七四春闘の成果と残された問題 (「知識と労働」10号)

(「知識と労働」10号 特集論文)

七四春闘の成果と残された問題   –労働運動と「前衛党」–  

「知識と労働」No10 1974年12月10日

「知識と労働」No10
1974年12月10日

                  田崎 晋

 七四年春闘のように画期的で重大な意義をもつ闘争は、あらゆる機会にその主要な諸側面について、種々の観点と問題領域において、検討され総括されるべき問題であろう。しかし、今日の国独資の条件下では、経済と政治、巨大企業と政府がますます密接にからみあい、資本主義と国家の二つの巨大な力が「一つの機構」 (レーニン) となって支配しているので、経済闘争といえども何ほどかでも大規模な、国民経済的な影響力をもつものは、国家の経済政策のわく組みの中で直接的に規制されるという意味で政治的な性格をもつ。だから、春闘のような広範な労働者階級の闘争の総括を、それが闘われた政治的条件、特に労働者階級の側においてはその政治的自覚と力量の度合を集中的に示す前衛党の政治的組織的指導カの問題を捨象して、単に労働組合運動の内部で、組合幹部の指導力と組合の戦闘
性の問題としてのみ、とらえることは本質的な誤りであろう。この春闘の全期間を通じて、日本の 「前衛党」 がもっている主要な、本質的な誤謬—-議会主義=選挙第一主義と日和見主義的改良主義、民族主義とセクト主義に根深く浸蝕されていること、最も戦闘的な組織労働者の間に真の階級的組織を形成しえていないこと、したがって、一方では政府の強権的な弾圧にたえず恐怖し、他方では中小企業者、その経営的ェリート、小所有者等に体現化される「国民」大衆の偏見への迎合に腐心すること、国有化と民生的管理を中心とする真の意味での反独占的性格の政策を提起せず、それによる広範な政治的統一戦線が形成されないこと等々–は、闘争の勝利をたえず限界づけ妨害する致命的な条件として作用し続けていた。だから、日本の労働者階級は真の級は真の前衛政党の指導と組織的な支持なしに、それ故たえず政府と支配階級を根本的な変革の要求で政治的におびやかすことなく、この側面から譲歩の幅を広げ量を増大させるという力の作用なく、 今春闘を闘い抜いたのである。今日の社会において共産党が現実にもっている決定的に重要な意義と役割を考えるとき、このような異常事態を労働者階級の闘争過程全体を貫く変革主体の側の最も根本的な重要な問題として、たえずそこへ立ち帰って検討し考慮することなしに、春闘の総括もその成果を論じることも不可能である。したがって小論では今日のわが国労働運動のロードス島ともいうべき前衛政党の問題に主要な焦点を絞り今春闘の政治的総括のための一試論を提起することにする。このような本論の性格上、特殊労働組合運動レヴェルでの問題は、その具体的政策の問題も含めていわば副次的に取り上げられるに止まる。

1 大衆的高揚
 七四春闘が大衆の自然発生的高揚と組合運動の組織的前進の点で特に注目すべき特徴をもち、その頂点の四月決戦ゼネストの参加者の規模と範囲は労働運動の新しい高揚を示す戦後最大のものであったことは、周知のことである。参加者は八一単産六五〇万人で、昨年の、これも史上最高といわれた四・一七年金ストの規模(五四単産、三五三万人)をはるかに凌駕し、従来の戦闘力ある組合を中軸として無数のスト初参加組合を加えたその組織的な範囲は、それだけでもまさに 「国民春闘」 の名にふさわしいものであった。同時に、これを構成する各単産の闘争の内容も、新しい前進の実例で満たされていた。公労協の五日間にわたるスト敢行、私鉄のかつてない二日間のスト貫徹、全金(とくに大阪地本) の強力な先行的闘争等、春闘中核組合の強力な力量とその発展が如実に示されていた。電機が金属四単産、「同時決着」という右からの方針を乗り越えてゼネスト以降まで闘争を続行したこと、全繊もまた十三年ぶりのストライキを決行したこと、さらに公務員共闘二〇〇万人が半日、 一日ないしは半日反復と本格的な春闘入りを果たしたこと、これらの事実は、数多くの組合の春闘初参加と並んで、今次春闘の広範で底深い威カを示すものである。
 今春闘の原動カとなったものは、いうまでもなく労働組合下部における終始一貫した広範で力強い大衆的な盛り上 がりであった。すでに当初の要求額の決定段階で上級機関の提案が下部からの強い要求と圧カで次々に増額修正されたことは、このことの最初の最も明白な現われであった。さらに、国労は当初の幹部声明に反じて順法闘争に入り、全繊は労使平和条項破棄を要求し、これまでから労資協調的傾向をきわめて強く示していた電労連はスト規制への闘争宣言を行うまでになった。これらは、下部における闘うエネルギーの蓄積と充満を如実に示すものである。そしてこのような力こそ、決戦ゼネストを最後まで貫徹させ、春闘共闘委員会と私鉄の幹部に第二波を構えることを真剣に考慮させた決定的な原因である。
 このような労働組合の戦闘性の新しい前進は、労働者階級の政治的意識の発展を喚起せずにはおかない。今や、対個別資本だけではなく、独占資本とその政府との経済的政治的対決がますます広範に強く意識されるようになっている。三・一統ーストが史上初めて対政府要求のみにしぼって提起され、大成功裡に打ち抜かれたことは、この意味で特記されるべきであろう。
 今春闘にみられるこのような変化—-高揚と前進—-の客観的な基礎は、いうまでもなく、情勢の急激な転換—-危機の急速な進行—-にあった。インフレーションは、すさまじい勢いで労働者階級と人民に襲いかかり、その生活を窮地に陥いれていた。実質賃金は政府の作為的な統計によってすら六・一%も低下し、絶対的貧困化がだれの目にも明らかなほと急速に進行していた。しかるにその一方で独占の利潤は昨年九月決算で見ても、前年同期と比べての利益増が大法人平均四割増、高いところでは七倍増と、包み隠しようもなくふくらんでおり、両者の矛盾と対立は、極度に深刻なものとなっていた。
 もちろんこのような状態は、特殊に日本のみの問題ではない。資本主義全体が深刻で全般的な新しい危機にまきこまれている現在、各国の労働運動は共産党に指導されて画期的な前進を見せており、日本の労働運動にたいしてすばらしい手本を示していた。仏・伊の根本的な反独占改革へ向けた大きな前進や、英炭鉱労働者の不屈のストライキ闘争、西独労働者の下部からの強力なつきあげによる大ストライキ闘争等々は、まさに学ぶべき多くのことがらを示しているといえよう。
 今春闘に現れた大きな変化は、それがまだいかに不充分なものであろうとも、これらの国際的な労働運動の高揚の不可分の一環をなすものであり、その規模と深さにおいて日本の労働運動発展の新しい段階への飛躍の前兆、その序曲を示すものであったといえるのである。
 日本資本主義をとらえている現在の危機は、まだほんの始まったばかりであると言っても過言ではないほど、今後一層の深刻化が予測されるが、この段階ですでに労働運動はこれだけの活力とエネルギーをもって闘う姿勢を示したのである。危機の本格的展開は、必ずや労働運動の、さらには全人民をまきこんだ反独占闘争の爆発的な高揚をもたらすにちがいない。

2  成果とその限界
 決戦ゼネストを頂点とする今春闘は、その直接の成果として、賃金の上昇率と引上げ額の点においてこれまでにない新しい成果を獲得することができた。しかし、「狂乱物価」を前にして反インフレを主要スローガンとしながらも物価上昇分を賃上げによって完全に取り返すことも実質賃金を大幅に上昇させることもできなかった。支配階級とその政府は昨秋に 「石油危機」を利用した極端な物価騰貴によって先制攻撃を加え、予測される春闘の賃上げ分を前もって取り返していたのである。このような事情の下では、各単産によって相異はあるけれども、春闘の指導者達が当初に設定した獲得の目標は下部からのつき上げで増額訂正されたとはいえ、決定された目標額そのものが全体として相対的に低いものであり、インフレに追いつき追い越せるような「大幅賃上げ」 とはいい難いものであったた。しかし、ここでは、まず、このような限られた限界内で日本の組織労働者が組合活動を通じて現実に闘いとった直接の成果の一つ一つについて評価しておくことにする。
ゼネストの中心部隊たる公労協・私鉄の獲得額(公労協二万七六九一円、私鉄二万八五〇〇円)は、ここ数年春闘相場の上限をなしていた造船重機の妥結額二万七五〇〇円を上廻ったものであった。周知のように、追船重機の回答は、鉄鋼と並んで独占の”春闘低額買い取り”の意図をストレートに表現していた。だからとりわけ鉄鋼が下部組合員のつきあげによってそうした意図の忠実な体現者たりえなくなりつつある今日では、造船重機の妥結額を乗り越えて進みえたことは今後の闘争にとって大きな自信となるものであった。更に、春闘共闘委員会に結集した組合全体の平均妥結額が、日経連の当初の意図—-25~30%に押えこむ—-を越えて、34%に達したことは獲得額の面における、春闘の全体としての大きな前進を示すものである。このような成果は、闘わぬビッグユニオンの下部に大きな影響を与え、幹部をも含めて一定の動揺を生みだしている。こうしたことの結果、これまでビッグユニオンの幹部に依拠して労働戦線統一のヘゲモニーを握ってきた全民懇は、その路線の破綻が避けられないものとなっている。
 いわゆる「国民的要求」 の面でも、今春闘は政府の当初予算を、額としてわずか (総額一三〇億円) ではあるけれども、また共産党、社会党の適切な指導がなかったにもかかわらず、実カで増額変更させることができた。この闘いは、労働者階級の政治的自覚の高まりをはっきり示しており、彼らを急速に全人民的闘争の代表者としでその先頭におしあげた。前段の三・ーストを中心としたとの闘いは、同時に、労働者階級自身に大きな自信を与え、後段の自分百身の要求のための闘いへ力強く奮いたたせていったのである。今や、学生でもなく、住民一般でもなく、労働者階級こそが、反政府、反独占統一闘争の盟主であることが、事実をもって明白となった。労働者階級が現代社会において占める位置とその歴史的任務からいえば、これは当然のことである。しかし、本来ならば労働者階級の前衛であるべきはずのわが国の共産党がこのことの意義を軽視するだけではなく、事実上否定している現状のもとでは、とくにこの点を強調する必要があるといわなければならない。
 労働者の団結の拡大と強化を、闘争の真の結果としで評価する観点からとらえる時、今春闘の最大のそして最も本質的な成果、前進のーつは、この闘争を最も真剣に最も戦闘的に闘い抜いた労働組合組織の組織カの拡大、その組織的権威と信頼の確立、強化である。例えば国労の場合、第二組合からの復帰者と加入者は、三・ースト、三・二六、四・ー三と闘争の前進に照応して数の上でもテンポを速めて増大し三ケ月合計で四四O〇名を数え、これに昨年の大会(六月)以後の復帰者五六O〇名を加えれば、組織拡大は実に一万名を越えるものであった。全逓では、春闘の四ケ月で三ニ〇〇名、昨年大会(六月)以後十ニ月までの七ケ月で2000名、あわせて5000名の復帰、加入者を獲得 して、かつてない組織拡大を実現した。同様の組合員の大量復帰の傾向は、全林野についてもあらわれている(数字の詳細についでは『学習のひろば』七四年七月号五四頁以下参照)。民間部門に関しても、闘争の前進と上部の指導性の発揮がただちに労働組合の組織拡大(例えば、全金の場合は実に六千名にのぽる)、新しい組合結成の気運となって結実していく傾向は今春闘の顕著な特徴であった。単に各単産の組合員数の増加だけではなく、今春闘を通じて多数の民間組合が闘うナショナル・センターとしての総評へ新しく結集していった(春闘共闘委員会、七四春闘中間総括、『総評時報』四六六号、五頁参照)。 それは、賃上げへの譲歩と同時に、いなそれを見越してすでに昨秋から行われだ、支配階級とその政府による「狂乱的な」物価騰貴によっても、決して奪い返されることのないものであり、労働者階級の今後の闘争の基本的な武器となるものである。わが国の労働者階級は、このような新しい組識的力量とかつてない戦闘性、組織性の下からの高揚のもとに、参院選、夏の一時金闘争、秋の第二春闘を迎えることになるのである。
 しかし労働者階級の団結の拡大ーーその 「意識と組織」の前進を労働組合組織のレヴェルにおいてのみとらえることが誤りであることはいうまでもない。労働者階級の歴史的使命を認めるものは、労働者階級の政党、前衛政党への組織化の前進にこそ労働運動の根本的な真の前進を求ねばならない。この最も重要な、最も根本的な点では、今春闘は、労働組合運動の前進とそれを指導すぺき労働者階級政党の指導力、組織力との隔絶、対立、矛盾を白日のもとにおき、ますます深刻な問題として提起した。春闘の期間中、日本共産党の方針は、労働組合の行う闘争を可能な限り激しくないものに押え、「節度」をもたせ、「ゼネスト」という言葉の回避を含あて階級闘争の印象をできる限りものやわらかいものとすることにおかれた。春闘ではなく来るべき参院選こそが全問題への解決をもたらすべき主戦場であり、そこにおけるヴォーターとしての 「国民」大衆の投票態度こそ共産党にとって死命を決するものと考えられたからである。春闘の期間、この党の主要な批判の目標は、権力的弾圧を受けている日教組と「順法闘争」を展開する動労であった。これらの問題については、春闘の残した課題として後に検討することとし、ここでは次のことを確認することに止める。「何をなずlべきか」 の観点からとらえるならば、今春闘の成果の基本的性格は、下からの自然発生的高揚が闘いとったものだということ、このような成果はインブレの問題一つを取ってみても何ら根本的な解決を与えるものではないのは勿論、それの直接の経済的獲得物については支配階級とその政府によって全く瞬時のうちに取り返される一時的譲歩にすぎず、ただ次の闘争の出発点、そのための組織的基盤、 「意識性の萌芽」としてのみ真の意義をもちうるということである。後者の意味において、春闘の成果は労働者階級の真の前衛党の確立という任務をあらためて、もはや一刻め猶予も許されないほど切迫した問題として、日本の労働運動の自覚ある部分に提起したのである。と同時に、それは真の前衛党への一般的な期待に基く今日の共産党の誤謬への鋭く仮借ない大衆的批判という形で真の前衛党組織のための大衆的関心を準備したのである。今春闘の時期ほど共産党の問題が、広範な大衆の間で鋭い問題意識をもつて真剣な態度でかつ公然と論じられたことはこの十年来かってなかったことである。

3  権力の介入
 春闘のこのような高揚は、国家権力の直接的な介入をもたらした。政府は 「官公労ストの違法性」「政治ストの違法性」を主張して、閣議決定をテコとしてのむきだしの恫喝をくわえた。政府はまたゼネスト切り崩しを狙って、その「反国民性」を訴え、公労協等の中心組合への集中攻撃にさえ訴えた。政府のこのような政治面での介入は、経営者団体やマスコミが 「コストプッシュインフレ論」 「スト迷惑論」「組織労働者のェゴ論」等々を大々的に宣伝し、政府を叱陀激励する中で、これと一体となって進められたのである。
 だが最も重要なのは、単にイデオロギーを前に出した攻撃だけではなく、警察による直接的な強権的な介入であっだ。警察は、ここ数年みられなかったほど異常で積極的な強圧的な介入を行った。警視庁は決戦ゼネストの最中に日教組への強制捜索を決行し、その後に数名の幹部と委員長を逮捕した。機動隊は各地で全逓、自治労等々にたいしてピケ破りを行った。また裁判所も、動労鳥栖、国労尼崎等の反動的判決を打ちだし、労働者の闘争への敵対を一層強めていった。
 国家権カのこのような、あまりにも露骨な直接の介入は、労働運動高揚の自然発生的性格と現労働組合幹部の指導力の限界、何よりも共産党の議会主義的日和見主義に基く組織的弱体と内部からのセクト的分裂活動(「全動労」結成、日教組批判)を充分に考慮にいれた上のことであった。と同時に、それは独占の危機意識の現れでもあった。 この意味で介入は支配の強さの現われではなく、むしろその弱さの現われであった。彼らは危機の深化と労働運動の新たな高揚への徴候を本能的に感じとったのである。
 さらに国家権力のこのような介入は、国家権力の階級的性格を否応なく誰の目にも明らかにするものであった。国家は経済闘争のどのような現れに対しても、それが幾分かでも本格的に闘われる徴候をみせるや、たちまちのうちに介入してくる。特に今日の国家独占資本主義の下においては、個々の資本、企業の賃金決定であっても、そのような個別性をこえて、総資本、国家としての経済政策の重要な一要素としてこれに規定される側面を持っている。このことは公労協、公務員共闘への回答がーつの共通の基準として巨大な影響力をもっていること、私鉄についてはそれが政府に運賃値上げや事業拡張の許認可権を握られているだけでなく、巨額の事業補助金を交付されていること、国家と深く癒着している独占資本の代表的産業たる鉄鋼や造船重機の回答が大きな波及効果をもっていること等々、数多くの事例の中に現われている。したがって現在では、労働組合運動もまた個々の資本とそのグループとの闘争だけではなく、総資本としての国家の経済政策との対決なしには、多少とも本格的な譲歩は引きだしえない。今春闘に現れた労働組合幹部や下部からの政党への期待と支援の要請あるいはそれと裏腹な不満の表明は、一つにはこのことに根拠をもっていたのである。
 決戦ゼネストの最後のツメの局面での労資間交渉の経緯も、それを真剣に見守った者にたいして、要求の今一段の獲得が簡単なものでないことを示すものであった。春闘共闘委員会の指導部が、私鉄や日教組の第二波ゼネスト突入要請にもかかわらず、「支配体制の壁」 の予想外の厚きと、「泥沼」化して「収拾の見通しも立たない」ということを理由に収拾策をとったことは、もちろん「権力分析の甘さ」として批判されてしかるべきことであろう。しかし同時にわれわれがそれを乗り越えて進むためには、より根本的な闘輝の解決を迫られているということを真剣に考慮しなければならない。「上尾事件」の記憶を蘇らせながらそれに訴えてブルジョア・ジャーナリズムが「ゼネストの反国民性」を大々的に宣伝し、同様の事件を待って政府と国家権力が露骨な介入のチャンスをうかがっていることが示唆されている状況では、政府・独占とのより本格的で断乎たる対決のためには、単に組合次元だけで解決しうる問題の域を越えた問題として、とくに労働者階級の前衛政党の政治的指導の不可欠なことを、大部分の真剣で主体的な闘争参加者が痛感させられたのである。

4 残された問題
 七四春闘はこのように重大な問題を内包し、したがって闘争に参加した多数の労働者大衆に闘い抜き得たという大きな自信と同時に、不充分な成果しかあげえなかったという大きな不満を残したまま収東した。すでに述べたような成果をあげえたにもかかわらず、要求額あるいは実質賃金の向上をかちとるような額にも遠く、労働分配立の向上を展望しうるような学にはまだ程遠いものであった。さらに、収拾段階で最終的に目標とされていた額三万円すら達することができなかった。そしてそのような不充分さは、その後の急激な物価上昇によって日を経るにしたがって大衆的に切実な実感となっていかざるをえない。
スト権問題において、政府自らが関係閣僚協議会の殺置と期限を明示せざるをえないところまで追いつめたが、この内容での決着は、当初の労働陣営の”74決着”あるいはその後の処分の軽減等に焦点をあてた方針からも、大きく後退するものであった。しかも日教組の強制捜索まで行われたにもかかわらず、そのような後退があったのである。国民的諸要求も一定の、過去にはなかった成果がかちとられたものの、内容の点ではどれをとりあげても本格的な成果とはいいがたいものであった。
 七四春闘の以上のような経過と結果は、運動の強さ—-労働者階級の大衆的高揚—-と同時にその弱さをも明るみに出した。
 弱さの第一は、春闘共闘委員会に結集する各単産が賃金闘争を最後まで闘い抜く上でも根本的な欠陥と限界をもつ企業別組合の集合体であるということ、 つまり闘争の困難さは、組織が企業別でありながら国民的要求を闘うということのなかにあった。産別でないから闘えないという主張は逆の日和見主義ではあるが、しかし”国民春闘”という重大な全人民的規模の要求を提起する以上、少くとも組織を産業別に再編成する志向性と具体的展望をもたなければならない。しかもこの産業別組合の必要性とそれへの発展の方向は今七四春闘にもすでに具体的に現われており、その最も象徴的な現われは決戦時に発揮された交通ゼネストの力であったといってよい。国労・動労・私鉄・都市交を中心とする交通労組の統一した力の発現なしには、今春闘がこれ程の盛り上りを見せなかったであろうことを断言できる。この統一の力は、まさに産業別闘争の力強さを物語るものであった。同時にまた闘争の中心的存在であった公労協の場合には、組織が事実上の産別組合の注格をもっていることにその力の源泉があったとみてよい。加えて公労協のこの強さは、資本制社会のワク内における最も進んだ企業組織の形態としての国営部門が、労働者階級にいかに有利な条件となっているかということの証明でもあった。国営部門の拡大とそこにおける労働運動の発展が社会主義への移行にさいして非常に重要な役割を果すことはいうまでもないが、ヴァルガの指摘をまつまでもなく、資本主義における国有部門の労働運動は、利潤追求に基く個別資本の圧力を直接うけず、全国民的な政治的力関係のもとで展開されるという点で、全く有利である。
 七四春闘に現れた注目すべきもうーつの実例は、日本における公営部門を除いた唯一の産業別組合ー海員のあげた成果である。彼らは、春闘共闘委員会が、”三万円以上”というような要求を提起していた時、平均で六万円以上にものぽる要求を提起し、ストライキを行うまでもなく、内航三万ハ九四四円(四四・九%)、外航三万九〇三九円(四一・五%) の賃上げをかちとることができた。しかもこのような額を産業別最賃の形で勝ちとることによって、職務給体系による企業内支配を大きく後退させることができたのである。この組合がゼネストにたいする協力の姿勢を欠いているということが春闘全体の高揚にとって問題を残しているとはいえ、その成果は産別組織のもつ強さを示すものとしては大きな意義をもっている。経営者団体が一昨年の九〇日ストにこりて、春闘対策のーつに 「海員ストをやらせない」と言明していたのも、まさに右の事実にてらして根拠のあることであった。また産別への移行をめざしつつ闘ったいくつかの組合が、大きな成果をあげたことも今春闘の特徴のーつであっーた。電機が二万八〇〇〇円の歯止めをかけたニ波の産業別統ーストを打ち抜き、全繊も中労委にもちこんで統一無期限ストの直前に二万九〇八二円(三二%)を獲得したのである。とりわけ闘争の内容によって産業別的なとりくみを意識的に推進した全金(大阪地本)は、輝やかしい成果をあげることができた。彼らは強カな統一要求・統一交渉・統一闘争によづて、ゼネストまでに三万円以上、最終三万二五一九円をたたきだし、”西高東低” の重要な基礎を構築した。この意識的なとりくみを、現場の闘争の実質的な指導者である地本オルグの多くが、積極的に果たしたことも、注目すべき重要な事実である。なぜなら,企業別組合から産業別組合への移行は、労働者階級のねばり強い自覚的闘いを要する問題であり、このような闘争の意識的で一貫した指導部分とその意識的で積極的な取りくみなしには、ほとんど不可能だと思われるからである。特に今日の日本では、企業ごとに賃金水準・体系、労働条件がパラバラであり、それが更に経済の二重構造という一層大きな亀裂の中におかれている。しかも日本の資本が企業別組合のこの 「すばらしさ」を大いに自覚しているばかりか、 一方では現在の組合幹部たちの多くもその客観的基盤のゆえに産別への移行に消極的であり、更に日本共産党指導部は中小企業への配慮から産別移行には真剣に取りくもうとしていないのである。しかし労働運動の高揚にのっとって意識的で一貫したこの運動の担い手が力強い活動をはじめる時、今述べたような産別闘争の前進と賃金・労働条件の平準化傾向、それに資本の集中化傾向までが、この活動のテコとなり、武器となっていくであろう。二重構造の解消もまたこのような闘争の上にこそ展望されるのである。そして当面、このような方向での取り組みを、産業別組合への移行の客観的条件が最も整備されている民間基幹産業の労働組合に集中して押しすすめることが要求されている。
 今春闘が残した問題の第二は、 ”国民春闘路線” のあり方である。この路線は、今日全労働者が就業人口中68%をも占めており、その意味で労働者の要求そのものが全人民の圧倒的多数の要求ともなっていることの客観的な反映でもあった。それはまた、すでに述べたように、全人民的課題を自らの課題として担い、そのイニシアティブをとる以外に自らの勝利の条件はないという労働者階級の自覚の高まりを反映するものでもあった。しかし同時に、見過せないことは、「国民春闘」 の名によって支配階級とそのオピニオンリーダー達による 「組織労働者のエゴ」等のイデオロギー的攻撃にたいして正面から対決し反撃することを避け、ことさらに組織労働者とは異った部分の要求に強調点を置いて弁解に努める弱々しい対応があったことである。大木事務局長の「順法はやらせません」という発言や、あるいは春闘共闘委員会の方針書の中で、スト権問題が”七四決着”といわれていた線から大きく後退していったのも、その具体的な現れということができるだろう。この傾向は、 一方では労組の最高幹部を国会に送りだすためには中間諸層や意識の遅れた部分の偏見に妥協し迎合することが必要だと考える全く誤った日和見主義的議会主義的発想とも結びついていた。「国民春闘」 の名によって抽象的な「国民」一般の支持をあてにするような日和見主義的傾向は同時に他方では、そのような要求を政党の指導と協力抜きに労働組合のみで闘いとれるかのような幻想に基く請負い主義的傾向となって現われた。
 われわれはこのような傾向を克服し、組織労働者自身の要求の正当性と、それが全人民に及ぽす意味を強調し、その発展の上に全人民的要求を打ち田していかなければならない。この意味で力点をおくべき点は、”弱者救済”という名目で労働者階級それ自身の経済的向上の努力を弱めることではなく、組織労働者と未組織労働者の結合の方針であり、その環となる最賃制の要求を具体的で科学的な根拠に基く政策として提示することであった。そしてまたこのような最賃制の実現のための闘争を抜きにしては、”弱者救済”ーー社会保障の抜本的向上ー もありえない。なぜなら、階級社会では、被支配者階級に属する働けない人間が働ける人間以上に得られるそいうことはありえないからである。ところで、現在この最賃制要求が現実的なカとなりえていない原因としては、現労働運動指導部の取りくみの弱さと同時に、”全国全産業一律最賃制”を中心とする政策の抽象的な性格とこの要求を社会保障的考え方に基ける理解の一面性と限界がある。組織労働者自身が関心を集中させ、主体的にとりくみうるためにはそれにふさわしい形の要求ー物価スライド制の基礎となりうるような高額の産業別最賃制ー を主要なものとして提起していかなければならない。そしてこのことは、このような産業別最賃を基礎とした賃率に基く産業別の横断的な賃金体系の確立の方向にも一定の道を開くであろう。
 ”国民春闘路線” に含まれるもうーつの重要な問題は、労働組合の闘争が政治的に正しく指導される時には、覗在の独占の政府の下でも一定の部分的譲歩として獲得できるような当面の要求、課題 (例えば賃金、年金、ス小権等)と独占の政府を打倒して反独占の政府でとりかえなければ実現されえないような課題 (例えばインフレ阻止) が、明確な意識的な区別に基いて原則的に正しく提起されていなかったことである。勿論、両者の区別は相対的なものであり、その間に越えてはならない万里の長城ばない。だが、たとえばインフレを一掃することは現在の国独資の支配体制をそのままに放置しては実現できない。しかし一連の公共料金の値上げを強力なストライキ闘争でストップさせることはできる。また、全国全産業一律最賃制の法制化と実現はおそらく反独占政府の樹立を必要としよう。しかし産業別協約に基く最賃制の実現、それを基準とする賃金の物価スライド制の実現は、現在の政府の下でも即刻の実現を要求して闘わねばならぬ緊切な課題である。年金の賃金へのスライドやその幅の決定も後者の課題となる。勿論、後者のための闘争は、どの重要な課題においてでも首尾一貫して闘われる時、独占の政府の打倒と反独占政府の樹立とのための闘争に成長転化する必然性をもっている。だから後者のための闘争過大は労働組合が自己抑制したり越えてはならない垣根として提起されてはならないこととはいうまでもない。しかし、より重要なことは、原則的な問題の提起においては、改良は「革命的階級闘争の副産物」(レーニン)だということである。危機の打開策として、独占体の系統的な国有化と民主的な統制を伴う抜本的な反独占的変革およびそれを政治的に保障する反独占人民政府の樹立をつねに要求することなしに、当面の限られた部分的な要求のみをかかげて闘争することは、独占ブルジョアジーとその政府の支配の持続性を保障した上で、その若干の手なおしと手かげんを懇願することにしかならない。そのような闘争によっては、労働者階級の前進にとって何ほどかでも意味のあるような改良をかちとることさえできない。打倒されたくなければ譲歩しろ、でなければかわってわれわれが支配する。論理はこのように提起されている。支配階級の「延命策」はさし迫る死の恐怖のもとでのみ採用されるのである。今日では、勿論社会主義体制の脅威がかかるものとしてつねに支配階級の上にのしかかっている。だがそれが具体的に如何なる譲歩となってあらわれるかは一国の階級闘争が決定することは、いうまでもあるまい。勿論反独占人民政府の樹立にいたる中間段階には、階級的なカ関係と支配階級内部の利害対立に照応して様々な色合と様々な性格の、いずれの側面に力点を置いて評価すればよいか識別困難な「よりまし政府」が現われて来るだろう。しかし、政治的力関係と経済的諸条件のさまざまな組み合わせの下で、各局面毎に一定のリアリティをもって前面に浮かんでは消える。このような政府の一つ一つを自らの目標としてその場その場で 「主観的力量」 に応じて追求することに終始することは、現代資本主義のアカーキー・アカーキェヴィッチの外套のつぎあてに労働者階級とその組織を没頭させることであろう。現代における国民的指導者階級としての労働者階級にとって決定的に重要なことは、賃金労働者としての自らの地位の部分的な改善や当面の改良の要求だけでなく、今日の国民的な問題の基本的な解決の方向、今日の新しい危機からの脱出を可能とする根本的な反独占民主主義的変革、独占体とその権力の打倒の方向をつねに提示することによって、現実に国民の代表者指導者とならねばならないということである。
 総評と春闘共闘委による「国民春闘路線」の提起は、このことの萌芽的な、原初的な現われとして、意識的に発展させられなければならない。しかしそれは客観的に労働組合の任務のワクを越えたレヴェルの問題である。プロレタリアートの基本的な目標も自らの綱領も、少くとも当面は掲げることなしに、部分的な改良のつみ重ねで 「なし崩し的に」ずるずるべったりで将来の社会主義へ接近するという考えは、いわゆる「構造改良論」の右翼的日和見主義的解釈に基くベルンシュタイン主義の擁護、その新しい変種に他ならない。このような思想の誤謬は、党を労働組合幹部へのイニシャチブグループに解消しようとした一九六〇年代を通じての解党主義者達の政治的没落と理論的破産、マルクス主義からの逃亡によってすでに歴史的に証明されたところである。しかし、わが国の労働運動にとって、今日の最大の危険は、抜本的な反独占改革でなく部分的なあれこれの改良、手直し、「規制」しか要求しないという根本的な点において、共産党指導部がかつての解党主義者の日和見主義と本質的に同様の誤謬に陥っているということにある。異るところは、かつての解党主義者が労働組合主義に力点を置いて経済主義を主張したのに対して、今日の共産党指導部は選挙第一主義を強調して議会主義を前面に押し出していることにある。また、かつての解党主義者がイニシャチブ・グループによって既存の組合幹部に取り入ろうとしていたのにたいして、今日の党指導部は議員活動に重点を置いて、一方では小所有者と小企業者中企業者の「営業」 の利益の代表者となることに主たる関心を寄せ、他方では労資の階級的対立が直接的に鋭くあらわれにくい部分(教員や公務員労働者)や、集中的にはあらわれない部分(点在の小組合の集合) に依拠して既存の組合組織の指導的中心を下から切り崩そうとし、また戦闘的な大組織(動労、全逓等)を直接的に分裂させようとしている。 一方での労働組合主義と他方での議会主義は、同一の日和見主義的改良主義の二つのあらわれ、異った形態に他ならない。しかし、かつては一部解党主義者の脱マルクス主義的転落の途であった誤謬は、今日では「満場一致の党決定」と官僚主義的締めつけをもって、党の全組織をあげた転落として拡大再生産されようとしている。ここに日本の労働運動の今日の致命的欠陥がある。この問題については、あとでとくに取りだして論じなければならない。
 第三の問題は、広い意味での労働者政党—-労働者階級の大衆の上に組織的支柱を求める政党の問題である。春闘の国民的な要求、それを支えた労働者大衆の自覚の高まり、そして資本に対する対決の政治的性格は、かつてなく労働者政党の政治的指導の任務と役割を重大なものとした。しかし、実際に示された労働者政党の指導力は、それにたいする客観的要請とはあまりにもかけ離れたものであった。労組の責任ある幹部、大単産の委員長、書記長たちの春闘直後の総括意見は、政党が何もしてくれなかったこと、「反インフレ」といった国民的性格の要求は労組だけではにないきれない政治的課題であること、政党を先頭とする全国民的な政治闘争の組織が必要であること等、労働者政党への期待と裏腹な強い不満で、誰もが共通していた。(例えば『社会新報』五月十二日)そこまで自然発生性が高まったのであり、そこまで意識性がたちおくれているのである。
 「反インフレ」というスローガンは、社会党によっても共産党によっても全く安易にとらえられ、単なる「高成長」—-それが田中内閣によってとくに急激に狂乱的な形で展開され、異常な物価暴騰をもたらしたことは事実であるが—-との対決と同義のものとして、全く一面的に理解されていたことは否定できない。社会党の主な主張は、「総需要引締」政策によるデフレ転換との闘争が緊急焦眉の問題として客観的に提起されている時に、依然としてこれまでからの 「高度成長」との闘争を主要な課題として前面におし出していた。そこには、物価高騰が戦後の国独資の条件の下では「高成長」と好況の局面でも「引締」 による不況下でも一貫して進行するということ、このような条件の下ではヨーロッパの労働運動がそうしているように政府にたいして独占の利益に対する「引締」と同時に人民の利益になるような 「成長」 の政策を一貫して要求してゆかねばならないこと、そのためにはこの局面での後者の具体的な政策と展望が根本的な反独占的変革の路線の上に提起されねばならないこと、等々の、今日の国独資の体制の下で労働運動がおかれている客観的諸条件に基く闘争の基本線の全くといえるほどの無理解が集中的に現われている。このような政策上の誤謬は、この党の一部で追求されている社公民による反独占的政府樹立の安易な展望とは異った意味で、春闘でのたたかう労働者階級の真の力の発揮を大きく制約するものであった。後者についていえば、ヨーロッパにみられるような右から左までさまざまな性格とニュアンスをもつ「中道政府」 のような政府が今の政府に比して「よりまし」 であるかどうかということではなく、そのような政府の樹立でインフレーションをストップさせることを含めて果たして今日の国民的課題を解決できるか否か、そのような政府の樹立を労働運動の目標として提起しうるか否かということに、今日の問題があるということである。

5  共産党の根本的な誤り
 しかし、当初に指摘したような意味で、今春闘にかんする政策上指導上の限界と欠陥について、その本来の任務化てらして最も重い責任を問われなければならないのは、共産党の方針と活動の根本的な誤りである。—-それは今春闘に限られた問題ではなく、労働者階級の行う重要な闘争では、主体の側の限界としてたえず形を変えてあらわれてくる。労働運動の発展にとって決定的に重要なこの問題を労働者政党や労組の一般的な限界や誤りと同列にあつかったり、またこの問題を回避して労働組合運動論一般のワク組のうちに解消したりすることは、前衛党の本来の階級的政治的任務そのものを本質的に理解することも認めることもしない解党主義と同様の誤りに陥ることになろう。
 今春闘を通じて、 ”共産党は闘わない”ということが、戦闘的な組合の指導者と組合員大衆の卒直な意見、現場での実践に基づく批判であった。それは、単に党指導部の方針、政策だけではなく、下部の労働者党員と党組織が本気で闘う気がないという事実への強い不満である。四・一七ゼネストの裏切りが、あいまいな形ではあるが公式に「自己批判」された後も、共産党の労働者軽視と激しい闘争の回避は、日常不断に、特に困難な厳しい闘争に際しては集中的に、組合活動の実践を通じて一貫した傾向として現われている。今日では、このような傾向が意外なことではなく常識的なこととして、日本の 「前衛政党」 そのものの抜き難い体質として組合員の間では受けとられている。このことにこの問題の本質的な深刻さとこの上ない危険性がある。
 共産党指導部は、春闘にたいする一般方針を党中央の公式決定として提起することさえせず、「赤旗」 の一無署名論文(「七四春闘前進のために」一・一七)によって、権威も責任の所在もあいまいな形で提起した。これは、参院選のためにはニ月と五月、二回の中央委員会総会が開かれているのと全く対照的な取り扱いである。春闘の直箭の第二回中央委総会(二月) は、参院選対策を中心にすえ、春闘の方針は独立した特別の議題にのせられることも特別決議に採択されることも、されなかった。そこでは、春闘の問題は幹部会報告の単なる一小部分として、独立した章でも節でもなく、一項目として扱われたに止まる。(全文で九万五千字を越える決議、決定のうち・わずか千六百字を占めるに過ぎない!)一方では同じ重さと分量をもつ別の項目が、春闘の中心部隊であり、組織力と戦闘性に・おいて最精鋭部隊である動労にたいする批判と攻撃にあでちれている。このような会議と議事の形式面のうちにも、共産党指導部が組織労働者の闘争をどの程度にまで軽視しているか、労働運動へのわずかに限られた関心と精力の主要なものを何に向けているかが、疑問の余地なく明瞭にあらわれている。
 春闘の真最中にそれに対置して決定的に重要なのは参院選のみだと強調することは闘争を「選挙に流しこむ」ものとして組合員大衆の間で強い批判を受けた。共産党のこの選挙第一主義、選挙至上主義は、二中総の決議、決定全体のきわだった特徴、一貫した基調となっている。二中総決議の主題は 「参院選での躍進」 であり、この時期の階級闘争と全大衆闘争の指導にかんする党の主要スローガンは 「選挙戦を前面にすえた総合活動」 であった。それは事実上春闘をはじめ一切の大衆闘争を、選挙のための集票活動を中心にすえてその一部分として、それに従属させて行うことを要求するものである。ニ中総決定や、先の無署名論文には労働者と労働組合の 「もっとも重要な役割」や、それが「徹底的にたたかいぬくとと」 や、自民党政府と「正面から対決すること」や、それと他階層との 「連帯」 について言葉としては語られている。しかし、問題はこれらのすべてをマルクス主義の原則にしたがって提起するのか、それとも議会主義と選挙第一主義にしたがって提起するのか、というところにある。労働者階級の経済闘争は、これを最後まで徹底的に発展させ、単に資本とその諸グループとの闘争に止らない、政府及び政治権力と「正面対決する」一大政治闘争にまで指導し発展させるとともできる。あるいは、これを選挙のための反自民的ムード作りに利用し、また 「徹底的にたたかいぬ」 いても結局は意義がないという結論をひき出して、選挙での投票にすべてをゆだね、議会主義のワク内で 「正面対決」する目的で指導することもできる。 「連帯」はゼネストの労働者階級に国民他階層が連帯し支援する形でも提起できる。あるいは、春闘中の労働者が中小企業者の 「経営」 のために 「節度を守る」 こと、また教育労働者の闘争が「保安要員」を置いて父母の偏見に妥協すること、という形でも提起することができる。しかしマルクス主義者が忘れてならないのは、後者の議会主義と選挙第一主義に基く日和見主義的方向においては、労働者の 「重要性」も「闘争」も「対決」も「連帯」も、全ては空文句になり、結局は階級協調主義に転落するということである。
 共産党指導部は右翼日和見主義と反共主義については共産党を「暴力革命と独裁主義」とみる誤解に基づくデマゴギーと解して 「けっして軽視できない問題」(無署名論文)とし、そこには第二義的な副次的な危険性しかみようとしていない。これにたいして主要な批判と攻撃は、動力車労組にに向けられ、その指導部を事実上「国家権力の中枢にむすびつく」「挑発策動に狂奔している集団」 に 「私物化された」ものとして、本質的に階級敵の組織として規定している。だから、春闘の中心部隊、わが国の労働者階級の最精鋭部隊のーつである動労との闘争がファシズムとの闘争と同様の「民主主義擁護の試金石として」提起されている。この、眼を疑いたくなる規定は、共産党が議会主義と右翼日和見主義によってどれほどまで深く侵蝕されているかを示すーつの証左である。また選挙至上論に立つ時、どこまで原則的にはめをはずしてふるまえるか、その危険性のもつ深刻さの度合を示す「試金石」である。
 しかし、このような議会主義、選挙第一主義にたつ共産党の政治コースにたいして、かつて一九六〇年代を通じて解党主義者がそうしたように、労働組合主義、経済闘争第一主義を対置してことたれりとするものは、経済主義の誤りに陥るものである。それはうまく成功した場合でも、結局は支配階級のあれこれの階級分派の対立と政治的抗争の「予備カ」として労働者階級の経済闘争を組織することにしかならないだろう。共産党の無原則的な議会主義的政治にたいしては、原則的な「マルクス主義的政治」 (レーニン)が対置されなければならない。労働者階級の経済闘争は、政治闘争に発展させなければならないというだけではない。 それは、つねに窮極的目的に導かれて首尾一貫した形での政治闘争に、支配階級とその国家権力に対する闘争にまで発展させる方向で指導せられなければならない。それは今日の条件下では、抜本的な反独占的諸改革を可能とする反独占人民政府の樹立とそれを通じての社会主義への移行を切り開く途である。
 共産党指導部は選挙での勝利と議会内多数派の形成による「民主連合政府」 の樹立をその政治的目的として提起している。それはうまく「選挙に流しこむ」ことが成功した場合の、「七四春闘の基本的勝利の展望」(無署名論文)でもあるらしい。この政府については、専ら議会主義に基いて、単に選挙における投票の獲得の結果である議会の議席数(それは院内の政治的力関係とさえ異る) の問題としてだけ提起され、議会と国家権力諸機関との関係、金融寡頭制支配の物質的諸力との関係から切り離して、全く抽象的に語られている。それは、国家権カ、その暴力的諸機構の問題を原則的に提起していないだけではなく、選挙における勝利が真に労働者階級と人民の政治的組織力の勝利でありうるための諸条件—-下からの政治的統一戦線の組織、労働者階級の統一、労働組合運動の統一、労働者階級と国民諸層との反独占的政治闘争における連帯等々—-についでは何一つとして語られていない。しかしそれは単に議会主義の誤謬にのみとどまるものではない。それはこの政府の下で実現される変革の社会経済的内容においても、独占資本と金融寡頭制の支配にたいしては指一本ふれないという意味において、全くの右翼改良主義をその本質としている。それは、「自民党政府のJ経済政策」や独占資本の「反社会的行動」 について批判することによって、一見反独占的な立場と政策をとるかにみえる。しかし、かかる「政策」や独占資本の 「行為」 の根本的な源泉であるところの独占資本主義の経済構造そのもの、かかる「政策」 や 「行為」がそこから必然的、不可避的に生み出されざるを得ないところの経済的土台については、それは何ら本質的で総体的な批判を行おうとはしない。だから「民主連合政府」 の下で、独占資本主義の経済構造は何ら変革されることなく独占資本は自由な運動と発展をとげ、したがって階級的な搾取活動、抑圧活動を自由に展開する!!(共産党指導部はこのことをジャーナリズムを通じて支配階級と一般世論に誤解なく周知徹底させることにイデオロギー闘争の重点を置いてさえいるかにみえる。)「民主連合政府」 の下で行われるところの社会経済的変革の内容は、帰するところ独占資本主義と金融寡頭制の支配を根本的に承認した上での、あれこれの政策の手なおしと、独占資本の個々の 「行為」の 「規制」「統制」、それを専ら上からの議会主義と官僚主義を本質とする「規制」「統制」以外の何ものでもない。—-勿論そのようなものでもある方がないよりましかという問題は、個々の政治的局面で、革命的な階級闘争の見地に立っても提起されうる。しかしそれを変革の基本的・本質的目標として進むか否かという問題は改良主義とマルクス主義を区別する原則的な分岐点である。マルクス主義者は、 自分の政策において 「部分的弥縫」 ではなく、それに対して 「現実的変革の根本条件」(レーニン)を対置しなければならないのである。
 銀行・金融機関の国有化、重要産業独占体の国有化及びそれらの民主的統制は、今日、社会主義への道を切り開く反独占民主主義闘争を最後まで闘い抜く国際プロレタリアートの共通の政綱として既に確立されたものである。一方でこのような反独占的な根本的改革を何ら行わず、他方で小所有者と中小企業者の「営業」「経営」を守ることを政策の主要な課題として追求する時、それは、現在の独占資本主義の経済構造を根本的に承認した上で、したがって金融寡頭制支配による小所有者と中小企業者の体制内的な組織化の現状をそのままの形で無批判的に承認した上で、その限られたワク組の内部で後者の反独占的な志向と利害を防衛するという改良主義的政治指導に終始することにしかならない。このような政策は、無論中小企業者や小所有者の反独占的民主も義の要求を一定限度反映するものではあるが、労働巻階級の要求するところの社会主義・反独占民主主義の政綱とは根本的に異ったものである。それは本質的に労働者階級の利害を前二者の利害に従属させ、小ブルジョア的ブルジョア的改良主義を階級的本質とする。と同時に、今日の諸条件の下では、歴史的国民的な指導階級としてのプロレタリアートに指導される時にのみ他の国民諸階層は根本的な反独占的変革を闘いとることができるのである限り、このような改良主義は小所有者や中小企業者の「経営」や「営業」にたいしでも何ほどかでも意味のある改良をもたらしうるものではない。このことは、 かかる改良主義が支配するならば、恐臓と危機の深刻化のもとでの独占ブルジョアジーの政策活動とその結果が手痛い事実をもって証明することになるだろう。共産党の政策で独占体の国有化が提起されている唯一の部門であるエネルギー産業に関しても、今日の 「石油危機」との連関でまた対米資本関係で最も中心的なカナメとなる石油産業については、国有化の問題を可能な限り遠い将来へ押しやる方向で動揺を重ねている(たとえば「生活をまもる緊急政策」を見よ)。
 マルクス主義のこのような修正は、何も新奇なものではない。独占資本の 「政策」や「行為」を独占資本主義の土台から切り離して論じ、経済構造とそれが規定する「政策」「行為」を唯物論の見地から必然的連関においてとらえない誤謬は、帝国主義をただ「政策」としてのみ理解し批判したかつてのカウッキー主義の」変種にほかならない。
それは、一九五〇年代末の七回大会と八回大会の当時からの共産党の綱領的方針に一貫した特徴である。帝国主義の「政策」とその土台である独占資本主義を、政治と経済を、切り離して論じることによって、『帝国主義論』と史的唯物論を修正することは、七回大会と八回大会では、日本における民族問題至上論にたって日本を帝国主義国と規定することを回避し、日本は独占資本主義ではあるが帝国主義ではない 「半占領従属国」 であると規定する、宮本指導部の主要な論拠であった。十二回大会の今日では、本質において同一の修正主義的誤謬は、独占資本主義の土台に手をつけない 「反独占政策」を正当化する論拠として、姿を変えてあらわれたのである。二中総決議が「自民党政治こそが今日の国民生活危機の元凶」(傍点筆者)という時、全く意味深長である。
 宮本指導部に固有の本質的な誤謬である民族矛盾至上論民族主義的修正主義は、事実上の「主敵」米帝からの解放が議会主義とその法的形式論に基いて、そのための政治的諸条件をなすこところの国際的なカ関係も国内の階級闘争も捨象した上で専ら議会内の手続と法的形式としでのみ提起されるようになった今日でも、他の諸党派と統一戦線を締結する場合のイデオロギー的な「垣根」として機能し、セクト主義の主要な源泉のーつとなっている。共産党指導部は、一方で 「日米軍事同盟打破」を春闘の中心環のーつであるかに強調する政治主義的態度を一示すと同時に、他方ではこのスローガンを一切の 「国政レヴェルの統一戦線」に参加するための条件として提示し、スローガンそのものではなく、それを統一戦線の条件とすることを社会党か承認せずに「全野党共闘論」を主張しているとして、結局は社会党との間にも目下の緊急問題、例えば「ェネルギー危機」と生活の危機の問題で反独占統一戦線を結成することを拒否している。ここでは、「安保廃棄」や「日米軍事同盟打破」はそのために真剣に闘争するための政治的行動のスローガンではなく、 むしろそれによって緊急に妻請される反独占闘争とそのための統一戦線の結成をネグレクトするためのセクト主義的なロ実として機能していることは否定されえない。共産党が「革新統一戦線の結成こそが決定的要因」だと強調するにもかかわらず、むしろ実態は「中間政党」 が共産党に 「対抗しようとする傾向のつよまりがある」 (二中総決議)事実は、党中央も認めざるを得なくなっている。しかし何故にそういうことになるのかということは、少しも反省されてはいない。
 共産党指導部の誤謬はこのように系統的で体系的なものであり、党の政治的体質を最も奥深いところで根底から侵蝕している。それは、今日では共産党の 「党勢拡大」 に照応して、全国民的意義をもつような大きな闘争の高揚に際しては、たえず日本の労働運動の前途を遮る巨大な壁として前方に立塞がるものとなっている。日本の労働者階級とその政治的指導者達は、これを克服し乗り越えることなしには、ただの一歩も本質的な前進をかちとることはできないのである。
 最後に無署名論文の賃金政策は、「だれでも最低これだけの賃上げ」という「最低保障額」を主張する抽象的な見解を無批判的に擁護し主張している。このような見解は、現在の年功序列制や職務給制にたいする自然発生的な鋭い批判としては一定の意義をもつものではある。しかし、それは賃金額について何らの科学的な根拠をも示さない抽象的な悪平等の主張であり、産業別、職種別、熟練度、労働強度等による 「労働の質と量」 に基づく客観的な基準の観点からいっても、他方では年令、家族構成、養育費、教育費等々の生活に必要な賃金、生活給の観点からいっても、科学的な検討に耐えうる主張といいがたい。
 その他、無署名論文では、「総需要抑制政策」及びインフレの責任を労働者階級に転嫁する「所得政策」導入の方向について、デフレ的方向と引締政策への警戒が語られているという限りでは相対的に客観的リアリティをもっているのにたいして、五月の三中総の決定では、インフレ抑制のために 「引締政策を推進することが決定的に重要」という驚くべき主張を参院選での共産党の 「四大基本政策」 のうちにもりこんでいる。わずか数ケ月で党の方針の重要な考えが変わるということもさることながら、恐慌の一層の深刻化と直面しながら労働者階級が闘わねばならないまさにその時に、このような政策を提趨できるとは信じ難いこととである。しかしこのような具体的政策における根本的で致命と思われる誤謬も、既に批判した基本政策の総体における体系的で系統的な誤謬の一要素、 一部分としてみる時、必然的で不可避的なものといわなければならない。
 七四春闘は、その成果においても限界においても日本の労働者階級の運動の現状をまさに集中的に表現するものであった。七四春闘は、日本の労働者階級の運動が到達した大きな前進—- 労働者大衆の運動への広範で大規模な参加と政治的自覚の高まり—-を示すと同時に、ぞれの一層の前進を妨げている労働運動内部の主観的な要因、前衛政党の問題を明らかにきわだたせた。そのことによって七四春闘は、新しくわれわれに重大な任務を課したのである。
 七四春闘の総括が明かにわれわれに課した任務は、日本の労働者階級の運動を支配階級との本格的な対決の道に立たせ、独占とその政府との対決をカ強く闘い抜くことのできる、”英炭鉱労働者”が見せたような、不屈の運動に鍛えあげていくことである。そしてこの目的のためには、 真に革命的で原則的な、マルクス主義に立つ前衛政党の確立がさし迫った急務となっているのである。(一九七四・六)

<付記> 本稿は総評の第四十八回大会以前に書かれたものであり、それについて改めて本論のなかに組み入れて論じることはできなかった。しかし、 この総評大会は、総評結成以来初めて主要単産の大会以前に設定され、その意味からも労働者の大きな関心と注目を集めた画期的な大会であり、それは独立に論じられるべき新しい大きが問題を数多く提起している。しかし時間が許されぬので、ここではさしあたり、既発表(民学同機関紙「デモクラート」第五五号への寄稿) のものであるが今大会についての若干のコメントを本論に付して以下に掲載しておくことにしたい。

七四春闘の高揚を第二春闘へ!
総評第四八回大会ー 「節度ある闘争」に
抗して恐慌下の賃金抑圧と対決

大会の基調とそれを包む情勢
 大会の基調は、七四春闘の力強い高揚、更にはそれをふまえた参議院選挙の前進に支えられており、それらを組織的に闘い抜いた総評労働者の自信と確信に貫かれていた。
だが、大会は、それとともに、より困難な、その意味ではより本格的な闘争を要する情勢下におかれていた。
 その第一は、政府と独占か参院選挙の政治的な敗北にもかかわらず、その姿勢を軟化させず、それどころか居直ったように一層強化する傾向をみせてきたことである。物価の高騰は、参院選以降も私鉄・電力・化学製品を始めとしてとどまるところをみせず、消費者米価の引き上げは三〇%にものぼる見込みである。しかも政府は、これまでコスト・インフレと所得政策に「慎重」 であった労働省と長谷川労相までが賃金抑制の必要を前面に押し出し、強圧的姿勢を固めている。国家公務員に対する人事院勧告の完全実施をしぶり、支払を引き延し、取引材料にし、それとともに自治体労働者の賃金水準引き下げにのりだしているのもこの姿勢の現われである。
 大会を包む清勢の第二は不況の深刻化であった。倒産件数は”危機ライン”のメドといわれる1000件に近づき、倒産規模は一層大規模なものとなってきた。求人件数が大幅に縮小しはじめた。資本は春闘時の「コストプッシュインフレ」所得政策と並んで「企業危機」論をますます前面におしだしてきている。
 このような情勢の中で、大会を見守る全ての労働者が、七四春闘の高揚をいかに発展させ新しい成果を勝ちとっていくかに深い関心をよせていた。

大会の内容と第ニ春闘
 大会は、論議を通じて秋の闘争目標を、①公共料金値上げ反対、②一時金三カ月分の獲得闘争、③スト権問題では処分を出させない闘争、④国民春闘路線の継承として低所得者層の救済予算要求、⑤中小企業の倒産対策、と設定した。これらの目標は、いずれも現局面における労働者・勤労入民のさしせまって切実な要求を表わしている。しかしそれらの実現のためには、大衆闘争の強力な展開が必要なことは勿論、それとならんで労働者政党の強力な政治指導が必要である。
 公共料金引き上げ反対の闘争は、国鉄・消費者米価引き上げ反対を先頭に、反インフレ闘争の軸として最前面に据えられた。物価の高騰が一層重苦しく労働者・勤労人民・学生の上にのしかかっている今日、この課題の重視は全く当然のことである。すでに全電通は、この総評大会直後に開かれた大会において、電話料金引上げ反対闘争の重視を打ちだしており、これらの動きを含めて公共料金引き上げ反対の闘争は今「第二春闘」の一大焦点となっていくであろう。
 当初、大会の準備過程では、七四春闘を闘った労働者大衆の戦闘力と自信を基礎に、独占がインフレによって賃金面での七四春闘の成果を侵食した分を再度取り返す闘いとして”賃金再引き上げ要求”ないしは通常の年末一時金とは独自の”インフレ手当要求”が、反インフレ闘争の主軸をなしていた。「第二春闘」という位置づけも、まさにこのことの表現であった。にもかかわらず、このような要求が、物価上昇を織り込んだ”ー時金ニ力月分獲得要求” へと後退し「更に”公共料金値上げ反対”に中心的位置を譲って、「第二春闘」という位置づけも弱まらざるを得なかったいきさつは大きな問題を含んでいるといわざるを得ない。この問題とは、公労協と並んで日本の労働組合運動を支えるべき民間労働組合の弱さ、とりわけ不況期に顕著にあらわれる弱さであり、日本の労働運動指導者全てに再度その克服の方針が問われた。
 この問題は、恐慌の結果の労働者への押付けと「所得政策」を容認する宮田鉄鋼労連委員長発言に及んでおり、労使協調路線に対する即時の反撃の必要を教えている。
 大会は、七四春闘で多くの問題を残したスト権問題をとりあげ、今第二春闘において「七四春闘に対する処分を完全に阻止する」方針を採択した。我々はこの闘争を、「関係閣僚協議会」あるいは「公務員連絡会議」の結論待ち姿勢を克服し、大衆闘争を基礎としたスト権回復闘争の一環とすべく、積極的に展開していかねばならない。

不況の進行と大会討議への影響
 先に指摘した不況の進行は、大会に大きな影響を与えた。全金・繊維労連・全港湾・全国一般・全日自労、更には私鉄総連等、主として中小企業労働者や日雇労働者を中心とする、もしくは、下部にそれをかかえる単産からは、「企業危機」 への政策に対する質疑が出される状態であった。今日、危機を利用して驚くべき高利潤を搾り上げている巨大独占との闘争が主要なものであることはいうまでもない。それだからといって中小企業の労組の不安と危機意識を、官公労と民間組合、更には大手組合と中小企業組合の違いを意図的に煽る支配階級の論調にも通じるものとしてのみ批判しさることはできない。
 いうまでもなく、労働者は、企業あるいは資本の状態がどうあろうと、生活していかねばならず、その状態を改善してゆかねばならないのであるから、自らの生活に基礎をおいた要求では断固として闘争する以外にはない。
 しかし、現局面では、この論理を貫徹する諸条件はあまりにもきびしく、ぞの具体的形態、闘争の方針を決定することは容易な問題ではない。個別企業の単位や、個々の組合の闘争のみによっては、また組合運動だけの範囲でほ解決できない形で問題は提起されているのである。大木事務局長は組合レベルの方針として危機打開には「例年のようにデモ位でばすまない」 「準春闘規模の闘いが必要」といっている。これは積極的な主張である。問題は、政党がそれをどう指導するかにある。
 現在、共産党の方針は、「中小企業危機」「繊維危機」等を訴え、一見その解決にカ点をおいているかに見える。しかし、その打開の方法を見れば、その方針が少しも真面目で真剣なものでないことは明らかである。彼らは、中小企業経営者、あるいは資本家の利害、「営業を守る」ことに主要な関心を寄せている。だから、労働者階級には「節度を守ること」を主要なスローガンとして要請している。そして危機の解決策としては、国会への請願やあれこれの陳情や世論喚起をしているのみである。このようなことでは何ら政府と独占体の政策を変えさせることはできない。労資協調によって組合をだめにしてしまうのは勿論、共産党が心配している企業経営者の倒産の危機に対しても、何ら打開策をもたらすことにはならない。
 このような事態の根本的打開のためには、金融機関、ェネルギー産業の国有化とその民主的統制—- 国家の金融、エネルギー政策の抜本的転換が絶対に必要である。大会方針案でも、いまだ抽象的一般的ではあるが「民主的変革」 の必要が語られているのは、このような客観現象を一定限度反映したものである。まさに望まれるべきは、労働者政党が労働者に対してもっと具体的体系的な政策を提起し、自覚的な闘争を首尾一貫して組織することである。闘う労組幹部の間に政党への期待が高まっているゆえんもここにある。一定の政治的力関係を必要とする根本的な反独占政策が即時一挙に実現できないとしても、この第二春闘で獲得すべき当面の対恐慌政策を打ち出していかねばならない。この中心環は、総需要抑制政策に対決し、福祉の増大と労働者・勤労人民のための公共事業の根本的な拡大を勝ちとることである。公共投資の拡大と国有部門を中心とした拡大政策・民間倒産企業の民主的な生産管理を可能とするような諸措置が必要である。国民春闘路線の継承として提起されている対政府予算要求等は、この方向で提起されてはじめて実りあるものどなるであろう。そのためには、対外政策の面で、社会主義諸国との貿易拡大を中心とした平和共存外交への大転換が同時に進められることが必要不可欠であり、労働運動はこの面でもまた、主導的に政策を展開してゆかねばならない。

大会論議を占領した「政党支持自由」
 大会を通じての最大の問題点のーつは、代議員三四名の発言の殆んどが「政党支持自由」の問題に集中したことであった。既に述べたように重要な課題が山積していたにもかかわらず、限られた時間の大部分をこのような討議に費さざるを得なかったことの根本的な源泉は共産党の労働組合政策にある。共産党は、大会に向けて危機の根本的な解決策を提示することもなく、論議の内容を深め前進させる努力も何ら行わず、大会キャンペーンを殆んどこの問題のみにしぼり、しかも攻撃のホコ先を総評左派系の戦闘的単産に向けていたことは全く驚くべきことである。
 共産党が執勤に主張してそのためには重要な組合の組織分裂をもあえて辞さないところの「政党支持自由」とは、どのような意味をもっているのだろうか。それは、基本的には、選挙の時に共産党候補者を、組合で支持せよという要求である。この一見単純で当然すぎる要求が、ことあらためて主張され、しかもそれが労働組合によって受け入れられないということに問題の本質がある。共産党は労働組合の日常活動に真剣にとりくんでいないし、少しでも困難な闘争や激しい闘争は回避していることは、組合員大衆の間では周知のことである。このような状態では選挙のときだけに限って「支持」を要求しても受け入れられないのは不思議なことではない。しかも組合が春闘などで困難な闘争を真剣に行っている時に、全ては議会で、だから選挙と投票で決まると主張して、闘争を選挙に「流しこむ」ことに力点が置かれている。これでは組合の反発を招くことは避けがたい。だから組合員大衆は、共産党は選挙のみに的をしぼって労働組合を利用しようとしている、組合は共産党にとって単なる集票装置としてしか考えられていない、と受けとっている。したがって、社会党の政党としての組織が弱く労働組合への依存が強い条件のもとで、これと同様の議会主義的レヴェルで共産党が割り込むということになる。このような論理の上では、悲惨な組合分裂という結果は避け難い。このような事態を共産党は少しもおそれてはいないかにみえる。組織を割っても票をとることが、闘争でなく投票が、アクターではなくヴォーターが、主眼となっているかにみえる。これは日本の労働者階級にとって、これ以上ない危険な方向である。共産党が正常な活動をしている時には当然に得られる共産党への「支持」を、このような形でしか問題にしえないのは全くの異常事態である。このような時に、政党と組合の関係や組合員の政治活動の自由の一般論をもち出もて抽象的な問題で具体的な問題を置きかえるものは事柄の本質、その最高度の危険性を認識しえないものか、でないとすればそれを故意にぽかせるものである。
 もし共産党が真剣な姿勢で「政党支持の自由」をいうのであれば、形式論ではなく、労働者大衆の支持と信頼をえられるような政策を掲げ、正しい戦術指導を行なわねばならない。それたけではない。そのような活動と闘争の任務に耐えられる下部基本組織を組織してゆかなければならない。そしてそのことを下部の党員の日常不断の積極的な活動を通じて実践によって証明していかなければならない。この意味で「政党支持自由」の問題を真剣にとりあげ最も深刻な問題として反省しなければならないのは他ならぬ共産党の方であろう。

おわりに
 大会は一定の限界をもちながらも、七四春闘の高揚をひきつぎ七五春闘をめざして例年にない準春闘級の秋闘—-第二春闘を提起した。闘争は四波にわたり、臨時国会の行われる10、11月をヤマ場として国労・勤労を中心とした一大ストライキが展開される予定である。
 現在、労働運動は依然として下からの大衆的高揚の局面にあり、政府と支配階級はかつてなく深刻な内部矛盾をかかえている。我々は労働大衆の高揚する工ネルギーに依拠し、政府と独占に譲歩を迫る巨大な第二春闘を構築していかねばならない。

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