【本の紹介】『脱=社会科学 19世紀パラダイムの限界』

【本の紹介】『脱=社会科学 19世紀パラダイムの限界』
         ウォーラーステイン著、93年9月15日発行、藤原書店、5800円

<<「世界システム分析」論の提起>>
国際政治経済学者でニューヨーク州立大学教授のイマニュエル・ウォーラーステイン、この名前を聞かれたことがあるだろうか。今、注目の学者であり、日本でも昨年、12月7日、国立京都国際会館で、京都精華大学開学25周年事業として開かれた講演会で満員の聴衆を前に「リベラリズムの苦悶」という講演を行っている。
氏は、長期の大規模な社会的変化を研究の中心にする視座としての世界システム分析を提唱している。ここで提起される世界システム論とは、これまで分析の中心を占めてきた「国民経済」という経済単位では、世界経済の全体像を表現するには不十分であるとして、ヨーロッパに始まり全世界を覆うに至った世界システムとしての資本主義の出現に分析の中心を据え、そのシステムには中核(コア)、半辺境(セミ・ペリフェリ)、辺境(ペリフェリ)という三つの地域から構成される一つのシステムして見なければならない、その意味では世界システム分析は、19世紀社会科学の批判を目指しているという立場である。このように書くと、世界を三つの地帯に分けて、都市を農村が包囲するという毛沢東の「中間地帯」論を思い出させるのであるが、似て非なるものである。

<<19世紀社会科学の危機>>
氏は、われわれは今、史的システムの危機の只中にあるという。「構造的な緊張があまりに大きくなったために、結局システムそれ自体が消滅せざるをなくなるような状態、しばしば100年から150年間の期間を要する移行期、資本主義世界経済から何か別のもの、おそらく社会主義的な世界秩序であろうが、危機への移行期に生きているのである。」
それはとりわけ19世紀社会科学の支配的な見方の危機として取り上げられる。そうした支配的な見方とは「世界システムとしての資本主義の出現の結果でありまたその支えともなった知識のシステム、ニュートン、ロック、デカルトによって体系化された、人は理性によって、普遍的法則という形態での真理や正確さに到ることができるという信念」である。
ここでウォーラーステインは、こうした見方に対置するものとして、以前にも何度か紹介したことのあるI・プリゴジンの自己組織化論、複雑性の科学を取り上げる。「この新しい根底的な批判の代弁者の一人であり、社会科学にとっての意味をも熟知しているのは、イリヤ・プリゴジンと、かれのいわゆるブリュッセル学派である」。「自然を、普遍的法則によって支配される、単純な現実に還元することはできないこと」、「ハイゼンベルグの不確定性原理はミクロ的な現象にだけ当てはまるものではない」ことを主張する。
そして氏によれば、「世界システム分析は、種々の社会科学の批判として登場したが、それはまずもって、1960年代を通じて世界中で社会科学を支配しているようにみえた発展段階論と近代化論の批判として登場したのである」。

<<政党マルクス主義の危機>>
ここで当然、マルクス主義も批判の爼上に乗せられる。「マルクスの思想は、政党マルクス主義によって組み立てられた解釈に従って、政治経済学批判の追究であるよりは、支配的な認識論の一部となり果ててしまっている」。
そして社会主義運動は、つまり「マルクス主義者たち」は、「三つの主要なメッセージを引き出したように思われる。1=資本主義世界の経済的及び政治的過程に占めるプロレタリアートの中心的地位。しかも工業プロレタリアートだけが剰余価値を生産し、「鉄鎖の他は失うものは何も持たない」。2=最「先進」諸国の先進性。資本主義とは、それ以前の諸形態に対する「進歩」を示すものであった。ここからヨーロッパ中心主義は単に正当であるだけでなく、必須でもあった。3=商人資本と産業資本の区別の経済的重要性。一定の国における商人資本に対する産業資本の勝利はとにもかくにも進歩的」という、周知のメッセージである。マルクス主義を、あるいは社会主義運動をこのように単純化、図式化することには当然問題のあるところであるが、それらを克服し得なかったことは事実といえよう。
この点についてウォーラーステインは、一方では「わたしはここで、もう一人のマルクスに、19世紀社会科学の支配的な見方に抵抗したマルクスに立ち戻ってみたい」として、いくつかの論点を上げているが、ここでは省略する。
いずれにしても、氏は「世界システム分析は、発展主義、自由主義的・マルクス主義的合意、そして最後にはニュートン的科学観念、これらに対する批判であり、こうした考え方からどう自由になるか、自己を解放しうるかということを目的としています」と強調する。

<<反システム運動の危機>>
同様の批判は、反システム運動にも向けられる。「反システム運動そのものが資本主義世界経済の産物であった。結果としてその運動は自らの行動によって世界システムを掘り崩しただけでなく、この同じシステムを支えもしたのである。したがって、世界システムが危機にある一方で、それに対抗する反システム運動も危機にあり、さらに付け加えるならば、このシステムの分析的な自己反映構造、つまり科学も危機にあるのである」。
そして反システム運動の存在にもかかわらず、「世界経済の境界の拡張は、新たな低賃金労働の統合様式として機能するようになった。その統合様式のために、実際にはどこか他のところで実質賃金の上昇が埋め合わせられ、そうして世界的平均を低下させたのであった」。
反システム運動の中では、「一方で、発展は国内的平等の推進、つまり根本的な社会的(あるいは社会主義的)変革を意味すると考えられていた。他方では、発展は先導者に「キャッチアップ」していくことを含む、経済成長を意味すると考えられていた」のである。
しかし、何らかの形態の空間的な不等価交換、半周辺地帯の構造的な存在、賃労働とならんで、非賃金労働が大きくかつ持続的な役割を演じている点、そのシステムの組織原理としての人種差別や性差別の根本的な重要性が、反システム運動の中では忘れ去られてきたが、これらは世界システム分析にとっては、決定的に重要な地位を占めている。

<<第三世界、階級、エスニシティ>>
ウォーラーステインは、「第三世界というように呼んでいる、階級-エスニシティの(つまり国民-階級の)下層がまさに世界レベルで存在していること」の重要性を指摘する。今日の世界で「階級-エスニシティの下層」をもたない国家の名前は一つも思い浮かばない。「下層がいたるところに存在するのは一体なぜかを問うのみならず、たいていの場合その下層がエスニックな次元を有しているのは一体なぜなのか、を問わねばならないのだ」と主張する。
そして「人種差別と低開発はジレンマ以上のものではないだろうか。わたしのみるところ、それらは史的システムとしての資本主義世界経済の構成要素となっている。それらによって、史的資本主義の存在理由である、不断の資本蓄積が可能となる。それらをともなわない資本主義世界経済の概念を構築することは不可能である」と強調する。
先進国の賃金に比べて、10分の一、50分の一、100分の一という国が数多く存在し、しかもその人口は先進国の何倍にもなるという現実、そしてこれらの諸国は低賃金労働でしか世界に対抗し得ないという現実、さらに難民や移民、不法入国、出稼ぎ労働といったさまざまな形態を通じて先進諸国の最底辺の最も低賃金な労働に組み込まれている現実を見るならば、この指摘の重要性はますます高まってきているといえよう。

<<「史的社会科学を建設すべし」>>
ウォーラーステインは、このような分析の上に立って、われわれは「システムの危機の只中にいるが、この危機は目には見えるが予想のほか緩慢な速度で進展する長期のものである、と言いたい。その方向を予想することは出来るが、確信はもてない。だが、方向に影響を与えることが出来る」と主張する。
そして「現在われわれは長い移行期に生きており、そのなかにはそのシステムの矛盾があるがゆえに、その機構を調整し続けることは出来なくなっている。この時代は、そのシステムの旧来の仮説にもとづいては理解できない時代である。世界システム分析とは、史的社会科学を建設すべしという要求である。その史的社会科学は、移行の不確実さに違和感をもたず、善が不可避的に勝利するという信念をたよりにする手段に訴えないで、さまざまな選択枝を明らかにすることによって、世界の移行に貢献するものである」と提起している。
世界システム論という言葉の中に、何か形式論的で自己完結的な、還元論的な色彩を感じるのであるが、既成社会科学に対する批判は鋭く、本質的でもある。氏の言う史的社会科学の建設、19世紀パラダイムを超える新たなパラダイムの構築に向けた呼びかけは傾聴に値するものがあるのではないだろうか。
(生駒 敬)

【出典】 アサート No.200 1994年7月15日

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