【投稿】沖縄でオキナワを考える その3
(1)沖縄行きを前後して、今年は“復帰”20周年ということもあり、沖縄文化に触れる機会が多かった。再度『ウンタマギルー』を見、『パイナップルツアーズ』を見、りんけんバンド、ネーネーズ、チヤンプルーズを聴き、沖縄料理を食べ、泡盛をなめるにつけ、なぜ、これほどの文化を持った地方(国)が簡単に日本の天皇教育を受け入れて、“集団自決”などに至ってしまったのだろうかとの疑問がわいてくる。
伊江島の阿波根昌鴻さんは「(戦前は)死ぬのが国のため、命を惜しむものは国賊だと信じさせられていた。敵に生け捕りさせられるのは不名誉、だから集団自決といって、自分達で殺しあう。そしてそうすれば靖国神社にまつられて神になる。こんな事を教えられて、愚かにも信じていたのです。それにもし、生き残りたいと思っている事が軍にわかったりしたらすぐ殺されると思っておりました。その頃はもう死ぬ死ぬばっかりですよ。死ぬ死ぬというのが習慣になっていた。鬼畜米英といわれましたからね、わしらは本当にそう思っていた。米軍に生け捕りされたら、耳を切られたり鼻をそがれたり、ひどい削こあわされて最後は殺される、そういう話でしたから、誰でも自分の可愛い息子や娘がそんな目にあったら大変だと思う。だから親がこどもを殺す。・・・・。」(『命こそ宝』岩波新書)との述べている。
『沖縄TODAY』では、「皇民化」の手始めは教育で、「天皇の臣下」としての意識を子供から始めたとしている。そして明治13年にはわずか2%であった沖縄の就学率が、明治40年には93%に上っている。この中で、沖縄独自の文化を「劣ったもの」と決めつけ、沖縄の人々に劣等感を植え付け、日本人のすばらしさを宣伝し「天皇陛下に忠義を尽くすことによって、沖縄人も日本人になれる」と説いた。マスコミも同様に繰り返す。一度や二度なら怒って反発するが、何年何十年と言われ続けると、多くの沖縄民衆は自己卑下に陥り、差別意識から逃れたいという祈りにも似た気持ちが沖縄の「皇民化」の原動力となっていった。象徴的な事が「方言撲滅運動」で、沖縄語を使った子供を処罰する為に首から「方言札」と呼ばれる木製の札を掛けさせたという。そして、1899年(明治31年)沖縄でも徴兵制が実施された。日本本土から遅れること25年(本土では1874年)で、沖縄の民衆は徴兵制に反対したが、沖縄の県当局や教育者・マスコミは狂喜したという。また、『沖縄TODAY』ではこの背景には、県の役職は鹿児島県勢に握られ、経済面の利益も独占され、中国と日本の二重支配により追いつめられた沖縄経済は、第一次世界大戦後の不況、大正末期の日本本土の砂糖相場大暴落により、完全に破綻し、餓死すれすれの生活苦を余儀なくされた点がある、としている。
また、『沖縄からの出発』の中で、筆者・岡部さんは琉球大の東江平之教授の「(新しい沖縄人像を探る、とのテーマの中で)同化願望から解放されてほしい。もっと自由にものを言える状況が必要だ。沖縄は地理的に狭く同族集団的。人間関係が網目になっており、言論、思想の自由が制限される。自由にものが言えなければ、新しいものは生まれない」を引用している。岡部さんはこの「強い同化願望」が沖縄の「地理的環境に起因される外部勢力による利用価値」に利用 されたし、利用され続けるとしている。また、岡部さんは、この「同化願望」の原因には日本の侵攻と強烈皇民化教育が影響しているとも言っている。
しかし、私の考えでは、確かに教育は重要な要素ではあったと思うが何か、足らないような気がする。日本軍人関係者がいない島、ガマでは虐殺や自決は起こっていない。単にみずから死ぬというよりは強制力(軍隊)や武力がなければ発生しないような意識であろうか(?)。疑問は依然残る。日本本土でも、大正デモクラシーがなぜ戦争の遣へと進んだのあろうか?という疑問と同じかもしれないが・・・。ちなみに学生時代、戦争へと向かう中でのジャーナリズムの検討なんぞを試みてみたが、そこでは(短絡すれば)「資本としての新聞」=自分も食い・社員も食わせる為の新聞生産、を追求する中では政治に追随せざるをえなかった状況であった。当時の沖縄の状況も調べてみたい。
(2) また、『沖縄からの出発』の中で、1979年の雑誌『世界』4月号で「天皇はアメリカが沖縄および流球の他の諸島を軍事的に占領することを希望した。
そうすることはアメリカの利益になるだけでなくソ連の脅威に備え、国内の治安を維持するために日本の利益にもなる。さらに、流球諸島の軍事占領の方法としては、名目的には日本の主権を認めた上で(20年から50年あるいはそれ以上)流球諸島をアメリカが租借することが好ましい」とした、天皇とGHQとの連絡にあたっていた寺崎英成氏のGHQのシーボルト政治顧問にあてた天皇の考えが紹介されていた。当時読んだか否かわからないが、少なくとも記憶になかった。
日本の戦後の成長、現在の立場は沖縄の犠牲の下に成り立っている。これまで自分のなかで、別々な事象としてとらえていた(と言うか、レポートしながらも関連を意識していなかった)沖組戦一米軍基地が何となく、つながった。
更に、国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)の明石の「沖縄にPKO物資集積所を常設したい」構想や、「車両やテント等をあらかじめ備蓄しておく施設をアジア各地との交通便利な沖縄に」という申し入れの“とんでもない”がはっきりしてくる。
〈参考資料》
『命こそ宝 沖縄反戦のこころ』
阿波根昌鴻 岩波新書
『沖縄からの出発 わがこころをみつめて』
岡部伊都子 講談社現代新書
『面白読本 沖縄TODAY』1987
柘植書房 等 (東京 Y)
【出典】 青年の旗 No.182 1992年12月15日