【短信】「私一人ぐらい」から「私一人は」

【短信】「私一人ぐらい」から「私一人は」

169号(11月発行)の『ひとりごと』の中で、東京Cさんが「(取り分け我々の関係者が)点検を取られなければ行動をしない」と、ものぐさな行動を嘆いていました。これは組織(と活動)がものぐさな個人しか集められなかったのか、組織(と活動)がものぐさな個人を変えることができなかったのか、いずれでしょう。
博物館的表現ですが、組織は一つの目的の為に自覚した個人が一致団結してことに当たれば、目的実現の有効な力を発揮する(一般的ですが、違ってはいないと思います)はずである(あった?)。従って、もし不可抗力で個人の一部が欠けた場合でも、目的実行の為に対策して事に当たるものです。ここで、「私一人ぐらい」と言う意識が働いているのではないだろうか。確かに、結婚式の二次会や、集会での50人や100人では確かに一人くらい増減したところで大勢に影響はないと思います。それが、「私一人ぐらい」が8割もいれば収拾が付かなくなります。
でもそれは、政治組織だけではなく、私の属している軟式野球のチームでも同じで、8人では公式戦は不戦敗になります。政治活動以前の問題だと思います。
まあ、今までの活動に欠点があったことだけは、確かでしょう。
最近、対案としてネットワーク型組織と言うことが語られています。言葉としては、結構古いと思いますが、不勉強でよく分からないので他の人の言葉を借りてみます。
金子郁容氏が書いた『ネットワークへの招待』(中公新書1986年)では、この本の中で様々なネットワーカーとネットワークが紹介されていますが、彼が関心を寄せて紹介する基準としたネットワークとは「固有の意思と主体性のある『ユニット』が夫々の自由意思で自発的で自発的に参加したまとまりであり、メンバーが互いの違いを主張をしながらも何らかの相互依存関係を持ちながら結び付き、関係の中で意味と価値を作り出すことを可能にするシステム」と定義しています。具体的には、以下のような組織生成原理とは根本的に異な為とも言っています。
① 全体の目的の達成の為に個々のメンバーが存 在するという考えに基づく組織の原則
② メンバーが、社会全体のなかの自分の絶対的位置ではなく、その特定の組織の中の相対的位置に重きを置き、メンバー間のあつれきを避けることを至上目的とする組織原則
③『友達の輪』のように、友達の友達はまた友達だといううように結び付き、和気あいあいとすることだけが目的で、互いの差異と意思の確認をすることを求めないネットワークの原理
④ 一部の市民運動団体のように、限られたいみの価値観を共有することを前提にしているために、自分立ちの価値観と相容れないものに対し
て排他的になってしまう組織の原理
⑤ 日米貿易摩擦に関する議論にあるように、他の人が自分と同じ「(文化的)場」を持つこと
を了承するか、逆に自分力平目手に屈して相手の「場」に引き込まれるのではなくては意味のある関係は持てない、という結び付きの原理
そして、当然「情熱と、ある種の余裕を持って対立したものを認めることができる為には、自己が確立していることが必要だ。」となります。そうして
みると「ユニット」(個人、あるいは主体性と意思を有する集団)の行動が大前提ということです。ユニットが情報を発信しなければ何も始まらないのではないでしょうか。
また、こうも述べています。「ネットワークは一人一人の自発性や主体性を発揮する為にのシステムではあるが、それがシステムに過ぎないということに注意したい。我々のいうネットワークは、自主性と相互依存性というデイレンマを最初から内包しているが、ネットワークそのものはデイレンマを解決したり、『アウフヘーペン』したりする機能は備えていない。デイレンマの解決はネットワークメンバーの自発性、意思、自主的調整に委ねられている。」
結局「この指とまれ」の指の種類と集まる個人の姿勢?の問題に帰ってしまうのではないだろうか・。(東京 N)

【出典】 青年の旗 No.173 1992年3月15日

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