来からの決定論的思考がいかに科学の怠慢を招いてきたかを具体的なバージェス頁岩の奇妙きてれつ動物を中心に据えることによって立証してゆく。その結論として、「テープを何度リプレイしても、そのたびに、進化は実際にたどられた経路とはぜんぜん別の道をたどることになるはずなのだ。しかしリプレイの結果が毎回異なるからといって、進化は無意味であり、意味のあるパターンを欠いているということにはならない。一つ一つの段階はそれぞれに原因があって踏み越えられていくのだが、開始時点で最終到達点を特定することはできないし、同じことが同じしかたで二度繰り返されることもない。初期の段階でちょっとした変更が加えられると、その変更がいかに小さかろうと、また、その時点ではぜんぜん重要そうには見えないとしても、進化はまったく別の流路を流れ下ることになる」と述べる。
これは進化と偶発性に関する問題である。「偶発性とは自己完結的なものであり、決定論にランダム性がどれだけ混入しているかで測れるようなものではない。科学は歴史という別個の説明原理に従う世界をなかなか自分達の領域に入れようとはしなかった。その怠慢のせいで、われわれの解釈は貧困なものとなっていた。科学はまた、歴史を軽視する傾向があった。歴史に目を向けざるをえないときでも、偶発性をちょっとでも引き合いに出すことは、時間を超越した”自然界の法則”に直接基づいた説明よりも的確さや有意義さの点で劣っていると見なしてきたのである」。多くの写真と図像を駆使して著者が解き明かしたワンダフルライフの実像は、確かに驚嘆すべき多くの示唆を与えてくれることは間違いがないといえよう。
以上に紹介した三書に共通する考え方が、「新しい知の世界」を開くキーとして提起れているのではないだろうか。
(生駒 敬)
【出典】 アサート No.196 1994年3月15日