【投稿】「理念としての欧州」は、もたない―「普遍的価値」への疑問―
福井 杉本達也
1 「普遍的価値」への疑問―「理念としての欧州」はもう、もたない
岸田首相は1月4日の年頭記者会見において、「ロシアのウクライナ侵略という暴挙によって国際秩序が大きく揺らぐ中で、自由、民主主義、人権、法の支配といった普遍的価値を守り抜く」と述べた(2023.1.4)。また、1月12日の日本・カナダ共同記者会見においても、「日本とカナダの関係は著しく深化しています。両国は、自由、民主主義、人権、法の支配といった普遍的な価値を共有する」と述べ(2023.1.12)再度、「普遍的価値」に言及した。さらに、1月13日の日米首脳会談でも、「両首脳は、自由で開かれたインド太平洋と平和で繁栄した世界という共通のビジョンに根ざし、法の支配を含む共通の価値に導かれた、前例のない日米協力を改めて確認」したと、「共通の価値」を強調した。
しかし、この「普遍的価値」は自明のことであろうか。哲学者の中島隆博氏は「分断のいま『普遍』を鍛え直す」と題して、「ウクライナ戦争、難民問題、温暖化、資本主義のゆくえ、極右勢力の台頭、来たるべき民主主義など多彩な話題が俎上(そじょう)にのぼる中で感じたのは、欧州の人々の強い危機感である。自由と平等、人権や民主主義、平和構築や正義など、『普遍』とされてきた理念が様々なかたちで試練に遭っている。難民問題にしても、ロシアへの対応にしても、高邁(こうまい)な理想と現実のあいだのダブルスタンダードの存在や、矛盾と欺瞞(ぎまん)が指摘され…「『理念としての欧州』は、もう、もたない」との声さえあった。」(朝日:2023.1.10)と書く。
2 『西側』の「普遍主義」に対抗するプーチン大統領のヴアルダイ会議演説
プチーン大統領は10月27日、モスクワ郊外で行われたヴアルダイ会議での演説において、「伝統的な価値観は、すべての人が守らなければならない固定的な決まり事ではありません…伝統的な価値観は誰かに押し付けるものではなく、それぞれの国が何世紀にもわたって選択してきたものを大切にするものでなければならないのです」。「私たちは皆の意見を聞きあらゆる視点、国家、社会、文化、世界観、思想、宗教的信念の体系を考慮に入れ、誰にも1つの真実を押し付けることなく、ただこの基盤の上に、運命、すなわち国家、地球の運命に対する責任を理解し人類文明のシンフォニーを構築しなければならないのです。」(ロシア大統領府HP:2022.10.27:佐藤優訳『東洋経済』2022.12.3)と述べた。佐藤優氏の要約では、プーチン氏は「単一のルール(自由、民主主義、市場経済)を掲げる米国の普遍主義に対抗する原理」を主張したのである(佐藤優『東洋経済』上記)。
3 『西洋文明』だけを「普遍的な標準」だとする大澤真幸
哲学者の大澤真幸氏は、文明の衝突は「諸文明が対等で横並びであることを前提にしている」という建前であるが、実際にはそうではないとし、「すべての文明が平等に尊重されているわけではない」とする。「諸文明の中でひとつだけが特権化され…普遍的な標準としての地位を有している」文明=「西洋文明だけが、文明間の競争・闘争のための場を与える普遍的な標準として機能している」と書き、「プーチン=ロシアのウクライナへの軍事侵攻が含意していることは、この暗黙のルール拒否」であり、「ヨーロッパへの帰属を望むウクライナへの軍事力の行使は、西洋文明を受け入れ、前提とした上での競争や葛藤処理という方法そのものを拒絶」であるとし、プーチン=ロシアの西側(ヨーロッパ)への羨望=ルサンチマンにあるとの分析をしている(大澤真幸『この世界の問い方―普遍的な正義と資本主義の行方』2022.11.30)。
その価値観こそが、「リベラル・デモクラシー」であるとする。しかし、なぜ、それが標準となっているのか。大澤氏は明確に答えていない。「単純である。その倫理的な優位性が認められているから…リベラル・デモクラシーが普遍的に妥当し、受け入れられる公正な規範だと承認されているからだ」という(大澤:同上)大澤氏の回答は自らを価値尺度であるとする「西側」の優越的な観点に立つ誤魔化しである。
4 「グローバルサウス」に「偽善」を押し付ける大澤氏
大澤氏はロシアのウクライナ侵攻に対して、国連総会の緊急特別会合で反対した国が5か国、棄権した国が35か国もある、「どうして、かくも多くの国が、ロシアを非難する決議案に、賛成票を投じなかったのか?」と自問自答し、「ロシアを非難する西側諸国の“偽善性”にある」との結論を導き出す。
アメリカをはじめとする西側がやってきたことは、「『西側』に象徴される理念に反すること、まさにその正反対のことを、いわゆる『グローバルサウス(第三世界)に属する諸国』に対して行ってきた…植民地化し、また経済的に搾取してきた…掲げている理念とは真逆の仕方で自分たちを搾取してきた(搾取している)連中を、積極的に応援する気にはなれない」(大澤:同上)ことだと、ようやく「西側」の「偽善性」を認める。
しかし、大澤氏が悪質なのは、「しかし、どっちもどっち、ということにはならない。西側の方がはるかによい。西側の方がはるかに正義に近い位置にいる。われわれは西側の方を全力で支援すべきである」とする。どうして、西側が正義に近いのかさっぱり不明でる。そこで続けて大澤氏は、なぜかといえば、「偽善が生じるのは、誰にも適用されるような倫理の普遍的基準がある場合である。そのような基準を前提として認めているのに、一部の人に対して、それが適用されなかったとき、偽善が生じる」としつつ、自らのおかしな論理を無理やり正当化するため、「しかし、偽善には希望がある。偽善は、まさにそれを偽善とみなす基準に依拠して克服することができるからである。偽善をなす者は、自らがかかげ、引き受けている倫理的な基準に反していることを、自ら自覚できる」。他者から指摘されたとき「悪いことであると認識し、自らの行いを恥じる」ことができる(大澤:同上)。「普遍的基準」を持つ西洋だけにはそれができるが、「西側」の「周辺」であり、「普遍的基準」の埒外にあるロシアにはそれができないとする、大澤氏の論理は全く破綻している。「西側」が「倫理的な基準に反していることを、自ら自覚できる」ならば、そのような行為を犯す(し続ける)はずはない。「普遍的基準」が「普遍」ではないか、「『西側』に象徴される理念」とやらを力(軍事力・経済力・イデオロギー)で無理やりグローバルサウスなどの「周辺」に押し付けているか、あるいはむしろ両方である。
5 欧州起源の人間中心主義の再考
エマニュエル・トッドは『我々はどこから来て、今どこにいるのか?』(2022.10.30:文藝春秋)において、西洋が唯一絶対の「進んだ」社会だという通説を否定する。例えば女性のステータスが低い「非西洋」社会は遅れているのではない、酉洋こそが「周縁」に他ならないとする。「誤った歴史ビジョンに錨を下ろしていると、われわれは現在をデタラメに捉え、そのデタラメさによって無理解、不寛容、暴力を生み出してしまう」と書いている。
また、中島氏は「欧州起源の人間中心主義は再考が必要だ。理性に根差した自立した個人という強い概念は、近代の神話ではないのか。人間はもっと不完全で弱い存在であり、公正な世界実現のために連帯しなければならない」。「文化の固有性という罠から出て、普遍化の努力を続けること。それはあらかじめ、これが普遍だと定義することとは異なる。人権にしても、初めから普遍だったわけではなく、時代とともに変容したからこそ、鍛えられたのだ。他者の声に耳を澄ませ、議論を下から積み上げる水平的なやり方が求められる」と説く(中島:同上)。
一方、佐藤優氏は「西側のリベラリズムは同質のアトム(原子)的個体によって構成されている単一の普遍的世界なので、そこでは単一のルールが適用される。経済的には新自由主義的な市場万能思想であり、政治的には自由主義的な民主主義だ。これとは異なる原理を西側が理解しようとしないゆえに、ロシアとの対立が生じている」とする、ヴアルダイ会議におけるプーチン氏の論理を整理している(「プーチン氏は西側に文化闘争を仕掛け、勝利を確信している」佐藤優:『東洋経済』2022.11.26)
西谷修氏は「民主主義や人権を自己の専売特許と振りかざして『自由』と同じようにそれを他者に押しつけるのではなく、むしろそれを奪われてきた人びとや国々が自分たちのものとして『西側』(西洋白人)に要求するのを認めるときに、それは初めて普遍的なものとなる」と述べる(西谷修「交錯する『二つの西洋』と日本の『脱亜入欧』」『世界』2023.1)。
「西側の理念」について、統計学者の竹内啓氏は、「個人をいわば社会を構成する基本的な『実体』として捉える「人間社会の基本的な単位は、いわばその構成原子としての『個人』であり、そうしてそのような『個人』は本質的に対等なものとされる。『個人』はお互いに絶対的に独立なものとされ、個人と個人の間は、形式的なルールによってのみ規制されるべきものと考えられる。個人を越えた共同体の実体的存在やそれ自体としての価値は否定される」(竹内啓『近代合理主義の光と影』新曜社1979.5.25)と書いているが、「数量的合理性に貫かれた『計画』の重視」・「建て前としての民主主義と個人の尊重」・「『科学』の尊重と反宗教」を含めて、16・17世紀以降の「西側」で生まれた「近代的合理主義」そのものを再考しなければならない時代にある。