民青・「学生共闘」派、中核派、革マル派、共産同C戦線
民主青年同盟第12回大会方針批判
—-三年間とその帰結—-
民青第十二回大会は、大会の度重なる延期、深刻な組織内の分岐と混乱(「新目和見主義」と「分派主義」の発生)という、異常な事態の下で開催された。
この三年間に彼らが与えた「結論」(大会での中央委報告-それは総じて批判に耐えないものである-) を特徴づけるのは以下の諸点である。
第一に、中央委報告全体に見られる組織間題の異常な強調。 とりわけ指導部責任をあいまいにしたままの、決定の無条件的遵守を要求するウルトラ官僚主義・無原則的拡大運動である。
中央委報告の結語は次のよつに述べている。「本来、中央の決定というのは、全国の同盟員の英知や経験を民主的に結集し、集積集中した全国最高の英知の結晶であります。だからこそ、これをよく学ぶとともに無条件で実践する、ということが同盟の前進や成果の重要な不可欠の前提である。」経験と知識の集積集中からは、決して直線的に正しい政策・方針が出てくるのでないことは自明のことである。政策・方針の正しさは、その科学性によるものであり、経験や知識の集積集中のみからは、プラグマチックな経験主義的方針、自然発生性への拝跪、大衆追随主義は出てきても、科学的な、したがって説得的な政策・方針は出て来ない。 この政策を、「『中央の決定どうりにやる』、そうすればかならず成果があるんだ、そういう精神」結語によって押しつけることでは何らの解決にならない。
だから民青指導部は、同盟の基礎単位である班会議を、科学性と組織内民主主義にもとづく政策討議と方針の検討・具体化それにもとづく意志統一の場から、「おたがいがよく理解しあい、活動や悩み、よろこびの交流の場」(中央委報告)に変えてしまう。しかし、このような近代. 経営学顔負けのヒューマン・リレーションズ理論だけではあまりにひどいので、次に班会議は党や同盟中央の政策・方針を中心とする「学習の場となり、成長のよろこび、団結、連帯感がつちかわれる場」(同右)となっているが、本質は変らない。 最後に中央委報告は、道徳主義に訴える。 「民主的青年にふさわしい道徳を身につけ、 青年と同盟員のよき相談相手となり、たすけあい家族にも支持されるようになろう。」と。民青指導部の要求する理想の同盟員像はこのようなものである。改善されるべきは民青指導部であり、彼らに欠けているのは、大衆連動の科学的政策方針に対する真剣な態度と責任であり、それを保証する組織内民主主義の原則である。
民青指導部の組織内民主主義の破壊・ウルトラ官僚主義とサークル主義は組織内に重大な摩擦を生じさせている。
また彼らは、大衆運動抜きの無原則な拡大連動を強調している。大衆闘争と拡大運動とを有機的に結合するという原則的立場は、「新日和見主義」の「大闘争、大拡大」のスローガンのぎょうぎょうしい批判の前に無視され、一般的なオルグによってのとりわけ中心的には学習会・文化サークル・スポーツ・レクリエーションを通じての拡大がとなえられている。 拡大連動は、点数制の目標管理制度の側面をますます濃くしている。
民青の学生運動批判
第二に、学生運動の方針として、まず最初に「トロツキスト暴力集団」の学園からの一掃をかかげるだけで、大学闘争についてはまったくおそまつにしかふれられていないことである。
中央委報告は、次のように述べている。「反共暴力集団の暴力支配と妄動を学園から一掃し、大学の自由を回復する課題はますます緊急で切実なものとなっている。」さらには、「こうしたかれらの暴力行為や警察権力との結びつきなど反人民・反民主主義・反革命の正体を暴露し世論の糾弾を強める。 暴力はどんな『小さな』ものでも見のがさず、告訴・告発など必要な措置をする。」
日本共産党代々木派とその「指導」する民青指導部は、「トロツキスト」の学園からの一掃を第一とする「トロツキスト」主敵論をとなえることで、事実上政府・文部省・学内の反動層と闘う任務を一貫して軽視している。 極「左」的偏向自体、 「トロツキスト暴力集団」の存在自体、彼らの右翼日和見主義的偏向と表裏をなすものであることも忘れ去っている。
次に述べられているのは、「学習」である。「学生にとっては勉学が当面の生活の中心目標である。 したがって、学生運動は学校での授業を含め、社会科学・自然科学・技術・文化・芸術体育のすべての分野で『学ぶ』活動をいっかんして重視すべきである。・・・同盟はその点でも先進的役割を果さなければならない。」彼らの目には、大学の学問授業が形がい化され、多くの学生が勉学意欲を無くしている原因が映らないらしい。
その原因はテーゼの中で詳しく分析されたように大学の深刻な諸矛盾にある。このことからわれわわれは、「学生にとっては勉学が当面の生活の中心目標である。」ようにするためには、その矛盾の解決のために具体的な政策・対案を提起し大衆的な闘争を組纖せねばならないことを主張する。 民青指導部は、これに対し一言″学習せよ〟と訓戒をたれるのである。
次に中央委報告は、批判済みの諸要求路線を述べている。続いて「新日和見主義」を学生先駆性論だとする批判を展開するが、まったく問題となるものですらない。
最後に、これらの方針を実現し、学生運動を「統一して」発展させる展望は、けっきょく主体形成に求められる。「学生数の一割、二割という巨大な同盟が建設され、民主的中央集権制の組繊原則でしっかり団結してこそ、米日支配層、学内・外の反動勢力やトロツキストの攻撃にゆるがぬ強大な学生運動をきずくことができる。」と。
では民青中央委報告の言う統一とは何か? 彼らは統一行動・共同行動の原則として次の三点をあげる。 「①一致する要求・課題での共同、②参加団体の対等平等の尊重、③妨害勢力を加えない、の三点である。」
これは、われわれの趣意の立場=課題と基本戦術の一致と明らかに対立する。
民青三原則では、妨害勢力かどうかの判断がまったく民青の主観的判断であり、 彼らのセクト主義の露骨なあらわれでしかない。 彼らは、これによって統一行動の破壊を正当化している。 また「一致する要求」という「原則」において実際彼らは当面の行動とは直接関係のない安保廃棄その他スローガンを入れることを強要して運動に分断をもち込んでいる多くの例がある。
われわれは、このセクト主義的「共闘三原則」に. ″課題と基本戦術の一致〟にもとづく統一行動の原則的立場を高くかかげ、圧倒的大衆連動の圧力で学生運動の統一を押し進めねばならない。
中央委報告の情勢分析の誤り
㈠ 平和共存緊張緩和の否定
第三に、平和共存緊張緩和の前進という否定し難い事実と、社会主義諸国のそれにおける役割の増大という、 世界史の進歩の客観的過程に対して、「米帝美化論」というきめつけをおこなうという極めて主観的な国際情勢報告である。
(基本的分析に対する批判は、 テーゼの中で行なわれているので、ここでは、中央委報告を引用しつつ具体的批判をおこなう。)
中央委報告は、インドシナ人民に対する社会主義諸国からの軍事経済的援助の果した重要な役割を意識的にいっさい黙殺したまま、「ニクソン訪中一訪ソによる米中・ 米ソ間の一定の関係『緩和』がアメリカ帝国主義のベトナム侵略の手をおさえる方向にではな
くベトナム侵略強化の背景としてはたらいている以上、 これが真の緊張緩和や平和共存の前進とは似つかぬものであることはあきらかである。」と述べている。 こうして中央委報告は、ベトナムでの民族解放闘争と、 訪ソを中心とする欧州での平和共存を意識的
に対立させ、 アメリカ帝国主義者の意図を一面的に強調している。そのことは、全世界的な平和共存の前進をあたかもベトナム民族解放闘争の敵対物であるかのように見ることによって平和共存戦略を「米帝美化論」として実際上否定している。これらの主張は、大会の約三ヵ月後に、ベトナム和平協定調印という事実によって否定され、完全に破産した。
㈡ 無視された帝国主義間矛盾
第四に、帝国主義間矛盾の激化と、主要資本主義国における労働運動の高揚、政治的危機の深化に特徴づけられる全般的危機の深化の具体的分析の欠如と、国内労働運動に対する軽視と無策、一方における選挙支援の度外れの強調である。
中央委報告は「アメリカ帝国主義の国際的地位は第二次大戦終結直後の時期などにくらべて相対的に低下した」と正しく指摘しながらも、 その矛盾の具体的内容・通貨・貿易・エネルギー資源等をめぐって、最近急速に激化している帝国主義間矛盾、とりわけ日米間矛盾と対立・闘争をまったく述べていない。
日米関係についても依然として日本を「サンフランシスコ体制のもとでアメリカ帝国主義戦争と侵略の政策に縛りつけられた半占領=半独立の国家であり、アメリカ帝国主義になかば占領された事実上の従属国である」と規定している。 中央委報告は、日米間矛盾の激化が最近のチュメニ・プロジェクトなどをめぐる日本政府の一定の態度変更に見られるように、日本帝国主義に対ソ政策の再検討をせまっていること、このことが日本帝国主義に平和共存を押しつけてゆく闘いの有利な条件となっていることをいっさい黙殺している。
又、 ドル危機に典型的に示されている帝国主義内部の深刻な矛盾の具体的評価は一切おこなわれておらず、そのことが国際的な労働連動の高揚、更に進んで権力奪取にまで至る階級闘争の激発を結果していることをほとんどと言って良い程評価し得ていない。
そしてそのことは、国内矛盾の深化における一定の正しい指摘にもかかわらず、その解決の決定的な力である労働連動の政策が一切触れられておらず、選挙運動のみが一面的に強調されるという、議会改良主義的偏向と表裏一体をなしているのである。
以上の特徴的な動向から知られうることはこの第十二回大会報告が正確な科学的情勢分析に基づいて、科学的かつ具体的な政策を説得的に提起するのではなく、その指導責任を一貫して回選しており、政治方針を特徴づけているものは、日和見主義をおいかくす空文句と抽象的な決意主義、官僚的な締めつけであり、他セクトに対するセクト主義と一方における無原則的な組織拡大であると言えよう。これらの諸傾向は、現在、民主青年同盟の内抱する諸矛盾を必然的に激化させざるをえないだろう。われわれは、まじめな民青同盟員諸君がこのような誤まった指導を拒否し、われわれの隊列に結集することを訴えると同時に、われわれ自身の原則的な大衆運動と強固な同盟の構築を実現していくであろう。
「実践は思想の真理である」(チェルヌイシェフスキー)を民青諸君に最後に送ろう。
「学生共闘」 派批判
我が同盟と「現政研」=学生共闘派との事実上の分裂(一九七〇・三)当時、組織内部に発生した意見の対立は、決して克服しえない、組織分裂を引き起こす程深刻なものではなく、組纖内民主主義の徹底による同志的な全同盟的討議と実践の検証によって克服可能であった。
なぜなら、平和共存、反独占民主主義という基本的戦略では少なくとも一致しており、その実践への適用をめぐる意見対立であったからである。
しかし、「現代政治研究会」(現政研)なる分裂グループの結成による同盟私物化、同盟破壊を準備していた一部全国委員は、事実上分裂を前提として同盟機関の官僚主義的運営をくりかえし、直接、暴力に訴えて同盟を分裂へ導いたのである。
当時、端緒としてしか現われていなかった彼らの偏向は、「現政研」路線の下に、著しい街頭政治主義とセクト主義の純化を深め、民主主義学生同盟の立場からの決定的な離反の過程を歩んでいる。
「学生共闘」派の基本的誤謬
「現政研」=学生共闘派指導部の根本的誤謬は次の点にある。第一に、国家独占資本主義の危機の時代における″攻撃的闘争〟の理論、第二に、情勢評価における政治決定論とそれに基づく政治主義、第三に、決意・決断を先行させる主体形成論=恒常的闘争委運動(大学では″学生共闘″職場では″職場行動委〟)と以上の特質によって規定される著しいセクト主義・分裂主義・反統一戦線であり、第四に、運動論においては「全学連八中委・ 九大会」を金科玉条とし学生の中に「平和と民主主義の意識」が一般的普遍的に存在するという全く観念的な指導理念として列挙することができる。
彼らの誤謬は、単に以上のことにとどまることなく、「現政研」路線の「発展」は、民学同の基本的諸原則の書き替えを次々と要求している。
全く未整理のまま、「左」右への振動を繰り返すこの路線は、日本における平和共存・ 反独占民主主義の為の闘いの脆弱さ故に生じたものである。
その意味で、学生運動では、我が同盟が科学的政策と統一戦線の実例の力によって克服すべき対象であることを最初に確認しておく必要があるし、学生共闘派指導部が、一刻も早く誤まりを認め我が同盟の原則的立場に復帰することを念じつつ、断固たる批判を行なうものである。
攻撃的闘争=主観主義的政治主義
「七〇年代は偉大な勝利の時代である。我々の任務は″日米共同声明″の具体的執行を一つ一つ粉砕していくことにとどまらず、反独占民主主義闘争の深化により、我々の側から政治的対決点を設定し、反独占統一戦線の構築から、反独占統一戦線政府を戦いとることである」(「七〇年代と階級闘争」現政研155P)と決意を述べた後、七〇年代闘争を闘い抜く″攻撃的闘争〟の理論を展開する。
「第一は、全機構的・ 重層的闘争を闘い抜くこと」であり、このことを通じて「″下層の危機〟の成熟とその″上層の危機〟への転化が可能となり、力関係の上向的転換から真の政治的危機に至る展望を登りつめることができる。」
「第二に、しかし、この闘いは、代々木派のいう『諸要求路線』(=個別要求の非有機的算術的総和)とは決定的に異なり」「安保・沖縄闘争を赤い系として」「絶えざる緊張関係へと導きうる環に向けなければならない」「第三に、攻撃的闘いを組みあげていくこと」によって、「第四に、『左』右の日和見主義を遮断し」「多少とも、影響力を持ちうる典型的なものを構築し」「プロレタリアートを中核とする統一戦線を打ち固めなければならない」(同320~28P)
総じて、これらが彼らの新しい発見–これこそ旧構革派のトロッキー主義のとめどなき転落、屈服を乗り越え″構革派の戦闘的再生〟をかちとる唯一の道だ!-として語られている「攻撃的闘争」である。
「われわれの革命は″危機待望論〟ではない」(同278P)ことや、反独占民主主義・社会主義の政治戦略が、不断の日的意識的″能動的〟しかも合目的的な活動が不可決なのは、あたり前である。
にもかかわらず、何か大発見でもしたかの様に″攻撃的〟″能動的″と騒ぎたてることこそ、彼らの反独占民主主義闘争に対する無理解の証明であるばかりか、何か別の意味を付与することー丁度、プロ学同が平和共存、反独占民主主義の無理解ゆえに″動乱的平和共存″″反独占民主主義の攻撃的左転回〟を提起し、「トロツキズム」主義に転落した様に–他ならない。
一九六〇年における国家独占資本主義の、政治的反動の進行の過程は、労働者階級をはじめ全勤労諸階層の間に、広汎な自然発生的不満・要求を生みだしている。全国学園闘争・安保・沖縄闘争春闘などの全国的高揚はそのことを示している。
しかし、この様な自然発生的不満・要求が存在するにも加かわらず、反独占民主主義的改革の展望が明らかにされないまま、政府の反動的政策を一定許す結果を招いている。
また解決の具体的政策を実現する労働者階級のイニシアチブが十分に発揮されていない。一般的不満・反政府的感情が渦巻くという現状の中で、彼らはこれに焦りを覚えるがゆえに、決意・決断による″攻撃的闘争〟によって、客観的現実を無視しても主観的展望に「登りつめる」のだと主張している。
彼らが”大発見〟した中身とは、実は、レーニンが「『左』翼小児病」でくり返し批判し、日本学生連動が幾度となく経験し、使い古され、歴史的に破産した論理–即ち、「トロツキズム」諸潮流が、全般的危機の第三段階を過渡的世界=革命的情勢と規定し、展望は切り開くものだ!と主観的決意・決断に変革の展望を求めた、あの論理–と何ら相違はありえない。
レーニンが正しく述べているように革命は個々のグループや党の意志だけでなく個々の階級の意志にも依存しない。これらの客観的変化なしには、″革命は-概して-不可能」(第二インターナショナルの崩壊」)であり、そのことの無理解は、同じくレーニンが「テロリストは、革命的活動を労働運動に結びつけて、渾然一体化する能力をもたないか、また可能性をもたないインテリ連の、最も熱烈な憤激の自然発生性の前に拝脆する」(「何をなすべきか」)彼らの理論は、このレーニンの批判した立場への、多かれ少なかれ、転落・ 屈服を意味している。かれらの少数「精鋭」主義、エリート主義そして、大衆べっ視は少人数で社会変革を達成しようとする全くの少児病でしかない。
政治決定論と街頭主義
このはね上りの″攻撃的闘争〟は、彼らが″全機構的・重層的’ 闘争〟の「重要性」を言葉の上で何度くり返そうと、″安保を赤い系として〟端的に示されるように安保の破棄を日本革命の戦略的中心課題とする以上、必然的に、街頭政治主義、「政治」決戦論に行きつかざるを得ない。 現実に、彼らはその一途を歩んでいる。
この誤謬の根源は、 情勢分析における観念論=政治決定論にある。
かれらは、七〇年階級闘争の第一の任務は、「日本帝国主義の侵略的展開の阻止」「安保条約の破棄」であり、第二の任務は、「国内治安体制の反動化=帝国主義的上部構造の反動的再編の粉砕」「民主主義の復権」であり、第三の任務は国民生活の犠牲の上に推進しつつある独占資本の経済政策との対決」「その反独占的転換」(以上同26~29P)であるとしている。 安保破薬を第一義的任務としているだけでなくその三つの任務の相互関係すらいっこうに、明らかにされていない。
日本独占資本が、国家機能を最大限利用し、強行する資本輸出、特に、対外大規模直按投資の拡大は、国内で行なわれる二重・三重の「過剰」投資・軍事生産の拡大と同様に、進行するインフレーションと大衆収奪の強化、生活環境の破壞、住宅社会保障の貧困の下で労働者階級を中心とする反独占諸階層の経済的要求と独占資本本位の政府の政策とは、根本的に対立し、今日その矛盾は一層明確になっている。イタリアやフランス、イギリス、そして闘いで示されたように国家独占資本主義の下では、このような労働者階級の″経済的”な闘争の高揚は、容易に政治闘争に転化しうるし、また経済的要求でさえそれを対政府闘争として闘わないかぎり、多少とも根本的な勝利は達成できないのである。七〇年代は、安保条約破棄の闘争のみならず、全般的な社会的経済的政治的な労働者階級の反独占政策を対案として提出し、それらの個々の諸闘争の発展の過程で政党や政治同盟は、決起した労働者階級、動労人民反独占諸階層に対し、独占資本の支配を制限するような政治的変革の必要を宣伝し、煽動し、組織し、労働者階級を中心とした反独占統一戦線を闘いとり、さらに、これらの一連の闘争の過程で議会における民主的多数派を形成することである。
彼らがいう「全機構的・重層的闘い」とは、本来、この様な闘いとして位置づけられるべきものであるが、その事を理解できずに、言葉の上で、民青をい<ら批判しょうとも、「安保・沖縄闘争」との一面的結合、利用主義と「政治」的課題への流し込みを結果せざるを得ない。
大阪大の釜洞ファッショ体制が長期ストライキで崩壊の淵にたたされた七一年四月学園闘争は「沖縄闘争への敵対である」と、民青・トロ諸派・ 右翼勝共連合と同様にスト解除の黄色い声をあげ、スト破壊に加担した事実、大阪市大三・一六闘争最中「佐藤打倒の闘争によって永井打倒の展望が切り開かれる」と語り、学友の失笑をかった事実等々、現実こそ、その犯罪的誤謬を雄弁に暴露している。 かれらにとって政治闘争とは安保闘争であり、それ以外の闘争は「経済闘争」でしかないらしい。 政治とは権力の問題であり、政治闘争とはまさに権力をめぐる深刻な階級闘争の一形態であることを知るべきであろう。
国家独占資本主義の政治を経済から切りはなし、その矛盾を見失うところからは、必然的に″一路軍国主義へ〟という「政治」決定論を生みだし、中核派の「侵略か革命か、侵略を内乱へ」と大した違いを持たない″軍国主義か安保破棄か、侵略を反独占政府へ〟という図式的な理解に基づく政治主義へ転落するのである。こうした路線から、一方では、日本軍国主義強化不可避論に基づくヒステリックな煽動が、他方では、 それを阻止する反独占諸階層・反帝平和勢力の事実を歪曲した超大宣伝が生じるのである。
米中接近・日中国交回復を、一面的に、「平和共存の偉大な前進」「田中内閣への強打」と評し、その反ソ同盟的性格を一切見失い、帝国主義者の政治的・ 経済的巻返しへの警戒心と現実の危険性の存在を窓意的に排除するのは、その最も極端な例である。
「学生共闘」方式と反統一戦線
彼らの決意・決断・願望・そして焦りに反して、 いかんともしがたい現実を前に、彼らが次に語るのは–こういう類が必ず行きつく–「戦闘的主体の形成」であり、学園では″学生共闘″職場では″職場行動委員会〟といわれるのがそれである。 (ここでは主要に″学生共闘〟方式に関する批判を行うが、″職場行動委〟もまた同様の誤謬を含んでいることは言うまでもない。)
「現在では帝国主義再編強化か反独占的改革という対決になっている」「対決点がかわった今、『平和と民主主義に反独占民主主義としての位置づけを与えていかねばならない」 (「七〇年代と階級闘争」393P)と確認するや否や、彼らは、「平和共存・反独占民主主義」の承認を大衆運動統一の原則にまで高めた。
正しいはずの方針を掲げても、いつこうに実例の力を示すことができず、孤立の淵に追いやられる彼らは、「我が派のスローガン」でどれだけの「我が派の隊列」を拡大したか、そのことのみに主要な関心を向け、そのことによってのみ孤立する「我が派」を防衛しようとする。これこそ、宗派主義的主体形成論の典型である。
″譲るべからず原則″を掲げる彼らにとっては、″この原則〟を低める運動は、トロ諸派・民青はいうに及ばず、無党派の民主的活動家であろうと分解させ、分裂を生じさせるべきもの以外の何物でもない。
従って、この「原則の神」=″学生共闘″は、自治会・学生大会にも一切拘束されないばかりか、その連動を妨害する者には、いかなる手段を用いても(七一年十月大阪市大では、「学生大会の私物化合戦」の末ついに官意の学内介入の呼び水となる革マル派との集団武装ゲバルトをひき起した!)粉砕し、自己を鍛え、拡大し″戦闘的主体の形成〟をなしとげるのである。
根本的誤謬は次の点、印ち、政治同盟の政治的指導と、大衆統一の政策の混同にある。
大衆統一の政策は、大衆の生きた経験を通じて見つけ出される共通の合言葉〟であり政治的指導とは、まさにこの合言葉を見つけ出す能力、それを客観的情勢の中で位置づけ、具体的展望をさし示すことである。
強固な主体の形成は、スローガンの押しつけによってではなく、「これらの前衛が行なう政治指導の正しさによって、かれらの政治的戦略と戦術の正しさによってである。–ただし、これはもっとも広い大衆が自分の経験にもとずいて納得するという条件のもとで」(『左』翼小児病)打ち固められ、広範な民主的学友の結集を勝ちとることが可能となるのである。
セクト主義・図式主義・思い上った「指導」の押しつけ・具体的情勢や特殊性を一切考慮の外におく紋切り型のスローガン、こうした類の全てにとって民学同は敵である。
我が同盟は、民青指導部(トロツキズム諸派)との闘いの中で守り抜いた輝かしい教訓を原則として書き印した。
「政治的見解の相違を理由に統一した闘いへの努力を放棄し、特定政党政派の利己的利害を大衆団体の上におき・・・政治路線を押しつけるセクト主義を拒否する」 (同盟趣意)
かれらは民主的先進的内容をもつ統一した闘いを誹謗し「スローガンが不充分だから分裂しょう」と叫び、本来、政治同盟がなすべき任務一続一行動を擁讓し、政治的教育・思想闘争によって大衆を獲得し、更に闘いを前進させること–を全く放棄する。
こうしたセクト主義・ 反統一戦線の論理は当然にも民主的学友の総批判を受けざるを得ないが、にもかかわらず、「課題」(実は特定党派の紋切型のスローガン)と基本戦術の一致に基づく共闘」の美名の下に、″連帶を求めて孤立を恐れず〟結集した少数街頭デモこそ、最も有効な闘いとなり、「全関西」「全国」学生共闘を大言杜語してはばからない。
しかしもはや明らかな様に、これらの″統一行動″がその形態において、民青「全学連」、中核「全学連」など、セクト的r全学連」の亜流か、もしくは、その「準備会」程度のものでしかないのは当然である。
七一年十・二十一国際反戦デーでは、大阪大の一、〇〇〇名の統一行動から十名足らずで、離脱し、大阪市大・大阪学大でも二〇〇名の隊列から、「原則的スローガン」をかかげて数十名で離脱を強行するなど、その分裂主義の本質を白日の下に吐露している。 それは、学生連動の統一にとってではなく、分裂の拡大・固定化のためにのみ重大な役割を果すのである。
彼らの根深い業病には、レーニンの次の言一集が良薬である。「共産主義者の任務のすべては-おくれた人たちを説得し彼らの間で活動することができるということであって、 頭の中で考えだした、子供じみた『左翼的」なスローガンで彼らと自分の間の垣をつくることではないのだから」(『左』翼小児病)
意識にのみ基礎をおく学生運動論
以上検討した街頭政治主義・セクト主義は、更に彼らの学生層の分析とそれに基づく学生運動論によって一層合理化され、固定化される。
『層としての学生連動』(現政研編)は、戦後の学生層を分析して次の様に述べる。
①科学技術革命の進行によって「今日の学生層は・・・かってのごとき特権的階級ではなくなり、将来は労働者階級(広い意味における)に属していくべき過渡的な社会層」に変化し、(同76~7P)、「反独占の側に存在している」「まさにそれこそが戦後日本学生連動の大衆性・戦闘性の客観的根拠であり、「戦後の層としての学生運動が学生層を反独占統一戦線の自覚的一翼として形成することをめざす客観的基礎を与えている」(同76P)
この一般的には正しい規定から、②彼らは戦後学生層を特徴づけて、第一に、「学生層はその出身階層及びかれらが将来帰属する階層の物質的利害とは相対的に独立した判断で行動しうる」、第二に、その相対的な独立性の故に、「今日の資本主義の危機の深化とその顕在化の中で、戦争と平和、自由と民主主義などの政治的諸問題に学生層がきわめて大きな関心をもち、その推移に敏感に反対を示す」、第三に、「巨大な教育施設にかれらが集中していることからくる社会的グループとしての密集性」を上げる。 (同76P)
そして、以上の結論として、かっての「平和と民主主義」意識は、更に「平和共存・ 反独占民主主義」意識として、発展している。 これが結論である。
彼らの主張を一目すれば、重大な論理矛盾-これが決定的な誤落なのだが-に気づく。
すなわち、″学生層の分析″ -①で「将来労働者階級に属してゆくべき」反独占層と規定しているにもかかわらず、″学生層の特徴. -②を示すにさいしては、このことが一切考慮の外におかれ相変らず-否!学生の″意識”にのみ闘う基盤を見い出すという点においては、五〇年代の理解への後戻りとして–「学生の客観的地位、物質的利害から相対的に独白的な意識」=「平和と民主主義」 の意識の強調にとどまっている。
①における「一般的に正いい分析」が、②では一切生かされていない。
今日の学生層の特徴は、まさに①に基づいて、こう書かれるべきであった。
「学生層は客観的地位の変化に伴ない、その出身階層、およびかれらが将来帰属する階層(総じて労働者階級を中心とする反独占諸階層)との物質的利害、主観的要求の接近、一致を増々深めており、そのこと自体に規定され、より広汎な行動に参加しうる」と。
全国学園闘争は、 まさにそのことの極めて自然発生的な証明であった。 (「全国学園闘争総括」の項参照)
この様な、 学生層がその将来を労働者階級を中心とする反独占諸階層として予定されており、現実にも反独占諸階層との物質的利害、主観的要求の接近、一致の過程–これこそが、学生運動の将来を規定する核心である。–に対する無知、無関心は、〟核心〟を極めて歪曲された形ではあれ反映する無党派連動およびトロツキスト諸潮流に乗り越えられ、 孤立の淵に立たざるを得ない。
全国学園闘争は、そのことをもまた、見事に証明した。 われわれは、もちろん、学生が生産から直接切り離されており、政治的関心、知的要求が高く、感受性が豊かで行動力があるという特質を否定しない。 しかしこのような特質を正しく生かすためにも問題は次の点に、すなわち、その意識の内容を決定するのは、ますます労働者階級との一致した要求に基づいているということなのである。
反独占諸階層の物質的利害、労働者階級の主観的要求と全く切り離され、それに基づかず相対的に独自であるが故に生み出される学生層一般に存在する「平和と民主主義」の意識!一体この様な″意識〟が過去にも現在にもそしで将来にも存在するだろうか。 断じて否である。 八中委九大会で強調された「平和と民主主義」の意識とは、とりも直さず、戦後の″反ファシズム・ 反占領″の闘争のなかで形成された意識であり、それはその後の日本資本主義の発展や反独占諸勢力の闘争の成否などによって不断に変化している。このような客観的な現実を見ず、「平和と民主主義」の意識の一般的・普遍的存在という大前提から出発する理論は、明日の現実の担い手たる労働者階級、反独占諸階層の物質的利害と切断され、宙に浮いた「意識」–今日において、それは没落の過程を歩みつつも、明日に展望を持ちえない小プル・インテリゲンチャーの意識=市民主義に他ならない–に依拠すること、それは必然的に、極度のセクト主義、市民主義的街頭主義を結果するのも当然である。
彼らは、民青の学生運動を批判する。民青は確かに、学生層を「半インテリゲンチャー=プチブル的」と規定し、学生層を①反動的グループ、②中間的グループ、③民主的進歩グループ、と区分し、学生が層として決起しうる客観的物質的基盤ー反独占層としてのーを見失っている。
しかし、「現政研」=学生共闘派指導部の主張する、「平和と民主主義の意識」に共通性を求め、 (彼らは、民青を批判する時には「学生層が全体として反独占層であること」を強調するが、自らの論理を展開するときには、そのことが一切忘れ去られている!)学生層を ①意識的グループ ②中間的グループ ③遅れたグループ、と区別するのでは一体どこに相違があるだろうか。
かくして、「現政研」=学生共闘派指導部は、五十年代の指導理念にうちまたがって、学園をさまようのである。それはさながら、ドン・キ・ホーテの 「勇姿」に似ている。
孤立を深めれぱ深める程、「全学連八中委九大会」の声ー正しい情勢分析における正しい方針の大胆な提起ーは神の救いである。
しかし、学生の客観的現実を無視した彼らの運動では「八中委九大会」の警告すらも無カであり、所詮、少数街頭行動に帰着せざるを得ないのも無理からぬことである。
お わ り に
冒頭にも記したように「現政研理論」はまだ未分化の状態にある。
今後更に、国家独占資本主義の政治と経済、その国家権力の評価をめぐった、あるいはまた、孤立を深める大衆運動の総括をめぐって、「左」右への振動をくり返すことは必至であろう。
我が同盟は、学生共闘派に指導される民主的・先進的・献身的学友のエネルギーの浪費を惜しみ、正しく平和と平和共存・反独占民主主義・学生運動統一の為に生かされることを願うが故に、一刻も早く、諸君が我が同盟の隊列に復帰することを、再度呼びかけるものである。
革マル派批判
「革マル派結成十周年に際し、反スターリニズム運動の一大飛躍を!」をメインスローガンにした『解放』(革共同 革マル派」機関紙)No254(新年号)には、彼らの七二年度の闘争総括と、今後の反戦闘争、「党派闘争」の基本的方針が展開されてている 。
「いまや日本階級闘争は社共既成左翼とわが反スターリニズム的左翼との組織的闘争を焦点とする段階を迎えている」と分析する革マル派は、長文の主張の大部分を、最大限の形容詞をもって、日共批判、中核批判に費している。ここでは、彼らの主張のうち、「反戦闘争、党派闘争の飛躍的強化のために」と題する2ページに及ぶ彼らの基本方針を中心に検討していきたい。
ベトナム反戦闘争の位置付けとその誤り
情勢分析における主観主義
ベトナム反戦闘争は、「ベトナム戦争をめぐる現実を情勢分析によって明確にとらえることからはじめなければならない。」その通りである。だが、哀しいかな革マル諸君!「まずベトナム戦争をめぐる国際、国内情勢のポイント」は「中ソは相互の敵対をいよいよ深めながらも、それぞれ米帝の『等距離外交』に屈服し、米帝との平和共存関係を作り出す方向で独自にハノイに圧力 をかけている。」「こうした中で北ベトナム・解放戦線は 『和平』 の方向に屈服しつつある。」そして、「日米軍事同盟体制こそは米帝のベトナム侵略を支える要となっている。」 これが「 革マル派の「情勢分析」であり、その全てである。それ以外は、全く何も述べられてはいない。 しかし、 それだけで、革マル派の言いたいことは読みとれる。
情勢分析にあたっては、まず我々は、現代世界の階級的な力関係の確認、現実に進行している事態の冷静な客観的な判断から出発せねぱならない。だとするならぱ、ベトナムをめぐる国際情勢は、革マル派諸君の言うように「スターリニスト」ソ連が米帝に「屈服」し、ベトナム人民が「『和平』の方向に屈服しつつある」のだろうか。革マル諸君は、彼らなりに、それを説明している。「『一国社会主義』ソ連の国家的利害の擁護と貫徹をたくらみ、引きかえに、北ベトナムに対して、米帝との和平に直ちに応ずるべきことを、政治的・経済的(軍事援助を含む)に圧力を加える約東をかわすほど、 米帝との相互臓着をくり返したのである。」と。
ソ連は、「軍事援助を含」めて、「米帝との相互臓着をくり返した」に至っては何と、事実を歪曲していることか。 ここで詳しく述べるまでもないが最大の破壊力を持つ米帝の「ベトナム化」政策を破たんさせ、国際的にも孤立化させ、ベトナムの現局面(基本的に米が和平に応ぜざるを得ない) を作り出してきたものは何か。それは、ベトナム労働党を中心とするベトナム人民と社会主義ソ連を先頭とする全世界の反帝平和勢力の結合である。それは疑いもない事実である。現実に、北爆に参加している爆撃機を撃逐しているのは一体どこの国のミサイルだというのだ。 これまでの数々の経済軍事援助、全世界のベトナム支援反米闘争を並べればきりがないくらいである。それは、闘うベトナム人民が一番よく知っているだろう。それを否定するものは、事実を見ないものか、あるいは、 それを認めたくないものだけである。 又「ハノイへの政治的圧力」とは、何を根拠にしているのだろうか。それに対しては、この間の一連の北ベトナム・南ベトナム臨時革命政府の声明を見るだけで明らかであろう。そして、革マル派にあっては、「米帝との相互購着」は、「ニクソン訪ソ」によって頂点となるのであり、しかもこの訪ソは、ソ連が「要請」(=「屈服した」)したから実現したと位置づけられる始末である。この会談の実際の内容を語ることなしに、「相互購着」と叫ぶだけでは、複雑な国際政治を分析する必要は全くないのである。
主観的な情勢分析から、ベトナムの現局面の困難さを、彼らお得意の「スターリニスト」のせいにし、そこから、彼らのセクト的な闘争方針を打ち立てるのである。
「民族和解政府樹立方式に抗する」革マル派
彼ら、革マル派のベトナム反戦闘争に対する基本的態度は、「民族和解政府樹立方式に抗し、反米・反テューを闘うベトナム人民と連帶しょう!」のスローガンに表れている。すなわち、「ベトナム戦争のスターリニスト的解決方法である」「民族和解政府樹方式」に反対するが、それではベトナム反戦闘争は闘えないが故に、「かかる方式に抗して闘つているベトナムの革命的人民」とは連帯すると自らの路線を″補強. している。 しかし、革マル派は、「闘う人民」「革命的人民」を具体的に一切明らかにすることなく、解放民族戦線を「即自的な反米意識や民族感情を持ったベトナム人民・民族白決権にもとづく『民族独立』の要求を持った民族ブルジョアジー、民族解放民主革命路線にのっているスターリニスト」が「混然」となったものとして″片づけ ″したがって民族解放戦争は、まさに反米反チュー闘争の民族主義的な疎外形態であり」、「我々の、のりこえの対象」となる。
革マル派にあっては、民族自決権は「産業資本主義段階において、その行使によっててプルジョァ的民族国家を形成する、そうしたプルジョァ的権利に他ならない」とされ、資本主義国家を形成する権利ぐらいにしか理解されていない。そして、現実の局面における「民族和解政府」のもつ積極的な意義、現在の民族解放闘争のもつ反帝国主義、反独占的な性格など全く考慮の外である。そして、彼らお得意の「のりこえ運動」も、例によって、「社共
の議会主義的歪曲をのりこえ、 反戦・反基地自衛隊強化策動粉砕の闘いを更に強力に展開する」と、力なく語るだけである。
「和平協定」の「ギマン性」のみを叫び続ける革マル派
革マル派の「和平」反対連動の″努力〟にもかかわらず、一月、パリ協定が調印された。それに関して革マル派が最初に出したスローガンは、「和平協定調印反対!」であった。
「革共同・ 革マル派、関西地方委員会」の「情宣ビラ」には、革マル派の″願望〟が、しきつめられている。 その中でも、特に彼らの主張したいことは、「ベトナム『和平協定』の欺購性」と「米帝の軍事的威圧とこれに屈服する北ベトナムスターリニストの反動性」であろう。これは、我々がすでに前項で確認したことからも容易に理解できる。
我同盟は、「和平協定」調印後、その積極的な評価を何度も行ってきたが、またここで、革マル諸君の為にそれをしなければならない。
このパリ協定は、革マル諸君のように「北ベトナムの十月の合意内容」よりさらに譲歩した内容と見るのは正しくない。 形式的には北ベトナム側が譲歩した面もあるが、重要なのは次のことである。すなわち、米軍が撤退すれば、チューの抵抗には限度があり、やがて解放勢力が勝利するということである。 協定では南ベトナム臨時革命政府の存在が事実上認められ、プルジョァ・ジャーナリズムのいう「南の政治闘争」なるものをより有利に展開できるということ、そして、その証拠に、チューがすぐさま国内弾圧にのり出し、焦りを見せており、それはチューの弱さの表れである。
そして、次のことはパリ協定の評価に関する最も本質的な問題点だと言ってもさしつかえない。それは、すなわち革マル派が今回のパリ協定を「第二ジュネーブ協定的解決」として、ブルジョア・イデオロギーと全く軌を一にした極めてペシミスティックな評価をしていることである。それには、二重、三重の誤りを犯している。それは、まず第一に、世界的な力関係の変化を見ていないということ。 第二に、ジュネーブ協定をも極めて軽視しているということ。 第三には、ジュネーブ協定とパリ協定とを全く同一視していること。 多くの相連点を全く見ようとはしていない。 そして最後に、パリ協定を成立せしめた勢力は一体何なのかを明らかにしえていない。 そのことについては、調印後、誰がこの協定を破壊し、誰が守ろうとしているのかを見れば明らかであろう。
これらの誤った評価から、極めて、虚無主義ともいうべき展望が見い出される。すなわち、米帝は少しも痛手を受けておらず、ベトナムの平和はいつのことかわからないし「南の政治闘争」もチュー、米の思うままに展開する・・・。そしてベトナム反戦闘争は果たして意味を持つていたか?、そしてアジアには、いつになっても戦火は絶えない。 パリ協定は実質的には我々に何ももたらさない、等々。 という一部のブルジョア宣伝と、本質的には同様な虚無主義的な展望しか、革マル諸君には見い出せないことになる。
そのような展望は、ベトナム反戦闘争を長期にわたって闘い抜いてきた全世界の反帝平和勢力、そして平和運動家に何一つ有益なものをもたらさないばかりか、『敗北を宣言された」帝国主義を勇気づけ、帝国主義、反動の側の協定破壊策動に、客観的に手をかす全く犯罪的なものと言わざるを得ないだろう。
そして、 そのようなペシミスティックな展望からは、「和平協定の欺瞞性」をくり返すといった現実の革マル派の行動が導き出されるし、また、そこからは、セクト主義的な課題の設定と方針が出てこざる得ないということを指摘して、革マル派のベトナム反戦闘争に対する批判を終えたい。
中核派批判
『前進』六一二号(一九七二・ 十二・ 四)には、「七十三年学生運動の武装進撃を、 カクマルせん減・ 全国大学闘争大爆発へ」と題し、マルクス主義学生同盟・中核派の主張が″全面的〟に展開されている。 この論文は「十二月全学連第三二回大会成功のために」という副題をつけて発表されている。 彼らの路線を批判してゆく。
彼らの思想的特徴について
論文は四つに分かれている。 1、新たな激動の始まりと対カクマル戦の革命的意義、2、七十年代中期の展望をきりひらいた今秋闘争、 3、カクマルせん減・全国大学闘争の大爆発をからとれ、4、全学連・K会の歴史的な大成功を力ちとれ。
まず、この見出しをみただけでも気付くことは、「カクマルせん減」の異常なまでの強調である。彼らは「力クマルせん減」の革命的意義をいかに語っているか。
「(早大闘争に示される) 体制危機の民間防衛隊=力クマルの支配の危機と学生大衆の怒りと闘いの爆発こそ、根底的に体制の崩壊のきざしを示すものと言わねばならない」
「’力クマルせん減〟が革命の旗印であり、カクマルの牙城=早稲田の支配の危機が、革命の究極的勝利の実証であり、全人民的高揚の合図であること」
「反革命力クマルに対する学生大衆の怒りとその闘いは、実に、日本階級闘争の基底的激動が、その民間的なブレーキや安全弁をぶちこわし、巨大な革命的爆発の展望を公々然と照し出す」
「カクマルをせん減する巨大な内戦の貫徹を軸にして権力との内乱の一層の発展を決定的に促進する。・・・『カクマルせん滅・内乱、内戦蜂起へ』)
こうした彼らの思想的傾向は、小ブルジョア的危機感と狂信的宗派主義に基礎をお<超主観主義である。すなわち、彼らにとって革マルせん減と内乱とは直結しており、日本革命の決定的要因、そのための道、あるいは前提が革マル派のせん減なのである。従って、革マルの危機体制の危機であり、早大闘争の爆発は彼らには革命のあけぼののとして映るのである。
だが、革命と内乱の、これ以上の矮小化、漫画化はあるだろうか。 彼らのいう内乱とは学生と”ルンペンプロレタリア〟を主体とし、一握りずつの中核派と革マル派との間で行われる「果し合い」以上でもなければ以下でもない。 そこに労働者階級は存在しない。ところで、革命的内乱とは何か。 それは、労働者階級とブルジョアジーの二大階級が真正面からぶっかり合う階級決戦に他ならない。しかもそれは、マルクス・ レーニン主義で強固に武装された党を媒介としてはじめて実現されるのである。そして、今日国家独占資本主義の下においては、 労働者階級を中心として反独占の統一戦線を結成し、独占資本の政治的、経済的、社会的諸支配を制限するような反独占民主主義の根本的な改革の政策をかかげた反独占闘争が最も合目的な路線として、そして最も戦闘的な路線としてあることを考えるならば、彼らのいう内乱とは、マルクス・ レー ニン主義と階級闘争からハミ出したグループが、日本の片隅で行う「つばぜり合い」に過ぎない。 革マル憎しの余り、それとの闘いを権力闘争と同列に並べ、革マルをせん滅しさえすれば、あたかも日本の階級闘争が内乱的発展をとげるかの如く言う中核式論理は、まさに超主観主義の見本と言うべきである。
職場における労働者階級の闘いをはじめ革命の基本問題が、中核派にあっては「カクマルせん滅」の前に消し去られ、忘れ去られている。 彼らの頭の中は革マル派のことで一杯になっている。 革マル派を警戒することと、それへの恐怖から取り乱してしまうこととは違う。 これが、小ブルジョア特有の思想的動揺性、焦燥感、精神的不安定の露骨な表明であり、さらに最も反動的なプルジョア・イデオロギーである「生の哲学」 「種の思想」すらそこに読みとることが出きる。
彼らによれば、中核派=革命党。 従ってこれの絶減を叫ぶ革マル派=反革命集団、故に、これのせん減なくして日本革命も又ないということなのであろう。 だが、 これ以上の思い上がりはない。この論理の大前提としてある中核派=革命党という独断は果して成り立つか?断じて、否である。
申核派の時代認識
まず、彼らは現下の階級情勢をどのようにとらえているだろうか。 再び引用する。
「内乱が切追したものであり、七十年代革命が現実的に近づきつつあること」
「今や、七十三年階級聞争一七十年中期における比類なき革命の波は不可避である」
「情勢は恐るべき速さで破局に向って突き進んでいる。日中国交回復もベトナム和平策動も、一時的息つぎにすぎず、危機は地殻変動的陥没に向け急転している。」
例によって大げさな文句が目につくが、既にわれわれは、彼らの貧弱な「革命」の内容と「内乱」の内容とを見てきた。それが革命ならぬ革命ごっこ、内乱ならぬ「内乱ごっこ」であることを我々はみてきたのである。 従って、ここでは次の点にふれなければならない。
周知のように、彼らは現在の世界情勢を、「三〇年代危機へのラセン的回帰」の時期として特徴づけている。 国際通貨危機も、帝国主義間対立も、各国の階級闘争も全てその証拠だと言う。そして、再び戦争とファシズムの時代が到来するというのだ。 我々は、帝国主義がその本性からして侵略的であり、その政策が戦争と反動、暴力と民主主義破壊であることをいささかも、 一瞬たりとも忘れてはならない。 そして同時に、もしも世界各国人民、労働者階級の強力な平和擁護闘争がなかったら、帝国主義反動が再び「三〇年代危機の時代」をもたらすことの危険性も、ハツキリと認識しておかなくてはならない。
だが、三〇年代と現在とでは、一つの、根本的相違が存在する。 それは、現代の帝国主義が、社会主義体制と対立し、それとの闘争に制約される帝国主義である、ということである。 帝国主義体制が、その内部に様々な深刻な矛盾をもちつつも、社会主義世界体制の確固とした存在と、各国労働者階級の断固たる闘いとによって、その矛盾のハケ口を帝国主義者の思い通りに見い出すことが困難となり、又、国内的には容易にファッショ体制と臨戦体制–国民総動員体制を施くことが困難となっていること、これが現代世界政治の特徴である。 西ドイツのプラント政権がその良い例であろう。 これは、第一次五ヵ年計画に入ったばかりのソビエト連邦が当時唯一の社会主義国であった三〇年代とは本質的に、根本的に異なっている。 今や社会主義体制は世界陸地の三分の一、工業生産の四〇%を占めているのであり、あらゆる地点で帝国主義体制と闘争している。 又、強力な組織された労働者階級と広範な反独占諸階層の力が存在し、帝国主義の植民地主義と英雄的に闘う反帝民族解放勢力が存在し、社会主義世界体制とともに強大な平和愛好勢力を形成している。
中核派は、帝国主義体制の危機を指摘しつつも、それが一体いかなる力によってもたらされているのかを理解できないが故に、危機三〇年代への回帰と絡短的に結びつけるのである。 なぜなら、「反スダ」路線を掲げる彼らに言わせれば、世界革命の決定的力である社会主義世界体制や労働者階級は、帝国主義を「延命」させている″張本人″なのだから。 しかし、この点、すなわち、世界革命運動の主勢力に対する評価が誤っており、わからないということは、そこから出てくる政治方針が、ニヒリズムに裏打ちされた無展望な方針でしかありえないことを意味している。中核派が自らの″戦略的総路線〟として自画自賛している「日帝のアジア侵略を内乱へ転化せよ!」というスローガンがまさにそれである。
「侵略を内乱へ!」の意味するもの
彼らのこのスローガンが、第一次世界戦争に対してレーニンが鋭く提起した自国政府の敗北の立場、すなわち、革命的祖国敗北主義の立場を「うけつごう」とするものであることは容易に判断がつく。だが、彼らは果してレーニンを「うけついだ」だろうか?それは当然レーニンの言っていることとは縁もゆかりもないことである。
レーニン第一次世界戦争に対してとった態度はおよそ次のようなものであった。
①帝国主義戦争は不可避である。②帝国主義戦争に反対し、そのボッ発を防ぐために全力で闘う。③しかし、戦争がいったん開始されたなら、労働者階級はそれを内乱に転化し、自国政府の敗北を目ざさなければならない。 ④戦争が不可避的に引き起こす事態、すなわち、帝国主義ブルジョア政府の危機を革命のために利用しなければならない。
このレーニンテーゼの、機械的、教条的アテハメが中核派のスローガンである。
「日帝のこのアジア侵略の政治が、 その継続としての侵略戦争に転化するのは容易なことである。」(『共産主義者』二三号、一五七ページ)
彼らのスローガンは、実にこうした情勢認識に基づいている。彼らは、このように言い放つことをもって、レーニンが断固として主張した戦争に対する徹底した反対、戦争阻止の課題をすでに敗北主義的に″総括〟し、そのスローガンをはやばやと降ろしてしまっているのである。 彼らは、侵略戦争を阻止するために徹底して闘うのではなく、唯々、「戦争だ、戦争だ」と叫びまわっているにすぎない。 ところでレーニンは、この戦争阻止の課題を、帝国主義戦争が不可避の状況の下で、なおかつ断固として主張した。 これに比して中核派はどうか。 世界諸国人民の平和擁護闘争と日本帝国主義をして容易に戦争への突入を許さない現在の情勢で、彼らはただひたすら「内乱へ!」「内乱へ!」と叫んでいるのである。 あたかも、早く戦争が起ってはくれまいか、というように。 一体全体、こうした中核派の主張とレーニンの立場との間に、どのような共通点があると言うのか。
歴史が示したように、レーニンの時代において世界戦争のポッ発は不可避であった。 第一次大戦が避けられず、それへのロシアの参加が避けられない当時の情勢を前提に、レーニンは、この戦争を内乱へ転化すべきことを主張したのである。
中核派の指摘を待つまでもなく、既に日本帝国主義は新植民地的進出の道へと泥沼的にのめり込んでいる。 東南アジア諸国人民の、広範な反日(帝)闘争の高まりはその証拠であろう。 にもかかわらず、 日本帝国主義が容易に侵略戦争を引き起こすことができないでいること、この点が忘れられてはならない。 現在の情勢は、帝国主義戦争を不可避としたレーニンの時代とは大きく異なっている。 世界は、帝国主義が全一的に支配しているのではない。先日のベトナム和平協定の実現が示したように、アメリカ帝国主義ですら戦争に失敗し、敗北した。 日本の帝国主義者も、このことを考慮しないわけにはいかない。 日本帝国主義の発展途上諸国とりわけ東南アジアへの直接的武力侵略は、中核派の言うように、決して「容易なこと」ではないのだ。
こうした中で、 レーニンが第一次大戦に対してとった立場を現在の情勢に機械的にもちこみ、日本革命の戦略スローガンとすることはできない。 今われわれにとって緊急のことは戦争の不可避を語ることではなく、戦争を帝国主義者に一切許さないことである。そのために、徹底して闘い抜くことである。 中核派のように、今すぐにでも日帝が戦争に乗り出すというのは、そうした闘いを放棄する全くの日和見主義、 敗北主義に他ならない。
レーニンが第一次大戦に対してとった立場、それを現在的に受けつぐスローガンは、「侵略を内乱へ!」ではない。 まず現代の場合、われわれの基本的任務は「侵略戦争阻止、軍結、平和と平和共存」をかかげ、反独占闘争を通じて独占の支配を終らせることである。
ボルシェビズム通信派(共産同C戦線)批判
七〇年以降、「新左翼」諸派が急速に後退する中にあって、関西を中心に(京大同志社等)学生運動における影響力を一定拡大している政治党派に、ボルシェヴィズム通信派(レーニン研究会を組織し、機関紙「ボルシェヴィズム通信」を発行)がある。社学同の一分派である彼等は、四分五裂した社学同の再統一を計る諸分派の政治的、理論的中心に位置しているように思われる。 又彼等は、不毛な内ゲバをくり返し、大衆運動から増々遠ざかりつつある「新左翼」諸派の中では、第四インターとともに、相対的に大衆運動を重視する比較的健全な党派と言えよう(無論、最近の一時期と言う限定つきではあるが)。
大阪市大における授業料値上げ反対闘争の勝利には、我が同盟とともに、この二党派が積極的な役割を果した。しかし、このことはボルシェヴィズム通信派の理論及び思想の正しさを意味することにはならない。 党派のイデオロギーと政治的役割を同一視することは全く子供じみたことであり、実践的には有害である。逆に、他党派のイデオロギーに無批判である場合は、政治的に無力である。 階級闘争の鉄の必然性は、諸党派の意識を越えて自己を貫徹し、人民の進歩的要求の中に生き生きと現われる。しかし、同時にそれは闘争を指導する諸党派のイデオロギーによって屈折し、政治過程に登場する。 だから真に革命的な党派は、他党派のイデオロギー的屈折を受けたものであっても、大無がそこに居る限り、自らの影響下にある大衆を引きつれて過程の中には入らなければならない。そして他党派のイデオロギーを厳密に批判し、過程の中から発展の核心をつかみ出さなければならない。 この時、この党派はへゲモンとなることができるのである。 以上のことを踏まえ、ボルシェビズム通信派の見解の検討を始めることにしよう。
ボルシェビズム通信派(以下「ポル通派」と略す)の理論は、その生いたちと社学同再統一を目ざす今日の任務に規定され、未だ一貫した理論体系を持っているとは言えず、旧ブントの「過渡期世界論」「世界同時革命論」を引き継ぎ、ML派の「毛沢東思想」、赤軍派の「海外根拠地論」「軍事路線」などの影響を強く受け、かなり折衷した理論となっている。それゆえ批判も又断片的なものとならざるをえないことを前もって断わっておく。
ここでは、彼等の㈠「世界革命論」🉂「武力革命論」を検討する。
「世界革命論」の検討
彼等の「世界革命過程」に対する認識は『孤立したロシア革命の中で発生したスターリン主義は、第一次大戦後、三〇年代、第二次大戦後の世界革命の敗北の右翼的総括を通じて、レーニン主義との折衷的性格、ジグザグ路線を捨てさり、帝国主義国家及び「労働者国家」の労働貴族官僚の利害を代表し、過渡期世界の反動的な固定化を意味する「平和共存戦略、議会主義、平和革命」を主要な内容とする現代過渡期世界の日和見主義–フルシチョフ・トリァッチ主義(及び代々木派) へと完成した。 一九五六
年、フルシチョフによるスターリン批判、「モスクワ宣言」「モスクワ」声明こそ、その象徴である』となる。
ここまでは全てのトロツキー主義と全く共通したもので新味はない。 彼等の独自性は『スターリン主義指導下の中国革命のジグザグを克服してきた中国共産党は、国際共産主義運動では「中ソ論争」によってフルシチョフ主義からはっきり訣別し、国内においても、文化大革命において、劉少奇などのフルシチョフ主義への屈服を粉砕し、プロ独下の階級闘争を堅持し、「ベトナム人民の信頼できる後立て」=世界革命の根拠地建設の闘いを前進させてきた。』として、「スターリン圈」から中国を区別し、続いてベトナム民主共和国、 朝鮮民主主義人民共和国を「スターリン圈」から区別し、民族解放闘争を闘う党を「スターリニスト党」から区別するところにある。 中国共産党が公然と批判していない党と国家を「スターリニスト党」「スターリン圈」から区別するところに他のトロツキー主義者と「ポル通信派」トロツキー主義者の相異がある。
彼らは革マル派が、中国もベトナムも朝鮮も「スターリン圈」に含めることに激怒して、『超歴史的・ 超階級的存在としてスターリニズムを規定する』のはケシカラン、『歴史の原動力を階級闘争に求めるのではなく、「帝国主義者とスターリニスト」と言う一握りの人間の思惑や意志によって歴史が創造され、世界が動いているかのようにとらえる、徹底した観念論』だと批判している。 ところが「ボル通派」自身ソ連の党や国家、イタリアの党を「スターリニスト党」として攻撃する場合、革マル派と全く同じ方法論を用いているのだから、彼等と他のトロツキー主義者の相異は、彼等が毛沢東に特別な真理性を付与するか、東洋への愛着が深いか、 民族解放闘争をプロレタリアートの世界革命過程から分離し、そこに何か至上の共感を寄せるかによる。
第一、第二は信仰にも近いものであり、第三については既に「中ソ論争」によって完全に論破された「後進国革命論」であり、今は亡き林の「世界の農村から世界の都市へ」と言う世界革命の戦略である。
ベトナムにおける米の敗北を始め、チリにおけるアジェンデ政権の誕生、パンクラディシュの独立、さらには、フランスの五月危機、イタリアの六九年秋の大闘争等々、六〇年代末から今日に至るまで、つぎつぎに起る世界各国人民の闘争は、六〇年代初頭の「中・ ソ論争」に実践的解答を与えてしまっている。
「平和共存」の世界戰略は、毛沢東主義者の主張とは反対に、帝国主義内部の矛盾、帝国主義間矛盾を激化させ、プロレタリア革命へ向けた広範な人民の闘争を增大させている。
チリにおいて、公然たる内乱を回避しつつ、米帝の武力介入を阻止し、人民権力樹立の途についた人民連合の闘いを、今我々は眼前に見ている。 第三次世界大戦を防止し、全体として帝国主義者による武力介入をくい止めているのは、「平和共存」政策の勝利と言うほかはない。むろん、平和共存政策は平和の打出の小槌ではない。それゆえ平和が一時的に破られ、インドシナの事実が示すように帝国主義者の狂気の侵略が行なわれることがある。
しかし、重要なことは、そのような帝国主義者の冒険は必ず失敗し、「平和共存」を、いやいや受け入れなければならなくなると言うことである。 ニクソンが毛沢東に会わざるを得なくなったのは、 反ソ勢力としての毛政権を利用したいという意図が明確に認められるという一面はあるが、他方、米帝が中国封じ込めに失敗し、中国との共存を受け入れざるを得なかったからでもある。キッシンジャーが、 敵中の敵として犯罪の限りをつくした相手国ベトナム民主共和国を訪れ、「平和共存」を約束しなければならなくなっている。 これらの動かし難い事実は、「平和共存」政策の正しさをくつがえしようなく明らかにしており、これを認めぬ人は、真理によっているのではなく、他の目的によっていると言わざるを得ない。
又、「平和共存」政策は階級闘争の万能薬でもない。 「平和共存」 は社会主義世界体制と帝国主義諸国が互いに武力行使せず、軍縮を進め、経済文化交流を増大しようと言うことである。「平和共存」政策が前進すればするほど、社会主義建設、帝国主義諸国のプロレタリア革命、民族解放と非資本主義的発展がやりやすくなるというだけで、それらが前進するか否かは、社会主義建設、プロレタリア革命、民族解放闘争に関する正しい戦略、戦術が必要であり、「平和共存」政策で代行することはできない。
今日重要なことは、社会主義世界体制、帝国主義諸国のプロレタリアート、第三世界の人民が国際主義に基づいて有機的に統一する意義を強調し、統一強化のための政策と行動能力(これはベトナム人民によって英雄的に示された)を身につけることである。
以上のように「ボル通派」のソ連–イタリア批判、とりわけ「平和共存」政策への批判は根拠がないことがわかる。 さらに、彼らが米中接近を『大胆に言いきれば、中国共産党はソ連と戦術的に妥協、提携して当面の反米攻勢を推進するよりも、インドシナー中国一朝鮮の国際反帯戦線を断固堅持しつつ、 より長期の、より大きな将来に向って準備し、歩を進めること、即ち、アメリカ革命運動との戦略的提携により力を注ぎ、比重を移し、この結合の成長によって米帝とソ連社帝を打ち破くということである』と述べる時、もはや理論ではなく、正に大胆な言いきりでしかないことがわかる。ソ連が米国と関係改善すれば「平和共存」の陰謀等々とあらん限りの悪口雑言を並べたて、毛沢東が二クソンと握手すれば、『アメリカ革命連動との戦略的提携』と言い切るのは、毛沢東への偏執的愛情による驚ろくべき猫可愛いがりであり、批判の対象にすらなりえない。
日本帯国主義を打倒する直接の責任を負う目本人民は、最近毛政権が日本帝国主義の代表者に、安保や四次防に一定の理解を持っている由伝えたり、北方領土要求を公然と支持するのを目の当りにし、深い慣りと疑惑を持つようになっている。 だから、我々は毛政権の対米・対日接近こそ、反ソ主義による帝国主義への屈服と受けとらさるを得ないので、ある。 「ポル通派」が真理に忠実であろうとするなら、毛政権の極めて危険な政策に目をつむることは出来ないであろうが、なぜか彼等はこれを語ろうとはしない。
「武力革命論」
今日、発連した資本主義国で、「ソヴィエト」→「武装蜂起」なる図式をふり回すのは、トロツキー主義者一般であって、ボル通派に限ったことではない。 六〇年代末から七〇年代始めにかけて、日本型トロツキー主義者からアナーキストまで、いわゆる「新左翼」の間では、軍団ブームが巻き起り、我先にと軍団づくり(とは言ってもヘルメット十タオル十覆面+棒十石十火炎ピン程度の装備)を行なった。六〇年代前半から中ごろにかけての高度成長の行きづまりが明らかになり、人民の不安が急速に高まって来るといった情勢を背景にして現れたが、それは連合赤軍(装備は若干の一猟銃を保持するに至った) によって頂点に登りつめ、そのリンチ殺人による自壊とともに、ブームも消滅してしまった。 今日、連合赤軍事件の評価を行なった「新左翼」は革マル派など若干で、他は多くを語らない。 それは死にもの狂いの軍団路線を問い直すことになるからだ。
「ボル通派」は連合赤軍事件を『武装闘争をプロレタリア階級闘争と結合し、大衆の深部から組織され、打ち鍛えられる階級的力の上に基礎づけることが出来なかった』と総括し、『武装闘争と大衆路線の結合に力を注ぐべきである。 武装闘争を、党と階級を組織し強化し、大衆の革命的な政治的組纖化、動員を進めることと結合し・・・』と自らの方針を述べている。だが、「ポル通派」の言っていることを連合赤軍は知らなかったり、否定していたのであろうか。 決してそうでない。 彼等は知つていたのにできなかったのだ。だから「ポル通派」が武装闘争と大衆動員の結合を主張しただけでは、成功は約束されない。
彼らは、成功するためにはその結合の合法則性、現実性を証明しなければならない。 だが彼等はそれをしない。
国際共産主義運動において、革命の平和的移行形態を認めるようになって久しい。 理論的には、始めマルクスとエンゲルスによって一九世紀中葉のアメリカに可能性が認められ、エンゲルスは晩年、その可能性をヨーロッパの諸国にも拡大した(『フランスにおける階級闘争』序文)。レーニンは一七年二月革命の後、四月テーゼでその可能性を現実性に転化する方針を提起した。ソ連邦共産党第二〇回大会は、スターリンによって圧迫されていた平和的移行形態の可能性をよみがえらせた。今日までこの可能性は現実性に転化していない。だが、チリにおいて偉大な第一歩が踏み出された。
革命の平和的移行という用語は、三〇年代、四〇年代、五〇年代を支配した、武力革命唯一論に傾斜した理論を正すため生まれた語で、今日から見れば、正確な表現とは言いがたい。 修正主義がこの用語でもって革命から権力の間題を消し去り、議会主義、改良主義を宣伝する日本ではとりわけそうである。 平和的移行は、ブルジョアジーとプロレタリアートが武力衝突を経て、つまり内戦を経て権力が移行する武力革命ではないという意味で平和的というのであり、革命的危機と激しい階級闘争は平和的移行にともなうものである。
チリの経験はあざやかにこのことを示している。プレイ大統領下における大労働攻勢と大衆運動の著しい高まり、その中での人民連合の中央から地方までの組織化。 そしてアジェンデの勝利。今度はアジェンデの政策をサボタージュ、投機等で妨害する独占・大地主に対する人民の闘争。 人民が買締めを通報すれば政府が買締め商品を差押え流通させる。人民が大土地所有者の土地に入り込み占領すれば、政府が人民に土地利用許可を出す等々。 そして今後の国会選挙での前進。ここでも人民が選挙実現のため闘争し、右翼は選挙破壊を計画し行動にも出た。そのため、この選挙だけで一〇〇人以上の死者が出た程である。チリの社会主義への平和的移行が議会主義とは如何に無縁か、この数字だけからでも理解できよう。
反独占民主主義闘争を強固に戦い抜き、人民の連合を形成すること。それを背景に、ブルジョア権力の最も弱い環、立法権力と、行政権力の頂点を人民の側に奪取すること。大衆闘争と、奪取した権力との結合。 ここでは軍隊の中立化が独特の意味を持っており、軍隊への政策と介入が極めて重要になってくる。 かかる展望の存在する今日、人民に武力闘争と大衆動員の結合を呼びかけても成功はおぼつかない。革命の戦略・ 戦術は一階級の意識によって決まるものではない。 ましてや一党一派の意志によって決まるものではない。それは諸階級の意識的・無意識的行動の総体の中に現われる必然性によって決められなければならず、そうした時、人はそれしかないとして命も顧ず革命のために闘うのである。
以上「ボル通派」の見解を検討して来たが、彼らは理論的には折衷主義であり、弱い党派であると言える。彼らが量的に拡大するなら必ずや分岐が拡大し、分裂による純化のコースをたどるものと思われる。だが数少ない大衆運動を重視する党派であり、その影響を軽視することは誤りとなろう。