【書評】 『人生にとって組織とはなにか』

【書評】 『人生にとって組織とはなにか』
                   加藤秀俊書 中公新書1990年9月初版

「拘束」と「自由」が統合して収放する?
「まァ!大胆な題名だ」東京的習慣では、「そしき」と言ったらやはり「政治同盟、政治的組織」を指すであろう。しかし、残念ながら、この本での「組織」とは主に「会社組織」のである。
<民間企業に「勤めている」人は「会社」から給与を貰っている。では「会社」とはなにか・・・・・・株式会社ではサラリーマンは自分たちを「社員」だと思い込んでいるけれども、厳密に言えば、サラリーマンは株主という本来の「社員」たちによって雇われた「従業員」であるにすぎない。「役員」にしてもたまたま多少の株式を所有する「社員」を兼ねている場合もあるが、たまたま株主から経営を委託されているが「従業員」の一人には違いない>地縁・血縁に対する「社縁」(いわゆる会社、法人)の歴史は新しく、“明治”の成立の中で生まれたものである。縁も所縁もない人々が一つの目的の為に集まっているにすぎない。
まず、著者は「社縁」の成立過程と歴史、「社縁」法律的な存在根拠を迫っている。
サラリーマンは、日常は不安だらけである。失業の不安は当面ない(実際は?)としても、一旦『社縁社会』から離れてしまうと世の中は冷たい。社縁は利害関係あればこそ成立しているので、一旦その関係がなくなれば、その途端「縁」は完全に切れる。本来はそんな組織なのである。
その不安の原因の一つに忖度(そんたく)がある。
「他人の気持ちや願望を推量して、それに合わせて行動すること」…・・・正しく機能するれば大変“美徳”であるが、下から上まで迎合とゴマスリと遠慮が横行すれば、忖度の連鎖はしばしば逆説的に機能する。構成員のサラリーマンの憂欝も高まる。そして組織はツプレル。また、上司、部下、からのタテの圧力、同僚のヨコの圧力、他人の日、他人の「評価」を気にしていなければならない。一定の地位を獲得した人でも同じである。
これまで、組織への帰属意識、そして忠誠心等というものを日本の組織の伝統的特徴と論じているが、間違いではないだろうか・・・・・・司馬遼太郎は「お家大事」という忠誠心を持つようになったのは徳川幕府藩体制以降、と分析している。また、桜井徳太郎氏は義理や人情が成立したのは近世以降で、中世の主従関係は極めて冷酷な「契約」関係であったという。
「しごと」と我々との間に取り結ばれている関係をもう一度反省して見ることにあるように思う。まず組織と我々との関わりが、じつは人間の一面でのかかわりに過ぎない。ある会社で、従業員の特技調査をしたら70%の人が「会社人間」であると同時に、何らかの才能を他の領域でもっていたのである。当たり前といえば当たり前であり、「会社人間」であると「同時に」とかいたが、正しく言えば、全ての人間は「会社人間」である「以前に」個性を持った一人の人間なのであった。その個人が、たまたま組織に入り、その中で人格の一つの側面を見せている、と言うのが偽りのない事実なのではないか。その点について、組織、取り分け組織のリーダーたちがこれまでいかに鈍感であったかを反省した方が良いと思う。ひとりの人間の全てを「しごと」に投入することを期待するのは間違いだ。
もちろん・・・・・・、しごとじたいの持つおもしろさを発見することも大事だ。しごとと余暇という二分法で人生を分割するのはあまりにも単純すぎる。組織と個人の関係は、もっとさわやかな関係であっていいのである。別な言葉で言えば、優れた組織人とは、組織べったりの人間ではなく、人間としての他のもろもろの役割をも見事に果たしうる人間のことだ。
人生80年のうち「組織」に属し規律に従って9時から5時まで働く期間はたかだか40年間に過ぎないではないか。そう考えると、最近フリーターと呼ばれる種族、やパートタイマー、臨時社員、常勤非常勤等雇用形態はいろいろ生じているが、彼等は決して不真面目に働いているのではない。
全員「臨時」なのであり、一番長い「臨時」が定年までの30年間。一番短いのが日給制による1日限りの契約。われわれは全て人生の「パート」を組織の為にささげているに過ぎない。従って、正社員と臨時工の差別の無意味であり、そのことも述べている。まして、定年後になっても(更に20年もある)の人生で昔の「肩書き」・・・「元○○」を振りかざなければ生きれれないのは、余りにも空しい。
また、「組織を離れて自由に生きたい」と言う願望とは裏腹に、脱サラして「自由人」となっても「組織」は付きまとう。作家には作家の、古本屋は古本屋の、ほか弁屋もしかり。では逃れられないのなら、効率的で楽しいものにしていく努力が大切だ。経営者も、雇用者も。組織の論理と自己実現をどう調和させるか。気楽に考えようではないか?!というのがこの本の結論である。
組織にとって、人間とは、はっきり言って労働力である。・‥・・・人間側から組織を利用して自らを訓練し、向上させることもできるはずだ。拘束と自由という一見矛盾した二つの概念も、こうした観点から見れば、統合されて収赦されていく性質のものであろうと私は信じている、とも述べている。
こんな本を紹介すると「資本を美化し、シビアな組合と経営との関係を曖昧にする」等と言われそうだけれど、指摘も確かに当たっている。また、この本は、取り分けて新しい事象を展開しているわけではない。「じゃ、私は明日からどうすればいいのだ」と聞かれると困るが、そういう本ではない。また、組織の発展は「異文化交流」と「研修」にあると分析している。
「会社」「働き方」を考える上で、私にとって新鮮な“切り口”を提供してくれた一冊である。
また、ここで言われている「組織」を我々の目指そうとしている「組織」に置換えても興味が持てる。
(東京 C)

【出典】 青年の旗 No.173 1992年3月15日

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