【書評】マルクスと「アソシエーション」の新たな展望
田畑 稔『マルクスとアソシエ-ション--マルクス再読の試み』
(新泉社 1994.7.5)
マルクスの死後110余年を迎えた今日、マルクスから発した社会主義革命とその結末としてのソ連の崩壊によって、その権威、理論は見捨てられようとしている。しかし他方でマルクスが指摘解明した資本主義社会の諸問題は、今なお未解決のまま残され、年々深刻化していることは周知の事柄であろう。
このような時期に著者は、「この十数年、私は自己批判の意味を込めて『世界という書物』とマルクスを平行的に再読する作業を続けてきた」として、現代日本の日常的世界--宗教論、教育論、天皇制論、会社論、保守政治文化論等--についての分析、批判を通して「世界という書物」を読み直す著作を世に問うてきた。そして今、もうひとつの作業である「マルクス再読」の中間総括が、本書として出版された。
著者によれば、本書はその第一作で、以下『市民社会とマテリアリズム--マルクス「唯物論」再研究』、『”弁証法的唯物論”へのオールタナティブ--マルクスの意識論・認識論・存在論』と続く予定であるが、これら一連の著作によって、現在の地平でマルクスを「越える」試みを提示する。その問題意識は、次の文に示される。
「マルクスを真に『越える』には、まず『越える』べき『マルクスの稜線』が見えていなければならない。ところが、われわれがこれまで『マルクスの稜線』と見ていたものが、実はエンゲルスやレーニンやスターリンの稜線であったことに、われわれはまだまだ気づき方が足りない。ほかでもない、われわれ自身の『マルクス主義』という『雲』が『マルクスの稜線』を見えなくしているのだ。」
かかる問題意識から著者は、従来のマルクス研究では隠れてしまっている「アソシエーション」論に焦点をあてて、マルクス再読を行おうとする。このことは、従来のマルクス主義者が、いわいる「ソ連型社会主義」を尺度にマルクスを読んでいたことに対する批判であり、「唯物論的歴史観」が、晩年のエンゲルスによって導入された「哲学の根本問題」の歴史への応用として解釈されたことに対する反省であるとされる。
著者によれば、「アソシエーション」とは、「諸個人の連合化としての未来社会」を特徴づけるものとして、「相互孤立的私的個人」からなる「諸個人から自立化した社会的存立体」である市民社会に対抗するものである。すなわちその特徴は、「個人性の本格展開」と「共同社会性の自覚的組織化」との結合である。
しかしこの「アソシエーション」の視点は、今までのマルクス主義においては、全く無視ないしは看過されてしまっており、問題にすらされていない。このことは、『マルクス・エンゲルス全集』において「アソシエーション」の訳語が20にものぼり、「概念として」すら扱われて来なかったということで明きらかであろう。(序論「『アソシエーション』というマルクス再読視点」)
ところがこの視点は、初期マルクスでは、ルソーのアソシアシオン論--国家をも「アソシアシオンの一形態」として実践的に再構築しようとする--の影響というかたちで大きな思想的要素となっており(第一章「ルソーのアソシアシオン論とマルクス」)、このことを踏まえて「諸個人の連合化」は、『ドイチェ・イデオロギー』では、「諸個人から『自立化』し、物件的な社会的『権力』として(中略)現象している、諸個人自身の社会的諸力や生存諸条件を、諸個人に『服属』させることが唯一可能な、諸個人相互の関係の《あり方》として構想されている」が、「同時に他方では、そのもとで人類上初めて、諸個人の『個人性』が本格展開する社会形態としても構想されている」(「トータルな諸個人」「経験的にユニヴァーサルな諸個人」「局限されない完全な自己活動」等々)、すなわち「『個人性』の本格的展開にもとづく『共同性』の自覚的形成」(=アソシエーション)として構想されている。かかる「アソシエーション」の積極的アスペクトが評価されねばならない。(第2章「『ドイチェ・イデオロギ-』と諸個人の連合化」)
では「アソシエーション」は、いかにして実現するのか。著者は、マルクスの論点の基本性格を、現行のシステムに二元的に対置するアソシエーションではなく、「脱アソシエーション過程をはらみつつ、諸個人の自己統治能力の歴史的展開に応じてアソシエーション過程が進行すると見る、《過程的》アソシエーション」と考える。すなわち「人々は共通の目的のために自由意志にもとづいてアソシエーションを形成するが、このアソシエーションは歴史的に所与の主体的客体的諸条件の中で有効に働かねばならない以上、さまざまな脱アソシエーション化の力が働き、その力はアソシエーションそのものを変質、歪曲するに至る。」従ってアソシエーションとしての未来社会に到達する路は、脱アソシエーション化の諸力の直視と再アソシエーション化のプロセスを必要とする過程であることが指摘される。(第3章「アソシエーションと移行諸形態」)
そして最後に、アソシエーションの下での「個人性」の全面展開についての理論的基礎づけが、交換論、所有論、労働論、人格論のそれぞれに即して叙述される。例えば交換論では、「[?]上下秩序にもとづく分配に副次的にともなう共同体内の交換→[?]全面的私的交換→[?]生産手段の共同の領有とコントロールの基礎の上にアソシエートしあっている諸個人の自由な交換」という三段階図式において、「自由な交換」が「個人性」のい展開のための基礎であるとされ、以下同様の三段階図式が各論において検討される。これらはすべて「アソシエーション」と「自由時間」とを二大チャンネルに「必然の国」から「自由の国」へという展望を持ったものとして著者によって明快に語られている。)第4章「アソシエーションと『自由な個人生』)
さらに補論として「マルクス再読の試み」が付けられているが、これは、著者の思索の視点、本書とこの後に続く著作との関連をスケッチしたもので、マルクスの意識論、「唯物論」、国家論等への鋭い指摘も見られる。しかしこれらの諸問題については、今後の深化発展を待つ外ない。
以上本書の諸特徴の概略を述べてきたが、本書は従来のマルクス像に対して、--とりわけソヴィエト・マルクス主義に圧倒的に影響されてきた実践的組織的マルクス主義に対して、「かなり根本的な《マルクス像の変革》」、「《アソシエーション論的転回》」を迫るものであり、この意味ではマルクス主義の中に大きな石を投げ込んだものと言えよう。このような研究は、著者自ら述べているとおり「少なくとも独立した書物としては、おそらく世界でも例がない」以上、「アソシエーション」論そのものにまず論議の眼が向けられる必要がある。もちろん「アソシエーション」への移行の現実的諸形態(権力、民主主義、組織論等)に関して、あるいはそこにおける所有、労働、個人のあり方等に関して、今後大規模で深い論争も引き起こされねばならないが、本書はその第一歩を記したと言う意味で重要であり、将来の社会主義運動の展望との関わりで、一読してほしい書物である。(R)
【出典】 アサート No.205 1994年12月15日