【翻訳】Ukraineの将来は、ドイツやイスラエルの事例ではなくて、朝鮮半島の事例的である。

The Japan Times Weekend、  Sept. 2-3, 2023 
“ Ukraine’s future isn’t German or Israeli but Korean. ”
「Ukraineの将来は、ドイツやイスラエルの事例ではなくて、朝鮮半島の事例的である。」 
Andreas Kluth
[ Bloomberg Opinion columnist covering U.S. diplomacy, national security and geopolitics. He is author of “Hannibal and Me”.]

「Kyiv の攻勢は立ち往生している中で、世界はこの戦争の終結を見つけるべく、歴史のモデルを手探りしている」

Ukraineは、Russiaの侵入者を追い出すことはできないであろうし、Moscowは、また、Ukraineのさらに多くの領土を飲み込むことには、成功しないであろう。想像しがたい人間の苦悩はさて置くとして、一体、次に何が起こるのであろうか?
Russiaの侵略の始まりより、専門家、評論家や指導者が考えてきたように、彼らの思考を導く歴史の類似事例を直感的に掴めば、3例が明らかになる。Ukraineの一つのモデルは、1950年代のWest Germanyである。もう一つは、1970年代に始まったIsraelであり、三つ目は、1950年以来の朝鮮半島である。

West Germanyの例を引き合いに出す人々は、NATOは出来るだけ早くUkraineの占領されていない部分を西側の同盟に受け入れるべきであると主張している。このことは、Russiaが、さらなるUkraineの領土を強奪することを思い止まらせ、自由なUkraineを許し、繁栄する民主主義国に再建する、冷戦 (“the cold war”)の間のWest Germanyのように。
Ukraineの自由の部分をNATOの陣営に受け入れること、この推論は成り立つ、法的、政治的、戦略的に可能なはずである。そのことは、およそ1955年にNATOがWest Germanyと共に行ったことだから。 Germanyは、その時は第二次大戦の勝者である連合国に分割、占領されていた。それにもかかわらず、NATOは、Article 5 (集団的安全保障)- 1 memberに対する攻撃は全memberに対する攻撃と見なす― を正にWest Germany – その実体は西側3同盟国(U.S.,U.K., France)の支配地域を表していた-に広げて適用したがEast Germany―Sovietの支配地域にある―には適用されていない。
その集団的安全保障は、論争は続いているが、冷戦の残りの期間においてもSoviet Unionからの攻撃を抑止していた。そして、Ukraineも、またいつか、そのようになるであろうように、結果としてGermanyは平和的に再統合した。結論:Ukraineの人々がコントロールしている領土が何であれ、どのようであれ、それをもってNATOに参加させる。

他の識者は、より良いモデルとしてIsraelを挙げる。この国は、いかなる集団的同盟にも入らなかった。しかしながら、1970年代より初めて、米国は安全保障を正式なものとし、徹底的に武装させた。不敗の戦士国家として、また米国の協力者として、Israelもまた繁栄した。そして結果的に、力ある位置より、アラブの敵国との間で平和を作り始めていた。
UkraineにIsraelと同じような相互保障を与え、金と武器を与えよ。そして議論は進む。
そうすれば、Russiaは勝利できないことを理解するであろう。

第三の識者グループは提案する。Ukraineの戦線は、1952年頃よりの朝鮮半島の戦況に一番よく似ている。どちらの陣営も大きな勝利を得ることが出来ないように見える。両陣営は、保持できない法外な被害と費用を被るようにも見えない。すべての陣営―好戦的な国もそれを支持する国々も―は、話し合いを拒否すればするほど、局面を変えることなく、死者負傷者は増加し、苦難は続く。唯一の出口は、1953年の朝鮮半島におけるがごとく、平和条約の調印ではなく、解けない問題はそのままにするが、銃火は止める、とりあえず休戦するとの見識をもって、戦うと同時に交渉を行うということである。

West Germanyの例えは、魅力的に思えるが、しかし、的を外している。正確にはBonnは依然として、論理上は国全体を代表すると主張していたが、一国の一部のみを統治したに過ぎない。米国、英国、Franceの援助で西側ドイツ人は、Sovietを含めた4つの連合国が同意した国境でもって新しい国、共和国を設立した。その時はNATO*が設立された時であり、戦いはなかった。
*訳者: NATO: North Atlantic Treaty Organization, 北大西洋条約機構
     1949年4月4日欧州10か国(英国、仏国、ベルギー、デンマーク、アイスランド、イタリア、ルクセンブルグ、オランダ、ノルウエー、ポルトガル)、米国、Canadaの計12か国で発足。集団防衛、危機管理、協調的安全保障の三つの中核的任務を担うとする。 尚、ソビエト率いる東欧共産勢力のワルシャワ条約機構は、10か国で1955年に結成されている。
     1949年5/23 発足の西ドイツ政府に対抗して、同年10/7に、ソビエト統治の諸州が東ドイツ政府を設立している。
     そして、1955年5/6 西ドイツは、NATOに加盟した。

さらに、西ドイツの首相 Konrad Adenauerは、正式に国の分割を受け入れた。見返りとして、それ(東ドイツ部分)を、西側に統合することを、あいまいにして。このことで、彼は対抗勢力から激しい反感を買った。その勢力は、中立の見返りとして、再統一を目指して頑張りたかったのである。その道のりとは、Austria (その時は第三帝国”the Third Reich”*の部分であった。)が取った策であった。
 
*訳者:the Third Reich : 神聖ローマ帝国を、第一帝国、ビスマルク統治下の帝政ドイツを第二帝国、そして、その後を継ぐドイツ民族による三度目の帝国として、国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)統治下のドイツで用いられた。

これらすべての道のりにおいて、Ukraineは1955年の西ドイツと異なっている。Russiaの支配下にあるUkraine国内の国境は、認証も固定もされていない。NATOは常時、Article5を、たとえその支配が変わった時でも(例えば、Bakhmutは、昨年はほとんどRussiaに占領されずに、Ukraineの支配下のままだった。)同じ町に適用するか否かを決めねばならないであろう。結果として、連合国は、戦いに介入してRussia人に発砲するか、(World War Ⅲのリスクを冒す。)又は、自慢の相互防衛条項(Article 5)を薄めるか、いずれかであろう。しかし、その場合にはArticle 5 は、その抑止効果を失ってすべての同盟国をリスクに曝す。
或いは、その代わりに、Ukrainian President Volodymy Zelenskyyは、Adenauerが行ったのと同じように(同じ例として東ドイツを切り離したように)、彼の好敵手であるVladimir Putinが併合したと言っている、Ukraineの5つの州にサヨナラしてPutinに渡すこともありうるであろう。しかし、Kyivは、すべての領土を取り戻すことを望んでいる。
Zelenskyyのみならず、Ukraineの他のリーダー達も、今日の時点でも、領土を取り戻すという目標を捨てることが出来ない。
偶発的で平穏だった(戦いのなかった)1990年の東西ドイツの再統合のような望みでさえ、積み上がって来ていない。Sovietは、45年の統治の間に東ドイツが民族浄化を試みないように統治、運営したし、地元住民のRussia化もしていなかった。Donetsk, Luhansk, Kherson, Zaporizhzhia and Kremea においても、浄化やRussia化は行ってきていない。

Israelとの類似は、もっとあるように見えるかも知れない。しかし、よく見るとドイツの例と同様に、ポッカリと穴が開いていることがわかる。米国の安全保障は、Israelが敵対するアラブ諸国との4度の戦争に勝利した後に、正式なものになった。Ukraineの自国の領土での戦いと違って、Israelは1970年代まで敵地で戦っていた。その頃Israelはまた、自身で核兵器を作った。―もっとも、その兵器工場のありかは確認されていないが。敵対するアラブ諸国は、今日に至るまで、核兵器を有していない。(これとは、別問題であるが、Iran―アラブではないが―は核開発に近づいている。)
それゆえに、Ukraineは、1970年代のIsraelとは、逆の状況に置かれている。Ukraineは決してRussiaを打ち負かすことはなかった。かれらは、2014年から2022年の間、Donbas地方ににおいて窮地に陥った自軍を保持した時においても。さらにUkraineは核を持とうとしたこともなかった。Ukraineは、1990年代にSoviet時代の在庫品をRussiaに引き渡した。Moscowより全地域の安全を保障してもらう代わりに。他方、Israelは米国の同盟国になった時には、すでに勝利者となっていて、核抑止力を保持していたのに、アラブの国々は打ち負かされて、原子爆弾も持っていなかった。その状況からIsraelは繁栄する経済と社会の国となった。しかし、Ukraineは、核なしで、常に核のサーベルを打ち鳴らす敵国Putinと戦っている。

Cease-fire without peace. [ 平和なき停戦 ]
朝鮮半島での類似の事例では、その時はどうだったのであろうか? 不完全ではあるものの、その事例が、一番手に入れやすく、役立てられやすいかもしれない。当時も今も、Moscow and Beijingは、侵略者側(北朝鮮 in 1950)を支持、支援した。他方、米国は犠牲地域(南朝鮮―訳者)の防衛のため国際連合軍を指導した。Ukraineにおけると同様に、朝鮮半島においても、活発な動きの開戦の段階から、しばらくして厳しく血なまぐさい膠着状態に入った。その時までには、米国、Soviet両国は、核を持っていた。
動かない状態が長く続いても、主要対戦国は話し合う用意すらなかった。PyongyangとBeijingは、その考えを心に抱いていたが、Mr. Joseph Stalin in Moscowは、柔軟性がなく堅かった。米国側にしても、Harry Trumanと彼の後継者 Dwight Eisenhowerは、国内政治に気を配らねばならなかったし、共産主義に対して説得力を欠いていたように見えた。
南朝鮮といえば、整理しきれていない自身の利害を追求していた。President Syngman Rhee(李承晩大統領)は、朝鮮半島全部を要求し、多くの囚人を開放するというような唐突なゼスチャーで味方である米国人を驚かせた。
そして、まだ戦闘が続いている中で、ついに話し合いが始まった。米国の海軍大学院のMr. Carter Malkasianによれば、「あなた方は、話し合いと戦いの準備を同時にしなければならない。」これは朝鮮戦争の一つの教訓である。
それでも、交渉は失敗し続けた。1953年3月、Stalinが亡くなった後、当事者が、再び交渉を再開したが、結論は双方誰をも満足させるものではなかった。
事実上、休戦(“armistice”)でもって、2年ぶりの戦争を始めた時の最前線を認めた。それ以外に重大な問題は、何も解決しなかった。単なる争いの凍結であった。しかし、この停戦
(“cease-fire”) は、今日まで続いている。そして、この70年間に南朝鮮は、活気ある豊かな民主主義社会になっている。
もし、朝鮮半島のモデルが正しければ、教訓は、どちらのサイドも軍事的には勝てず、結果は変わらない。ただ一つ残された特性は、それが認められるまでに多くの人々が不必要に死ぬ、ということがはっきりして、あまりにも長い間の後、はじめて戦火を止めて、戦闘部隊が話し合いの席に着くということである。
これは、どれも誰が正しいか、と言うことではない。歴史は一人の男、Vladimir Putinを記録することであろう。彼は、Ukraineにおいて未だ治まらず続いている災難において有罪である。 しかし、過去よりの知恵は、戦うと同時に、共に話し合う時期が到来したことを暗示している ― いかなる形であれ勝利を望(“hope”)まずして、しかし、何としてもこの悲惨なことは終わらせねばならないという諦め(“resignation”)の気持ちを持って。
                           [ 完 ] (訳:芋森)

 

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