【追悼】労働運動に生涯を貫いた人  —原全五さんを偲んで—

【追悼】労働運動に生涯を貫いた人  —原全五さんを偲んで—
                               巣張 秀夫

<写真は、ありし日の原全五さん(89歳の頃自宅にて>

                  
 「原さん」「全さん」と誰からも親しまれていた戦前からの闘士、原全五さんが2003年7月17日の朝、肺炎のため亡くなられた。享年91才でした。
 原さんは、1912年(明治45年)鹿児島県種ケ島で生まれ、17才の時に大阪にきて、鶴橋付近の鉄工所で見習工となり、1932年3月大阪砲兵工廠に旋盤工として入社された。
 原さんに影響を与えたのは郷土の先輩である山田六左ヱ門(通称・山六)さん、大阪で原さんは、当時すでに全協・金属労組で非合法活動をしていた山六さんからいろいろ話を聞かされ、入社翌月の四月に大胆にも仲間二人と三人で、全協・日本金属労働組合大阪支部砲兵工廠分会を結成、五月には共産党に入党されている。
 以来、1933年、35年、38年と三回も検挙、投獄され、38年の検挙で懲役七年の刑を宣告され、敗戦の年1945年9月に刑期満了で堺の大阪刑務所を出獄されたのである。
 原さんは、この当時のことについて「バリさん、わしは偽装転向でもよい、なんとかして刑務所を出て、戦線に復帰して労働者階級の闘いを前進させることが、一番大事なことだと考えてやってきたんや」と言われていたが、私はこの考えに賛成でした。
 原さんが92年4月に発行された「種ヶ島から来た男=一旋盤工の手記」91頁に「検挙されるということは、捕虜にされることで、その捕虜の任務は、あらゆる手練手管を弄して、一刻も早く敵の手中からのがれて戦線に復帰することであり、囚われの身で大言することではないと思う。しかし、そうはいっても多分それは転向者の弁解にもなるが、にもかかわらず、今もこの考えは変わらない」と書かれている。
 
 原さんの戦後の運動は、西成区今池町にあった日本共産党大阪府委員会に行き、再入党をしてはじまった。
 南大阪地区委員会の常任、翌年には地区委員長として、木津川筋の大和製鋼、浅野セメント、国光製鎖、日本鋳鋼をはじめ多くの工場に細胞が確立されていったが、この中でも原さんが百三十名の大和製鋼で七十名の共産党細胞を組織されたことは有名であった。
 1949年4月、西川彦義氏の紹介で産別会議・全日本金属労働組合中央支部の書記局員となり、8月には大金属関西地方協議会担当オルグとなって、再び大阪を中心に活動されることになった。
 関西地協には、小西節治、小森春雄のすぐれたオルグがいて、原さんを加えてこの三人は、川崎造船泉州工場の閉鎖反対、舞鶴造船の首切り反対、木南車輌の閉鎖反対や大谷重工業の年末闘争にからむ、会社側のロックアウト攻撃との闘いをはじめ、数多くの闘争を指導し関西地方の労働運動に大きな影響を与えた。
 原さんの著作、1981年二月発行の「大阪の工場街から=私の労働運動史」152頁に「私と小西・小森の三人組の活動は、私にとって生涯を通じてもっとも充実した活動の時期であった。」と書かれていますが、この当時のことをよく話されていた。
 1950年、占領軍による共産党弾圧、レッド・パージ攻撃などで産別会議が崩壊したため、原さんは再び党中心の活動をされることになった。
 50年の共産党の分裂では国際派で活躍、55年共産党が第六回全国協議会(六全協)で自己批判したので、党に復帰した原さんは北大阪地区委員会の責任者となり、そして58年7月の共産党第七回大会では中央委員候補となられたが、61年の綱領論争では、綱領草案に反対する春日庄次郎氏ら七人の中央委員、同候補とともに「離党宣言」を出して党を離れられることになる。
 以降、原さんの活動は「前衛党を再建」するために奮闘されることになる。
 社会主義革新会議ー統一社会主義同盟ーそして、志賀義雄、春日庄次郎、内藤知周らと共産主義労働者党の結成に努力するが、これも失敗に怒りーその後、内藤、内野、長谷川浩、松江澄らと労働者党を結成するとともに大阪労働運動研究所を創立するなど、一貫して労働者解放、労働者の幸福をめざして闘いつづけられたのである。
 
 私と原さんの出会いは、大金属関西地協に来られた時ですから、五〇年以上のお付き合いになりました。原さんで思い出すのは、(1)若い人に希望を持たれていたこと。いろんなグループの会合に参加してきては、あそこには素晴らしい青年があるぞッと言っては喜ばれていた。(2)労働運動の現状についての理解が早かったこと。労働戦線統一についてなど、左派の皆さんの批判が強かったが、原さんはこれらの人々の説得に当たって下さった。(3)ソ連の崩壊についても、早くから教えてくれたのも原さんでした。
 原さんと一緒に活動された今は亡き小森春雄さんは、原さんについて「柔軟な思考、豊かな戦術、批判力にすぐれ、物事を計画し人を動かすことにかけては実にすぐれた人であった。」と言われていたが、原さんは面倒見のよい心の温かな人でもありました。
( 巣張 秀夫)

 【出典】 アサート No.312 2003年11月22日

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