『詩』 ノイエスト「白樺派」の興隆を
大木 透
男は
この国の大文豪である
海外でも
相当
名が売れている
三半器官の発達した
慎み深さを
備え
あの
懐かしい
アンガージュマンの
敗者復活戦を
しっかりと
走っている
近頃は
ノイエスト
「白樺派」らしい
香も放っている
四国山脈の懐に
正倉院の
扉の音によく似た
名をもつ
二代目教組様を
祭って
アイドルの昇華に
賭けているらしい
この神様の
行く末が
書き下ろしの
長編小説のなかでも
なかなか
定まらないようだ
これからも
さまざまな
シュミレーションを
画策なさって
いるらしいのであるが
アウグスチヌスも
ダンテも
まして
イエーツも
完全な回帰曲線を
残していないらしく
教組様は
思うように
転位なさらず
男が
わざと
お話しを
引き延ばしているのだ
と
あらぬ疑いを
懸ける奴も
いる
ボランタリーで
教会を設計した
自称ポストモダニストも
コンペで
しっかりとした
成績をあげ
金銭の苦労がないものだから
神のお住居など
見えるものかと
皮肉られている
思い切って
私財を投げ売って
バベルの塔でも
建てたらどうだ
と
からかう奴もいる
アメリカの
有名な音楽賞をもらい
一五万ドルもの
賞金を稼いだと
妬まれている
作曲家も
時々
お忍びで
教会に通っているらしい
と
まことしやかに言う
マスコミ関係者もいる
それがなんでえ
放っておいてくれ
そんな風聞を
流す奴に
天罰を
財界人も巻き込んで
「清貧」の神への
巡礼が
華麗に繰り広げられている
御時世ではないか
ガンバ大阪の親元では
経営の神様が
いまでも
[産業報国]を
お説きになっている
御時世ではないか
正倉院の扉を
年に何回開けようが
文句を言える
筋合いではあるまい
それでも
心優しい
ノイエスト
「白樺派」の
皆様よ
もうこれ以上
理詰めで
神探しをなさるのは
お止めなされ
昔の人は言いました
「神はあるよでないようで」
「神はないよであるようで」
「それでいいのだ」
「それでいいのだ」
と
天才バカボンパパも
言いました
至悦の御時は
もっと
もっと
先に
お延しなされ
そして
万が一
「聖なるもの」に
お触れになった
その暁には
なにとぞ
分け隔てなく
下々にまで
その喜びを
御分かち
くだされ
(1994・5・28)
【出典】 アサート No.200 1994年7月15日