【投稿】データに基づいて考えようとしない厚労省官僚と「専門家」-「黒い雨」訴訟と新型コロナウイルス検査の闇-
福井 杉本達也
1 「黒い雨」訴訟-データに基づかないことを“科学的知見”と呼ぶ加藤厚労大臣-
7月29日、広島地裁は「黒い雨」訴訟で、原告・被爆者の勝訴の画期的判決を下したが、新型コロナウイルス対策という本来の職務には全く姿を見せない加藤厚労大臣は、こちらこそが厚労省の“本務”とばかりに、「これまで積み上げてきた様々な科学的知見に基づく我々の対応とはかなり異なって」いるとして控訴した。国側は裁判で「100ミリシーベルト(mSv)未満の被ばくで健康被害が発症し得るか定かでない」、「『黒い雨』によって健康被害が発生したとはいえない」旨を主張している。国は「残留放射線については、認定審査に当たっても既に一定の評価をしており、広島・長崎での残留放射能調査のデータ、放射線影響研究所の見解などを見ても、基本的に健康に影響を与えるような量は確認されていないというのが科学的知見である以上、残留放射線に着目して積極的認定範囲を現行以上に広げることは適当ではない」(原爆症認定制度の在り方に関する検討会報告書:2013.12.4)との立場に固執している。
米国は核戦略・核開発の都合上「原爆は、破壊力は大きいが、放射能で投下後に被害を与え続けることは皆無である」との原爆の虚偽像を確立することを目的として、その概念実施のために被爆地域も設定された。核兵器を「残虐兵器」と見なされないために、内部被曝を否定し被曝事実を極小化して隠ぺいしようとした。米核政策に追随する日本政府は被曝地には放射性降下物が「ほとんど無い」ことにし、「放射能による健康被害は無い」という「虚構」を「科学的粉飾」ででっち上げてきたのである。これが、本来は国民の健康を守るべき厚労大臣の“科学的知見”の中味なのである。
訴訟において放射線被曝などに関する証拠を提出した矢ヶ崎克馬琉球大学名誉教授は「『広島黒い雨』全面勝訴を喜ぶ」として、「広島では今まで一貫して見過ごされてきた『高度4kmに放射能を含む水平に広がる原子雲』の存在を明るみに出し、その大きさと位置が『黒い雨』雨域に一致することを意見書および陳述として提出したこと。これにより今まで狭い範囲に空域を限定する科学的根拠とされて続けた『黒い雨に関する専門家会議』の結論を『信頼できない』として,降雨域内外の放射法環境の蓋然性を認めたことです。日米合作の『被曝線量体系:DS86』の『第6章:放射性降下物』のデータが全て枕崎台風(床上1m洪水、太田川の橋20本流失)後に測定されており、被曝地の重大な過小評価を行っていること 内部被曝が無視されていること。内部被曝は外部被曝的に評価できない被曝の危険性を持つ」(矢ヶ崎克馬:「避難者通信」:2020.8.6)と書いている。
「黒い雨」被害を認めるということは、いわゆる「低線量被曝(=100mSv以下の被曝)」とりわけ「低線量内部被曝」の影響を認めるということになる。福島原発事故では、政府は責任を持った「放射能」の測定を行うことを拒否した。「年間20mSv」もの「高線量汚染地域に住民を継続して住み続けさせる」こととした。小児甲状腺癌が通常の50倍以上の頻度で発生しているものの、「原発事故とは関係ない」としている。その根拠は「非科学的データ整理」と「測定しないこと」、これが厚労省の長年の“科学的知見”である。
2 厚労省・医学界に巣くう「直観派」・「メカニズム派」
岡山大学の津田敏秀教授は、医学には三つの根拠が存在するとし、「直観派」・「メカニズム派」・「数量化派」があると分類する(津田敏秀:『医学的根拠とは何か』岩波新書:2013.11.20)。「直観派」は医学はアートであるとし、職人芸で自らの経験と勘・技量のみに頼る。「メカニズム派」は「病気のメカニズムがわからないと原因がわからない」とするもので、病気の原因と結果が一対一の因果関係で決定論的に進行するとするものであり、ミクロの分子レベルにまで還元して原因を追究しようとする。「数量化派」は個々の患者の経験を数字に置き換え、患者を集団として扱い、事例を数量化して集計・分析するもので、科学的根拠(エビデンス)基づく医学として臨床研究の結果を重視するものである。
「メカニズム派」は水俣病の認定にあたり、手足の感覚障害に加え運動失調や視野狭窄などの複数の症状の組み合わせを判断条件とした。これは、2013年に最高裁が「科学的根拠がない」とするまで続けられた。また、放射線被ばくにおいても「100mSv以下ではがんの増加は認められない」とする見解をとっている。福島原発事故から9年半、「県民健康調査」検討委員会の集計では237人が甲状腺がんと判定されている。しかし、福島県立医科大学は一貫して「現時点において、甲状腺がんと被ばくの間の関係は認められない」との立場を崩していない。
戦後、日本の結核政策についてGHQが「資料がなくて、よく行政をやってこられた」と質問したところ、当時の厚生事務次官は「勘と度胸」と答えたという。津田教授は「『勘と度胸』とは直感であり、厚労省内の話し合いのことであり、根拠もなく内輪で医療政策が決まってきたことを意味する。学識経験者からの意見聴取や審議会の人選は官僚が決める」、「官僚は2,3年ごとに転勤する、データの読み方も根拠となる論文の探し方もわからない集団である」、「したがって根拠が何であるかも定かでないまま、話し合いの流れや思い込み、前例踏襲で政策が決まることになる」と書く。その終章において「日本の医学界において、医学的根拠とは何かという整理が行われず…水俣病や薬害事件などの日本の保険医療領域の数々の大惨事は、数量化の知識をまったく欠いた大学医学部の教授たちが、『専門家』として非科学的な誤った判断を下したために生じた。誤った政策判断がひとたび行われると、それは『無謬』の官僚によって維持されてきた」とまとめている(津田:上記)。これは、今回の新型コロナウイルス対策でも同様の経過をたどっている。
3 PCR検査の医療目的検査と社会的検査の違いを理解しない西村大臣・尾身茂会長
西村大臣は、偽陰性を理由に、無症状者への検査拡大について否定的な考えを示している。また、尾身茂新型コロナウイルス感染症専門家分科会長は7月16日の会見で、PCR 検査を拡大することのデメリットとして「①感染リスクおよび事前確率が低い無症状者から感染者を発見する可能性は、極めて低い。膨大な数を検査しても確認できる陽性者はわずかで、感染拡大の防止に対する効果が低い ②検査は万能ではなく、偽陽性(実際は感染していないのに陽性と出る)、偽陰性(感染しているのに陰性と出る)の問題が生じる」をあげた。
これに対し、8月20日の『羽島慎一モーニングショー』での玉川徹の「そもそも総研」において、キングス・カレッジ・ロンドン渋谷健司教授は、世界ではPCR検査の精度は非常に高く、偽陽性はほとんど出ないと述べた。また、地方衛生研究所関係者も、偽陽性はほとんど出ないとしている。偽陰性については、適切な時期に検体採取をすれば、感染者の見逃しはほとんどない。検体採取の時期や採取方法で異なるが、PCR検査の感度70%は下限であり、先進国ではもっと感度は高いとした。
検体採取時にウイルスが発見されないならば、他人にうつす可能性は低い。医療目的検査では、治療の機会を逃さないためにも偽陰性は問題だが、社会的検査では感染拡大を防ぐために、多くの無症状患者を把握し、保護することが重要になる。渋谷健司教授「そもそも検査をしなければ隔離とか追跡ができません」 「検査をしない事には感染者をちゃんと保護して感染制御という対応を取れません」 特異度はきちんと精度管理すれば100%扱いで良い、偽陰性は感染性が低いと想定されるから感染拡大への寄与は数値より低いとする。
また、島田悠一コロンビア大学医学部助教授は、ニューヨーク州を例に、PCR検査の目的に治療方針などを決めるための個人に対する検査と、どういった政策を打ち出すべきかなどの集団に対する検査があるが、偽陰性は集団の意思決定をするという場合には大きな問題にならないとする。検査結果を集計して集団としての (市、州、国単位での)⾏動⽅針や政策の決定に利⽤している。PCR検査に基づいて集団としての戦略を決定するためには多くの検査数が必要だが、数が多くなればそれだけ正確なデータに基づいた政策決定が出来、また政策にも説得⼒が付与されるとする。エビデンスに基づく医療政策である。
尾身会長はわざと「医療目的検査」と「社会的検査」の違いを無視、あるいは混同している。または理解できないと考えざるを得ない。厚労省内に巣くう「直観派」・「メカニズム派」と同様に、データを集めて分析し、それに基づいて政策決定し、行動するという考えは一切ない。旧日本軍から人も思考方法を受け継いだ厚労省官僚・「専門家」は、いまだに「勘と度胸」で無謀な“政策”を押し通そうとしている。