【本の紹介】 吉村昭著『生麦事件』
思いがけない予期せぬ事故により入院を余儀なくされ、病床にて、吉村昭著『生麦事件』を読了した。
まさか安部首相が小泉元首相に挑発されて、靖国神社参拝という愚かな行為に走ってしまったために、頼みとする米国からさえその行為を公式に避難され、内外共に孤立を深めていることなど、さらには都知事選を巡っては、保守は臆面もなく野合し、これと対抗すべき側は、原発問題だけが争点ではないなどとセクト主義にしのぎを削っていたことなど露知らず、読みふけっていた。おかげで著者が相当な年月をかけた労作を短い日時の間に読むことができた。明治維新がなぜあのようなドラスティックな変革になったのか、薩摩・長州、両藩がなぜ連合できたのか、実に具体的で唯物論的でさえある。
生麦事件は、現在の横浜市鶴見区生麦町、当時の生麦村で薩摩藩の大名行列にイギリス人の商人たちが観光がてら馬に乗って遊覧していた最中に乱入したとして薩摩藩士に一人が切り殺され、数名が重傷を負った事件である。吉村氏によれば、この事件自体は広く知られているが、この事件そのものについての専門の研究者が皆無で、従って研究書も存在しないという。著者は「これは私にとって大きな驚きであると同時に、強く身が引き締まるのを感じた。人の足跡の印されていない史料の山の中に、ただ一人足を踏み入れてゆくような興奮を覚えたのである」と述べ、その歴史的価値ある仕事を振り返っている。
生麦事件が生起したのは、1862年9月14日(日本暦8月21日)であったが、イギリス人4人が当時の横浜村から川崎大師へ向かう途上、大名行列に遭遇、いわば双方が事件に巻き込まれたものである。これはある意味で必然でもあった。著者はこの大名行列が行われた日を中心に歴史的事実の詳細を丹念に追い、まるで読者がその場に臨場しているかのように明らかにしていく。その筆力には感嘆させられる。同じような分析の視点から明治維新を究明していた故・小野義彦さんなら、本書と実に多くの共有するところがあり、どのように本書を読まれたであろうかと興味の尽きないところでもある。
詳細は本書に譲るとして、生麦事件そのものからは離れるが、なぜ薩摩藩がずば抜けた兵器、艦船、最新式ライフル銃、アームストロング砲などを大量に買い入れ、武器工場まで作れたかという背景に、過酷きわまりない琉球諸島、大島、徳之島などの支配構造があった。それら諸島で生産される黒糖の増産を強要し、専売制とし、指で舐めただけでも厳罰に処する一方、黒糖一斤に対し島民に米三合を与えるが、それは大阪の米相場で黒糖一斤が米一升二合で取引されていたことからすれば、たとえ輸送経費を入れたとしても、三倍以上の利益を叩き出していたという事実。奄美から八重山に至る沖縄諸島の島唄に歌われる人々の痛切な想いが今につながっていることをひしひしと感じさせてくれる。現代につながる差別と搾取の構造が浮き彫りにされる。1998年の刊であるがお薦めの一冊である。(生駒 敬)
(尚、筆者は現在も病気療養中であることをお断りしておきます。)
【もうひとこと】▼都知事選が終わってそれほど日時が経過していない今だからこそ、この選挙の教訓をしっかりと掴み直す必要があるのではないだろうか。▼決定的に重要だと思われるのは、統一戦線思想の欠如である。今、最も切実に要請されている課題ですべての広範な力を結集させることの、決定的な意義である。▼史上3番目の低投票率に示されているように、舛添陣営は「大勝」ではなく、実はすれすれの勝利でしかなかった。▼原発再稼働なんて多くの人々は望んでいないし、この点で反舛添陣営が、統一戦線戦略をしっかりと堅持していれば、人々の期待と支持を飛躍的に拡大させ、無党派層と言われる人々の票を拡大、吸収できたはずである。▼現実に鎌田慧さんらが選挙終盤まで、候補統一のために必死の努力をしていたにもかかわらず、それを実らせなかった「セクト主義」、伝統的左翼に特徴的な業病としてのこの「セクト主義」こそが問われるべきであろう。▼ウォール街占拠運動でも示されていたように、1%の連中の利害のためではなく、99%の人々の利益のための政策転換を求める大衆運動の姿こそが求められている。▼統一候補が実現していれば、何倍にも運動の力は増し、無関心に陥ってきた人々の圧倒的多数を元気づけ、飛躍的な票の増大を獲得できたであろう。▼そうした未来へのニヒルで否定的な対応こそが、選挙の敗北をもたらしたと言えるのではないだろうか。真剣な総括を望みたい。(生駒 敬)
【出典】 アサート No.435 2014年2月22日