特集「大衆運動とマルクス主義」は何をよびかけているか
学生党的傾向の克服のために
堺 新 一
「知識と労働」第十号の「七四年の大衆運動とマルクス主義」という特集は、編集部内の一部の同志たちのあいだで企画され、編集会議の集団的討議にかける手続きをとらず印刷に付されたという事情から、内部でまだ十分討議されていない若干の意見の相違をいきなり公表する形となり、本誌の読者諸君にいろいろな誤解と疑惑をいだかせる結果になったことを、最初にお詫びしておかなければならない。私自身は、第十号の刊行を昨年九月に予定して送稿後九月末までシベリア経済開発見学のため訪ソしており、帰国後刊行の著しい遅延が気になり何回も編集事務局に問合せたが、遅れているのはもっぱら印刷上の都合によるものとの返事で、「特集」の編集とその十号への挿入については一切知らされていなかった。その他多くの編集委員の諸君も、本特集の企画や内容についてほとんど何も知らされていなかった。以上の経過からみて、意見の相違はかなり深く、すでに一部の組織的手段を伴っていたということが、明らかである。
いうまでもないことだが、意見の相違を克服する方法は、徹底した集団討議以外にはない。同号の編集後記にいう“善意と熱意”があれば、この方途の復活はなお可能であろう。だが後記は 「『地獄への転落』を免れしめるものは、ただ理論と原則の力のみである」 とも書いている。察するにこれは危険である。集団討議を意識的に排除した下で展開される 「理論」と「原則」 の「力」の横行は、なにもよい結果をもたらさないだろうからである。
同号の 「特集」が、編集部による特集の形ではなく、単なる討論論文の形で掲載され、然るべき反論 それは当然存在する と併せ編集されていたのであれば、それは一定の前向きの意義をもちえたかもしれない。若い諸君、とくに大衆運動経歴の少ない、大部分がインテリ出身の活動諸君のあいだには、最近の資本主義の危機の急速な進行に対応できないでいる既成革新政党の現状をみて、革命的前衛党待望のあせりのようなものが根強くあることは、否定できないからである。この特集はそうした気分を、だがただ気分だけを、反映している。
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特集の筆者たちが現日共指導部の議会主義的、民族主義的日和見主義の政策方針にたいして批判とバクロを加えている内容は、大体において妥当性をもっており、部分的には鋭い批判も みられないわけではない。それだけなら誰も異存はない。だが総じて批判というものは、相手をやっつけるだけでは芸のないものであり、批判の名に値しない。それに止まるなら比較的容易なものであり、破壊的効果はあっても、前向きの方向は打出されない。そこで現日共指導を否定する筆者たちは、くり返し 「革命的で、原則的な、マルクス主義に立つ前衛政党の確立」 をよびかけ強調している。だがそれは全く抽象的なよびかけにおわり、いったいどのようにしてそうした革命的前衛党を再建するのか、少くともどうしてそのような革命的指導の再建に接近するのか、そのためには何をなすべきか、その過程に当然横たわる多くの複雑で困難な諸問題にたいしてはどういう方針で対処するのか—-こうした、多くの良心的な共産主義者が直面し、模索し、試行錯誤を重ねてさえいる肝心な問題についてはなんの具体策、解決策も用意されておらず、ただ革命党の確立だけを叫んでいる。まずこの単純さ、現実離れした底ぬけの子供らしさには、まず脱帽するほかない。だが、それはこれまでも事あるたびに現われ、消えた「学生党」的傾向の再版ではなかろうか。あるいは筆者たちはいうかもしれない。 「革命的前衛党確立の必要性」 さえ訴えれば、それでこの特集の意義は十分なのだと。酒場での話ならそれでよかろう。だが「知識と労働」は、読者も同人の数もまだけっして多くないとはいえ、マルクス主義政治理論誌と銘打った全国でも数少い論壇なのだ。それを方策なしの気分や主観的願望を活字にしてヒレキする場に利用されたのでは、たまったものではない。
特集の筆者たちは、現在の日共が完全にダメになったと否定して、それに代るべき革命的前衛党の確立をよびかけている。
このさい、現日共の全体を否定しているのか現指導部だけを否定しているのかという重要な問題点についてのハッキリした見解は示されていない。しかし、全体の論調から察すればそれは前者であろう。いずれにしても党の確立をよびかける以上は、それを実行に移さねばならない。特集の筆者とその支持者諸君にはその用意があるのか?党のためのどんなにまじめな準備ー思想的、政治的、組織的準備がこれまでにつみ上げられてきたというのか?その後つたえ聞くところでは、この特集論文をふみ台乃至ふみ絵として党的組織への結集が訴えられているとのことだが、それはいったいどんなプラットフォームの上になされようとしているのか?特集の行動綱領的部分については後で問題とするが、それは大変オソマツで混乱したものであり、もちろんまちがっている。特集の支持者たちはこのようなものの上に党的結集が可能だとでも考えているのであろうか? たとえも少しまともなプログラムが文書として用意されていたとしても、「知識と労働」グループだけで、党的結集が可能だ、あるいはすべきだという結論をかんたんにひき出すことはできない。われわれのグループの現実的力量、その影響力はまだ比較的に小さく、関西ではともかく、全国的影響力という点ではいっそうである。このような状態の中で、特集論文にしたがって党的結集をしようとするものはさらに少数であろうから、諸君はほんの少数で”旗上げ”しなければならなぬということになる。それはもちろん党にはならず、小さい組織をさらに分裂させるだけの結果となろう。そんなことはやめたほうがよい。
過去において、諸君より影響力かあり、より多数の人を結集できる人達が、そういう思いつめたかたちで“旗上げ”をしたが、すべて失敗してしまった。その理由を諸君は少しでも真剣に検討してみたことがあるのか。われわれは、こうした失敗の経験からも充分に学ばなければならないのだ。彼らはなぜ失敗したのか?理由はいろいろあろうが、そのーつは、五〇年分裂とその直後の時期にそうであったように、綱領論争、社会主義革命か人民民主主義革命かというような抽象的な革命の戦略論争で代々木指導部と論争することに大部分のエネルギーを費し、実際の労働運動やその他の大衆運動にとりくむ中で正しい政策・方針の確立のために闘い、運動の中で意見の相違を克服するという党内闘争のより本格的な取り組みにおいてきわめて不充分であったということが指摘されよう。反面、いろいろなグループが、党内での思想闘争を辛抱強くとことんまで行なわず、また大衆運動の中での政策対決を粘り強く追求するという方法によらず、いきなり組織的対決・別党樹立の道を急いだのではなかったろうか。彼らの多くは「別党」の旗を掲げ、代々木指導に批判的な戦略と綱領を掲げ、何千部かの機関紙を発行して、大胆に活動を進めていきさえすれば、比較的短期間の内に情勢は変る、と確信していたようである。また彼らは、日本の良心的な共産主義者たち(代々木内外の)の間に念入りに意志統一をとげるという準備活動も充分行なわないままに、待ちきれずに、 一部は代々木指導部に挑発されて、旗上げをした。だがその結果から明らかなように、大多数の党員大衆はその後については来なかった。今日党の問題についで発言し、党の原則的統一の手段を求めるものは、戦後すでに四半世紀におよぶ日共の党内闘争とその分裂のこの苦い経験を集約し、そこから教訓をひき出さなければならない。
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党の分裂後、その機関を占領し大量宣伝機関を握っていた宮本指導部は、分派よばわりと反党修正主義のレッテルはりを手段にして、彼らを党員大衆から切り離し、自己のセクト的官僚主義的支配体制を逆に強化していった。この党は、その後三〇万の党員、百万部をこえる日刊・日曜版機関紙、数十名の国会議員を擁する勢力に肥大化していった。この現実の勢力関係も当然考慮に入れられなければならない条件である。多くの国際主義的分派が押しつぶされ、分散させられていったあとに、なぜ宮本指導下の日共勢力がこのように肥大化したのか。その理由は何であったろうか。もし一言でいうなら、それは宮本指導の徹底的な大衆追随主義の産物であったといえよう。宮本指導は、八回大会から十二回大会に至る数次の大会を通じて、 “マルクス・レーニン主義の日本の現実への適用”ということを口実にして、プロレタリア党の綱領を少しづつ民族主義的議会主義的党の綱領に変質させ、人民大衆の中にある俗流的な見解、階級的に遅れた意識への迎合に外らせていった。その社会経済的な支柱は、いうまでもなく高度成長の過程で大量にプロレタリアートの陣営の中に引き入れられた非プロレタリァ的小ブルジョア的要素の拡大という事清に求めるほかはない。宮本指導は、 一九五二年の血のメーデー闘争と一九六〇年の安保闘争の高揚の中にあった米軍占領・半占領下の民族主義的ムードを用いて同じ闘争の中にあったプロレタリア的階級意識を麻ヒさせ、それを六〇年代の高成長経済が育くんだ労資協調主義の潮流と中和させ、議会を通じての、もっぱら議会を通じての“革命”–民主連合政府の樹立による安保廃棄というプログラムに定着させる一大カンパニアを行なった。
今日世界中の共産党で公然とプロレタリァ国際主義に背き、民族主義的コースをとっているのはいうまでもなく中共と日共である。この両党は共に一九六〇年の八ーカ国共産党労働者党会議以後反ソ的傾向をあらわし、その後数年間は 「フルシチョフ修正主義」 反対、 —-実は国際プロレタリアートの平和共存路線反対 という形で両党は連携していたが、中国の文化大革命中の一九六七年に日共は中共と手を切るようになった。だがそれは民族主義の本質に根ざした分裂であり、何ほどかでも日共のプロレタリァ国際主義への復帰を意味した出来事ではなかった。従ってその後も日共の対ソ共関係はいっこうに改善されず、やがて最もロコツな民族主義的要求ー「北方領土全面返還要求」を掲げるという形で公然と平和と社会主義の勢力に挑戦し、復活した日本帝国主義の反ソ活動のお先棒かつぎの役割を演ずるようになっている。
このように社会主義と国際プロレタリアートの利益にそむくことは即国内の労働者階級の利益を裏切ることと裏腹の関係にある。そのことは日共宮本指導部が、 一再ならず春闘における総評のゼネスト計画に反対したり、最も戦闘的な労働組合である動労、全電通、全逓、全国金属などの組織と運動に干渉して労働戦線に有害な混乱と分裂を引起したり、また教師聖職論をとなえて日教組の運動をつぶしにかかったり、最近の八鹿事件にはっきり現われたように貧困と差別に抗して闘っている部落解放同盟にファシスト的攻撃を加えるなどしていることの中に明らかである。宮本指導部は今年もまた、四月の統一地方選挙を前にして労働者の春闘運動を自党の議会主議的集票連動に解消させる方針を進めており、他方では同和行政にセクト的いいがかりをつけて、目前の地方選挙における反自民の統一戦線の条件をいたるところで破壊する戦術を採用している。このような現日共の右翼的セクト主義が独占資本の党自民党の支配延命を助けている度合は、すでに直接自民党に協力するに至っている民社党の役割にまさるとも劣るものではない。高成長経済の崩壊にともない、選挙民大衆が急速に反自民ムードに移行しつつある中では、反自民の看板を掲げながら、このようにして自民党延命の契機を作ってやっている現日共の方が支配層にとってより利用価値が高いことは明白である。
このことに気付いていない国民大衆がまだ多いとはいえ、最近の宮本指導部の極端にセクト的で利己的な政策に対しでは、労働運動とその他の民主運動のなかで、また選挙に際しての革新統一戦線を要望する諸団体のあいだで深刻な疑念、批判、非難の声が高まるようになっている。宮本指導はその変節からすでに十余年を経ているが、これはこれまでになかったような新しい変化の兆しだといえよう。資本主義の新しい深刻な危機の到来、その中でインフレーンョンと石油危機、経済恐慌の犠牲をもっぱら労働者と国民の中の弱い層に転嫁して切抜けようとしている支配階級の激しい攻撃の下で、勤労国民大衆の気分は急速に変りつつあり、小ブル日和見主義の宮本指導の政策は、闘争以外に生きる道のない大衆から次第に見離されるようになってきた。とくに部落解放同盟を敵視している宮本指導部が、現下の地方選挙闘争で同和問題を理由に革新統一戦線を次々と分裂させ失敗させている行為は、日共への疑惑を強めている。
今後、選挙のなりゆきによっては、日共の宮本指導がさらに広範な世論から厳しい批判と非難を受けることが必定であろう。同党の体質がこの十年来、議会主義によって固められてきていただけに、この選挙闘争において宮本指導が自らまねいた行き詰りと失敗は、同じ指導にとって致命傷とさえもなりかねないものである。
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このような客観的情勢の推移のなかで、革命的前衛的指導を再建することが焦眉の課題となっていることはいうまでもない。その路線が、宮本的な民族主義と議会主義ときっぱり手を切り、帝国主義に反対して平和共存の関係を固める中で、反独占民主主義の運動を発展させ、これを通じて社会主義への展望をひらく民主的な政権の樹立を当面の戦略的目標とするものであるという点では、すでに大方のコンセンサスができているとみてよかろう。だが、そのような路線をとる前衛党再建のための方途、その組織形態等については、遺憾ながらまだ全国の良心的共産主義者の間でコンセンサスができていない。いわゆる新党あるいは別党コース—-日共は宮本指導部の変節によっていまや全体としてダメになったので、それとは全く別に新党を結成しようとする動きは、過去に何回かみられたか、それらはいずれも成功していない。それらの試みに共通していた誤りは、変節した宮本指導部およびその機関とともに日本共産党全体にたいして清算主義的姿勢をとったことにある。このような姿勢によっては、過去の日共創立以来の革命的伝統を継承しえない。当然現日共の隊列内に残っておりあるいはその周辺にある良心的な人々—-その数はけっして少いと即断することはできない—-をひきつけ、結集していくことができない。この姿勢によっては、今後、危機の中で労働運動と民主連動が宮本指導とのあいだに重大な矛盾を深めてくる—-現にその兆候が多くの面にあらわれているのだが—-ような場合、党のランクアンドファイルと変節した指導部とを切り離してゆくことに成功しないであろう。
一九六四年に党を除名されて以来、宮本指導部を批判し日共の正統派を自認する 「日本のこえ」は、一貫してこの種の「別党」組織に反対し、そうした動きを“別党コース”として排撃してきた。と同時に自己の組織をもって“別党ではない別組織”と規定し、結成十周年を経た昨年は第八回党大会の規約を援用して再登録を行い、この別組織確立を目途している。これは事実上の別党であろう。別党とは代々木とは別の中央集権的組織を作り、独自の指導機関をもって活動し、一定の情勢変化の時期に代々木指導にとって代ることを意図するものである。問題は、この形での運動がはたして宮本指導部にとって代りうるほど有力なものになりうるかどうかという点にかかっている。その点で気になるのは、 「こえ」 はその出発にさいして、代々木から追われまたは離れた多数の良心的共産主義者たちに呼びかけ、その組織活動方針について広くコンセンサスをとりつける手続きをとらなかったことである。一九六七ー八年にこの組織が提唱した共産主義者の 『結集」運動は、そのようなコンセンサスを作り上げる上での好機であったが、それまた不首尾に終
った。このような経過から 「こえ」 は、週刊の全国的機関紙をもつ唯一の代々木反対派でありながら、今日なお代々木に批判的な共産主義者の多数をその周囲に結集することに成功していない。従って、「こえ」 と一定の連携をもちながらも、それからは基本的に独立した多数の共産主義者の小グループが各地に存続し、大衆運動に一定の影響を及ぼしながら活動を続けているのが現状である。前衛政党再建という課題にてらして、そこからどのような結論がひきだせるであろうか。 それは、「こえ」をふくめて各地に分散する良心的な共産主義者のグループ、個人相互間に、批判と自己批判の方法による有機的結合の場をつくることがさし当って必要でありまた合目的だということである。そこでもし戦略的課題と当面の課題について意志統一が勝ち取られるならば、代々木の妨害を排しながら大衆運動に取り組み、今日の反独占的大衆運動が代々木指導とのあいだに矛盾を深める中で、宮本指導部の致命的誤りにとどめをさす展望がえられるであろう。この結合は、けっして早期に党の形をとり党を名のる必要はないであろう。それは共産主義運動の内部闘争(広い意味での党内闘争)の必要に応じた屈伸自在な、イニシァチブにとんださまざまの運動形態、組織形態を活用すべきであろう。共産主義者は、解決できることだけをとりあげる。
革命的前衛党の確立を呼びかけている特集の筆者たちは、以上に概括したような日本の共産主義運動の困難な現状、このような経過、そのなかにみられる複雑で困難な諸問題を少しでも考慮に入れているのであろうか?またそうしたことを考えてみたことでさえもあるのだろうか。それとも、資本主義の全般的危機が今日深化しつつある中では、そのような面倒な考慮をしてる余裕はないとして、代々木を切る刃を返して、そのような考慮から直ちに前衛党樹立に賛成しない者を「日和見主義者」「解党主義者」呼ばわりしようとしているのであろうか。それこそ現実離れした“学生党”的主観主義、主意主義の袢天をつけている証左である。
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前衛党結集をあせっている特集論文には、その理論的背景をなしているような一連の世界と日本の現情勢分析における誤りも指摘できる。
第一は、今日の世界情勢の基本的発展方向の把握そのものにみられる混乱ないしは一知半解である。 特集の筆者は、今日「国際的力関係は、社会主義と平和の諸勢力にとって有利な方向へと全般的に転換し」 ており 「デタントの趨勢は全世界的な規模で進行している」(P40)と書き、今日、世界の体制が両体制間の緊張緩和と平和共存の方向に向かいつつあることを認めているようである。ところが 「しかし」 と筆者たちはいう。「社会主義体制にたいする帝国主義諸国の根本的な対立関係は、支配階級のとる乎和共存政策と対社会主義接近を、社会主義体制への分裂策動をも含めて動揺と矛盾にみちた不安で中途半端なものにする」(P39)「支配階級とその右翼的反動的冷戦主義的傾向は、つねに必然的にまきかえしと反撃に出る」ので「一時的な部分的後退や停滞を生み出しうるのである」(P40)と述べ、「経済的政治的矛盾と対立によってたえず根底からゆるがされている対社会主義の帝国主義的軍事同盟の維持と補強(安保堅持と日米会談、独自核武装)を図らざるをえない」(P39)と強調している。
これでは、今日の帝国主義にとって特徴的なその解体的傾向とその冷戦主義的まき返しの傾向とが単純に対立させて扱われており、そのどちらの傾向が今日の世界史発展の方向を決めるものとなっているかがぼやかされている。帝国主義はけっして死んではいないのだから筆者が指摘しているような帝国主義勢力のまき返しや反撃の策謀が執勤にくり返されでいること自体は事実であり、それにたいし警戒心を怠ることはできない。にもかかわらず今日の世界では、帝国主義と反帝国主義勢力(社会主義世界体制、広汎な民族解放勢力、各国労働運動の連帯した力)と、緊張緩和と平和共存への傾向とそれへの逆流と、そのどちらが優勢になり、情勢発展の基本方向を決定するようになっているのかというもっとも肝心な点を筆者は、故意にか無意識にか、アイマイにしている。そして、この点をアイマイにすることから、筆者は必然的に、帝国主義が朝鮮戦争やベトナム干渉戦争で暴威をふるい、何ほどかでも世界史の歯車を逆転させることができた一時代前の視点に逆戻りしている。この視点—-今日の帝国主義の力の過大評価と、社会主義世界体制と民族解放運動、各国労働運動の三要素が連帯する反帝国主義勢力の過少評価—- は、筆者が口をきわめて論難している日共宮本指導部の視点への意外な接近を示している。
今日でも帝国主義の最反動派、たとえばアメリカのジャクソンとか西独のシュトラウスとか、日本の岸・佐藤とかのグループは、緊張緩和と平和共存の潮流にさからって騒々しい妨害を試みている。ソ連に最恵国待遇を与えることを邪魔したり、中東油田地帯の保障占領とか、米軍の南ベトナム、カンボジャへの再派遣とかの金切り声をあげている。しかし彼らはこれらの危険な計画にかんして国内支配上層のコンセンサスをとりつけることができず、かえって上層の意見分岐を深める結果を招いた。ジャクソンー派のあつかましい対ソ内政干渉にたいして、ソ連が一九七二年の米ソ通商協定の破棄をもって答えたことは、米財界上層をいたく狼敗させている。IBM、バンクオブアメリカなど米有力企業百七十社が参加している米ソ貿易経済委員会のケンドール委員長は米政府がこのまま手をこまねいていれば、拡大基調にあった米ソ貿易は日本、欧州諸国にとって代わられ、深刻な景気後退にあえぐいまの米経済に新たなマイナス要因になろう」 と警告、「対ソ貿易で米輸銀が二十億ドルの特別融資わくを実施すれば、米国内で新たに年間四十万人の雇用機会を確保することが可能となる。これは景気後退にあえぐ米経済にとって大きな救いとなろう」という意見を発表した。 (日経、1,23)「中東油田地帯の軍事占領もありうる」と発言したキッシンジャーは、全世界に世論のはげしい非難を浴びて、宇宙中継のテレビでその意図のないことを弁解しごまかさねばならなかった。帝国主義の冷戦派は、もはや平和共存への大声を動かせなくなっている。そのことは、産軍複合体を媒介にジャクソン派とも気脈を通じてきた米フオード大統領でさえが、SALTⅡや全欧安保の話合いにウラジオストックまで出かけねばならなかった一事によっても理解できる。ブルジョァ報道も、今年中にsALTも全欧安保も大きな進展をみるだろう、と予想している。筆者は、西独前首相ブラントの失脚をもってデタントの 「後退や停滞」の証拠としてあげているが、後継者のシュミツトはけっして前任者の 「東方政策」を変更じてはいない 。
デタントのもとで帝国主義・独占資本主義の経済的政治的社会的矛盾・対立がいっそう激化してくるのは当然である。だがこの帝国主義の内部矛盾の激化が生み出すものは、けっして特集筆者がいっているように(P39)、反社会主義の軍事的同盟の補強という志向だけではない。同じ諸矛盾の激化からはまた、平和共存、南北問題へのより柔軟なとりくみという方向へのいっそうの傾斜も生み出されるのである。そのように捉えるのがより弁証法的ではないか?
特集の筆者は、かしこそうに次のようにいう—-「支配上層の対外政策上の二面性と矛盾の基礎には、帝国主義の本質が生みだす一般的政治的目的(反動的目的のことかー堺 )と一国の客観的な国民経済的な利害の矛盾に基く客観的な矛盾対立がある。だが支配上層が後者(国民経済の利害のことー堺 )の自覚とその優位において行動することを待機することは全く問題になりえない」 と。誰れもそんなことを「待機」 などしてはいない。労働者階級は、その国の対外政策の状態の如何にかかわらず生きるためにはその斗争をすすめなければならない。国民経済はその内部に深い階級対立をはらんでおり、国民経済にかんする政策のあり方に主な影響をあたえるものは、国内における階級斗争の発展程度である。一方支配層の対外政策上の立場は、もちろん国内的事清を考慮に入れているとはいえ、それはより広い国際的な力関係の全体、その下での国際的な利害関係に基いて決められている。今日の資本主義諸国は大てい、国内では労働者階級にたいする圧迫体制を強化しながら、対外政策の分野では社会主義諸国との外交関係を調整し、経済協力をも拡大してゆく政策に移っているではないか。ところが特集の筆者は、このように本来次元を異にする二つの問題をキカイ的に直結するトリックを用いて、頭の弱い人に次のような全く誤ったお説教を信じこませようとしている。「労働者階級が国民的な指導階級として、平和と平和共存を目的とする首尾一貫した自らの対外政策 を掲げて闘うときにのみ、支配上層内部の矛盾を深刻なものとし、客観的な国民経済的利害の命ずる方向へその対外政策を向わせることができるのである」 と。これは事実上、わが国の国際関係の改善と、それにともなう国民経済の客観的条件の改善を、わが国の労働者階級が 「国民的指導階級として」「首尾一貫した対外政策をもつ」ようになる日まで待て!というにひとしい。それは字面だけ左翼的な、全くの日和見主義の主張である。
今日、日本の労働者階級の戦線はなお分裂しており、従って首尾一貫した政策の下に統一されているわけではない。だが今日のインフレ下の総需要抑制という名の縮少均衛政策=独占集中策のあらゆる犠牲をしわよせされているかれらは、このような議論をしている間にも闘わないわけにはいかず、事実、仕事と雇用の確保、大巾賃上げを要求して闘争に立ち上っている。この大衆闘争の圧力が、弾圧や懐柔政策では到底おさえきれず、のりきれなくなるところまで大きくなるとき、支配上層は政策転換を強いられ、雇用、原料、市場、金融などの諸面において対社会主義市場への接近拡大をもふくむ拡大均衡政策への転換を図らぎるをえなくなるであろう。近年米ソ間貿易の取引量がかつてない急増傾向を示しているが、その背景にあるものはいまや8%をこえたアメリカ経済の高い失業率であり、米国上層内にデタントへの一定の逆流傾向がうごめいているにもかかわらず、米産業界をして対ソ経済協力の拡大に向けてつき動かしているものは、雇用維持・拡大ののっぴきならない要求だったのである。
いうまでもなく一握りの独占集団の利害と国民経済全体の利害の間には鋭い相違と対立がある。だがこのことから独占的支配上層が国民経済の利害を全く無視してその支配を続けうるなどと考えるならば、それは正しくない。日本の自民党に限らず、一握りの独占体の狭い階級的利益の追求にのみ身を任せて国民諸階層の状態を全く考慮に入れないような政党や政権があるとしたら、それは今日の階級勢力関係の下では、おそかれ早かれ選挙によって政府の座からほうり出されてしまうであろうからである。このような国内の政治的危機に迫られながらも、自己の利潤への関心から国内の分配関係にだけは手をつけたくないとと欲している独占資本家的上層に、経済恐慌からの活路を、まず第一には海外進出の中に求めようとする。だが今日の資本主義世界市場の完全にゆきづまった、競争に充満している現状の下では、それは一時的例外にはともかく、一般的には困難というよりは不可能に近い。そこで、支配上層の中のより見通しのきく部分は、かれらが決定権をもっている対外政策の分野で東西接近をはかり、未開拓の分野で大きな将来性を約束する社会主義世界市場への進出策をねり、また社会主議国の平和へのイニシアチブをうけ入れて、その下で帝国主義によつてはもはやつなぎとめられなくなっている南の世界との関係を、何とか破局から救い出したいと願うようになっているのである。帝国主義ブルジョアジーのこのような主観的意図とは無関係に、このような現実の動きは、世界的規模での資本主義から社会主義への移行過程を早めている。
どうやら、特集の筆者たちの救い難い誤りの根源のーつは、今日における平和運動=平和共存の関係を確立する運動と労働運動の課題の相違を理解せず、両者を全く混同している点にあったことが明らかになってくる。筆者たちはいう 「労働運動が支配層内部のあれこれの政策的分岐の単なる付属物にならないためには、労働者階級の掲げる外交政策、方針はその基礎をなす内政の根本的な変革、転換の方針との必然的な連関において、金融寡頭制支配の現体制とは異なった客観的経済的基礎をもっで提起されなければならない。労働者階級とその前衛は、独占の支配を打倒し国民経済を現実に指導するための準備をつねにおし進めることによってのみ、支配階級に政策転換を押しつけ、その中途半端で動揺的な部分的な対社会主義接近を一貫して拡大し発展させることができるのである」 (傍点堺)。これはほとんど空語であるだけではなく、今日の平和運動の未曽有に広範な性格を理解せず、それを労働者階級の革命運動の課題と同列視し、革命を要求するのでなければ平和と平和丑存はかちとれないものであるかのように主張することによって、今日の平和の戦線を全く幅のせまいものとしている点で全く有害な見解であるというほかはない。今日、平和と平和共存を求める平和運動は歴史上かってみない最大限に広範な性格をもっており、社会のあらゆる階層を包含する一大潮流を構成している。労働者階級は、本来的に平和を求める階級であるが、平和運動は労働者階級の独占物ではない。そこには世界の推移の客観的の方向について肯定的見解をもつ支配上層の部分も包含されるし、またそうされねばならない。そうでなければブレジネフはニクソンやフオードと会う必要はなかったはずである。今日、資本主義諸国の支配層を(そのすべてではなく、またその間に程度の差こそあれ)社会主義との交渉=平和共存下での経済、技術、文化的協力の方向につき動かしているものは、単に各国内の階級闘争の圧力—-その発展は各国内できわめて不均等である—-だけではなく、世界的な—-貸本主義と社会主義との両体制間の—-力関係(政治的軍事的経済的な)の根本的な変化である。一九七〇年代に主な資本主義諸国が残らず、あいつぐ通貨危機、石油・ェネルギー危機、経済危機に見舞われて、その成長率がきわだって鈍化しているとき、社会主義諸国は、これらすべての危機の圏外に立ち、7~9%の高成長を続けている。すべてこうしたことが今日の平和共存の大勢を決定しているのであり、本来その発展が不均等である各国階級闘争の状態が直接各国の東西接近の程度に関係しているわけではない。この事情は、各国労働運動にとっては、その条件であり、決してその結果なのではない。だが各国の労働運動が今日異口同音に平和を要求し、平和運動のもっとも一貫した支持者として立ち現われでいる理由は、別のところにある。それは、平和と平和共存の下で労働運動が最大限に発展しうる自由を保障されるからであり、戦争と戦争準備の条件下では、すなわち冷戦の下では労働運動への圧迫と迫害が不可避的に強まるという理由によるものである。労働運動が平和運動を自己の課題としてとりあげねばならないのは正にこの意味においてであり、それ以上でも以下でもない。特集筆者のように平和運動の課題を労働運動の課題、それも金融寡頭支配の変革という革命的課題に従属させ、両者を不可分の課題であるかのように規定することは、今日の平和運動に即座に分裂と弱化をもたらし、もっとも反動的な帝国主義者の策動を利する条件をつくりだすことになるだけである。
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国際舞台の問題から、国内の階級闘争の問題に移ろう。「労働者階級は根本的な変革のための革命的な要求とならべて、独占体とその政府にたいして即刻の実現を迫るべき部分的で改良的な政策転換の要求を掲げてたたかわなければならない」 云々。 これは至極当然なことである。最低賃金制の確立、その物価スライド、公共料金の値上げストップ、公務員労働者へのスト権の回復、現下の総需要抑制政策の拡大均衡政策への転換などが当然後者の中心的要求として前面におし出されるべきであろう。
ところが特集筆者の要求はそうしたものとはかなりちがったものであるようである。「今日の恐慌の深刻化の下では、日常的な経済闘争において、同時に、国家の財政金融政策の転換とそれに必要な一連の独占体の国有化を含む根本的な変革の要求を何ほどかでも系統的な政策として掲げてたたかわなければならない」「それなしには、実質賃金の切り下げから身を守り、賃上げをかちとり、生活水準の引下げと耐乏生活の強要に対抗して生活諸条件を改善する上で一歩も前へ進むことはできない」云々。
いったいこれは誰にたいして説教されているのか?・主語が 「労働者階級」 となっていることから考えれば、それは当然その一般的なあり方である労働組合にたいしでも勧告されているのであろうが、その「日常的な経済闘争において」「一連の独占体の国有化の要求」を同時的にもちだせというのは、今日の労働組合の破壊にも通じかねないハネ上りの—-まさに学生党的な要求とでもいうべきものであろう。この種の幼稚で生硬な「外部注入」論的なセクト主義がこれまでどれほどわが国の労働運動の健全な発展をさまたげてきたことか?爪のあかほどでもそのような反省があってよさそうなものだという願いを特集の筆者たちは、こうして無惨にうちくだいてしまう。
ほとんど代々木政策の批判と真の前衛党樹立の抽象的よびかけに終始しているこの特集の唯一の具体的政策部分は、その前文末尾に掲げられている「部分的な変革の政策」「即刻の実現を迫る闘争のスローガン」10項目にしか見出されない。これがおそらくその党的組織のための「行動綱領」「最少限綱領」に当たるものなのであろう。ところがこれは何ともオソマツ、全く混乱したアタマの産物としか評しようのないものである。詳綱は別の論者にゆずるが、即刻実現を迫る斗争の要求といいながら、平和斗争の重要な争点である「核防条約即時批推」の要求が脱けていたり、今日の労働運動の発展に不可欠の重要性をもつ「公務員、公企業体労働者のストライキ権奪還」要求が忘れられていたりする。かと思うと、「法人にたいする強累進課税」(法人といえば全法人を意味する)とかインフレを止めるための 「厳重な物価統制」とか、中小企業者や小企業者を怖れさせるようなスローガンが掲げられている。「小農経営にたいする経営保障と自発的協同組合化」 という本来両立しない要求を妥協させようとする試みがみられる一方、「倒産企業、閉鎖工場にたいする労働者による生産管理」 というような新左翼的スローガンも並べられている。何とも奇怪なのは、公共事業関連部門、とくに住宅建設関連部門の国有化という要求であり、それが一〇項目の筆頭第一に掲げられていることである。エネルギー産業の国有化がそれに追加されてはいるが、これは当面国有化要求を必要最少限なものにしぼって提起しようとしているものなのであろうか?だとすればその意図は、国有化を当面エネルギー産業にしぼって提唱している日共の現政策とも共通な配慮をしているものといえよう。ところがである。そこにいう公共住宅建設部門とは、筆者らによれば、私鉄、電力、ガス、セメント、鉄鋼、土木建設等と注記されているので、それは事実上大部分の重要産業の範囲に及んでおり(残るのは電機と自動車、造船と海運、繊維と食品位いのものとなる)、しかも企業の大小の区別もなく「系統的な国有化」 の対象とされるのだから、今日苦境にある中小零細土建会社も国有化の対象に含まれることになってしまう!これは日本の経済社会の現実に照し合わせるなら全く支離滅裂なスローガンであり、 一方でマイホーム主義の小ブル大衆への追随の意図をちらつかせながら、他方では彼らを迷わせたあげくあざむくプラグマチズムの、もちろん革命的マルクス主義者の要求とは全く無緑なスローガンとなっている。特集筆者の一〇項目要求に欠けている本質的なものは階級的立脚点であり、 一貫した反独占的な視点のあいまい化である。
共産主義者は、その綱領を隠蔽する必要は少しもないと、マルクス主義の創始者たちはいった。—-「共産主義者は、自己の見解や意図をかくすことは恥とする。」彼らは「労働者階級の直接当面する目的と利益とを達成するためにたたかうが、しかし、現在の運動のなかにあって、同時に運動の未来を代表する」(マニフエスト」 第四章。)この教訓は今日でも全く正しい。われわれは、革命の現段階をつうじて一貫して追求すべき基本的な諸目標ー社会主義への展望をひらく反独占的人民政権の樹立、さし当っては自民党政治独占の打倒、国家諸機関の全面的民主化、重要産業と金融機関の国有化、少くともそれにたいする民主的統制の確立、その下での勤労大衆の労働条件と生活水準の抜本的改善などの諸要求ーを少しもあいまいにする必要はなく、また絶対にそうするべきではない。必要なことは、 労働者階級と勤労大衆の当面の諸要求貫徹の闘争において共産主義者が現在その先頭に立ち、もっとも有効にこれらの諸要求実現のために献身しながら、現在の運動を右の基本的な目標に結びつけ、労働者階級の意識をたえず高めてゆくことである。従って、共産主義者のプログラムにあっては、当面の諸要求をその綱領的要求に結合することこそが重要なのであって、特集筆者のように両者の間に隔壁をつくり、前者と後者のあいだに万里の長域をつくるべきではない。したがって共産主義者の「当面の要求」とは、けっして特集筆者がいうように 「部分的で改良的な政策転換の要求」 の水準にまで引下げてよいものではない。特集筆者が掲げている綱領が、日共のそれに新左翼のコショウをまぶしたようなだらしないものになっている真の理由は、まさに右の点にある。
6
終りに、老婆心から一言しておこう。特集も私論も日共の議会主義を批判し論難してきたが、しかしそれは今日の国家機構の中に占める議会の重要性をいささかでも軽視させる議論であってはならない。一般国民が広汎な参政権をもつ普通選挙をつうじて成立している今日の資本主義国の議会は、国家機構の中でもっとも世論の影響をうけやすい、特異な部分をなしている。反独占的民主勢力は、ひんぱんに行われる選挙斗争へのとりくみの如何によっては、民主勢力の代表者を多数議会に送りこみ、反独占的な諸要求を国政や各級地方政治の上に反映させてゆくことができる。それに止まらず、議会内外にわたる反独占統一義線の結或によっては、政府をさえ変えるニとができる。このような事情にあるため、議会は、独占資本家的上層の利益に奉仕している現在、ブルジョァ国家機構の中でもっとも傷つきやすい部分である。現代の国家独占資本主義における国家の相対的独立性とは、まず第一に、このような議会の地位と役割にかんして理解されねばならない。
しかし議会をつうじて民主的諸要求を国政の上に反映させてゆくためには、選挙斗争と議会内斗争へのとりくみだけでは、決定的に不十分である。議会外の労働運動その他の大衆運動が強力、広汎に展開され、それが選挙闘争、議会内斗争と有効に結合される場合にだけ、支配階級はその政策上に一定の譲歩を行う。そしてこのような譲歩は、前にものべたように、 一面ではそれは民主勢力の獲得物であるが、他面では支配層が反独占運動を鎮静させ分裂させるための投餌である。したがって議会内でこのような譲歩を重ねさせるだけでは、すなわち議会主義によっては、政権への接近はできない。戦斗的な大衆運動に背を向けて、選挙闘争にだけ全力投球している代々木の議会主義によっては民主連合政権に接近しえない所以である。反独的民主勢力は、支配階級からかちとった譲歩を、それ自身の大衆運動前進の陣地に転化し、労働運動の統一をつよめ、それを中心にあらゆる大衆運動の結束をいっそう拡大強化してゆく場合にだけ、支配階級の校猪な策謀を打破り、反独占戦線の政治的影響力を圧倒的なものにまでもりあげてゆくことができる。
この過程はけっして一直線なものではなく、大衆運動の浮沈、弾圧と反撃の交代する幾過程かを経るであろうが、今日変動のテンポを早めている資本主義の全般的危機の醸成がついに支配の、上層の危機を到来させるようなとき—-それは過去にも一度ならず到来したし、これからはもっとひんぱんに訪れるあろう—-たとえば今日の民主的革新勢力とよばれるような 結束がついに議会の多数を占め、革新政府を樹立する機会が到来してこよう。反独占勢力は全力を結集してこの政府を支えると同時に、それが一貫した反独占的政策を実行に移すことを要求しなければならない。しかしこの場合でも、すなわち、議会と政府が革新勢力の手に握られるに至った場合でも、その他のぼう大な国家機構ー軍事警察司法機構と国民経済全体の敢制高地をなす経済諸官庁とその無数の付属機関は依然として金融寡頭制と癒着したままの状態にあり、ひきつずきその権力を行使しつづけている。それらをそのままにしておいたのでは、革新政府は何ひとつ反独占的政革をおしすすめることはできず、反対に、官僚組織のおこなうサボタージュや反抗によって手足をとられ、資本逃避やインフレーションの大波に洗われ反動家どもの逆宣伝にあって首をしめられてしまうことにもなりかねない。
したがって、誕生した革新政権がその存立をまもり、反独的政策を実行に移していくための不可欠な措置として、まずもって軍事警察機構の徹底した民主化、保守的高級官僚の入替えがなされなねばならず、併行して、民主的経済統制にのり出すため不可欠な重要産業と金融機関にたいする国有化措置が、日程に上されねばならない。これらの措置は、労働組合をはじめとする戦斗的な大衆運動の強力な、直接的な支持と参加なしには着手し、推進できないであろう。
社会が現実に変革期に入ったことをおしえるこのような局面ー政治の熱い時期の到来は、何百万、何千万という大衆の政治的意識を一挙に、飛躍的に高め、彼らのイニシアチブを最大限に解放することとなろう。
社会主義への途をひらく反独占的で真に民主的な政治権力の確立、それを生みだす政治革命への展望は、右の情勢のなかで具体的なものとなってくる。
(七五・二・二八記)