【書評】『大阪市立大学同級生が見た連合赤軍 森恒夫の実像』

【書評】『大阪市立大学同級生が見た連合赤軍 森恒夫の実像』伊福達彦編著

                            福井 杉本達也

コラムあり、新聞あり、党派機関紙・ガリ版あり、外伝あり、自伝あり、年表ありで、どこからどう読むべきか、なかなか難しい一冊である。「コラム8」において関連資料の豊富な大阪府立中央図書館を紹介しているが、コピーは1万ページを超え、コピー機が壊れ、買い替えたと書いており、散逸した資料集めの苦労が推察される。しかし、本書の構成が最初にグラフティから始まるのはいかがなものか。60年前の当事者でなければほとんど理解不可能である。むろん、全てに解説をつけるなどということは野暮でであるが、冒頭にこそ著者の意見が欲しいところである。

学生運動は70年安保闘争やベトナム反戦運動もあり高揚したが、連合赤軍のあさま山荘事件と、その後公安から暴露されることになったリンチ殺人事件は当時の日本社会に強い衝撃を与え、運動が退潮する契機となった。

編著者の伊福達彦は、「まとめ」において「日本の左翼の伝統である批判と自己批判は、下部統制の手段であった。自己批判の成否の判定権は上部に独占されている。基準がないのだ。…同じことが何度も繰り返されることとなる。…連合赤軍連続粛清の事件は、共産主義組織の査問、粛清体質の縮図である。ブントでは指導部の絶対権限への服従が当たり前とされた。赤軍派の無責任体質が、逃亡3カ月の森を指導部に押し上げた。…森恒夫の『査問』『総括』『共産主義化』は継承することはできない」と書き、「査問とは何か」において、「森だけでなく。マルクス・レーニン主義を看板とする党派は自分たちが前衛だと信じていた。前衛がいるなら中衛、後衛もいることになる。聖職者のような知識人がすべてを代行するという理論だ。前衛という心地よい言葉はエリートの心をくすぐる。…倒錯した世界であった」「その組織論からは当然党の指導者は下部を統制でだけでなく査問の権利も有すると理解された。…森の粛清を他人事としてみている同じ目が、自分たちの組織で有事に査問、粛清に転嫁する」と書いている。

「聖職者のような知識人がすべてを代行する」というのは何も「日本の左翼」だけの専売特許ではない。荒谷大輔は、ルソ―の「自由」は、共同体の一般意志に従うことにほかならないとする。共同体が定めるルールに従うのが「自由」だと。「近代社会」に参加する人は、社会契約において共同体の一般意志を自分自身の意志にしなければならない。理想の社会を作るためには共同体の「一般意志」をみなで共有しなければならない。一般意志は唯一のものでなくてはならず「ある人々はこう考えるが別のある人は違う意見をもっている」などと分裂した状態になってしまうと上手く機能しない。結果、「一般意志」は「独裁」を導き、フランス革命においては、ルソーの「平等」思想を真摯に追求したロベス・ピエールは、「かつての盟友を含め反対者を次々にギロチン台に送り続け…妥協を許さない『平等』の追求は、その意志を共有できない人間を『正義』のために殺すことを厭わないものになった」。その後、「マルクスの『プロレタリアート独裁』は、レーニンによる革命の実践の中で共産党の『一党独裁』へと結実…共産党が『労働者階級』を代表し、労働者を『指導』する立場に立つことになった」と書いている(荒谷大輔『贈与経済2.0 GIFT ECONOMY』2024.4.15)。

また、鷲田清一は『所有論』において、イタリアの思想家:ロベルト・エスポジトの『自由と免疫』の論攷を紹介し、近代社会が西洋でたどった過程は、「『自由』を各個人の『安全』や『保護』に結びつけ…個人を他者たちから隔離する過程」であるとし、「個人が彼が属する共同体の安定性と存続を脅かすもの…境界線を揺るがせ侵犯してくるものへの防御」であり、反汚染=「内に異物、つまり不純なものを含まないこと…内部の純粋性」であるが、「そのもっとも危ういところは、それが異他的なものの排除にとどまらず、自己自身をも排撃する」と述べている(鷲田清一:『所有論』:2024.1.30)。「伝統」は神の権威を否定し「神のような超越的な第三項を導入しない」、「人民の人民による統治」、「主権者(たち)の『自己自身との契約』」(鷲田:同上)という西欧近代の「社会契約論」にまで遡る。

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