【書評】『ナパーム空爆史――日本人をもっとも多く殺した兵器』

【書評】『ナパーム空爆史――日本人をもっとも多く殺した兵器』
   (ロバート・M・ニーア、田口俊樹訳、2016年、太田出版、2,700円+税) 

 1972年6月8日、南ヴェトナム、チャンパン村。
 「南ヴェトナム空軍のアメリカ製レシプロ攻撃機スカイレーダーが低速飛行で姿を見せた。(略)ゲル状の焼夷剤であるナパームが充填された四本の銀色の弾筒が地上に向かって、音もなく落下してきた。地面を直撃したとたん、それらは突如として猛烈な勢いで“弾けた”。炎が何本もの巨大な鞭となって暴れまくり、燃える白リンが無数の閃光を放った。(略)巨人が溶鉱炉の扉を開けてしまったかのように、容赦のない熱波がジャーナリストたちをくまなく舐めた。数秒後、小さな人影が煙の中から姿を見せた。
 炎がキム・フックの姿を隠した。それから起こった出来事を作家のデニス・チョンは次のように語っている。『炎に呑み込まれるなり、彼女は火が自分の左腕を舐めている光景を眼にした。火にやられた部分は見るも無残な暗褐色の塊と化した。彼女は火を払い落とそうとしたが、火は右腕の内側にも広がっており、やけどの痛みに叫び声をあげることしかできなかった・・・彼女の左上半身を直撃したナパームは、ポニーテールに結った髪を灰にし、首と背中の大部分と左腕を焼いた・・・(略)』」。
 バリケードに向かって走ってくる子供たちを助けたAP通信のカメラマン、フィン・コン・ウトは、そのときの様子をこう記している。「彼女の体は熱を放ち、ピンク色と黒の肌がずるりと剥けていた」。(この時のキムを撮った写真は後にピュリッツァー賞を受賞し、20世紀を象徴する写真の一枚となった。)
 本書は、「英雄としてこの世に誕生したが、今では社会から蔑まれる存在に堕している」ナパームの歴史を、「第二次世界大戦の勝利からヴェトナムでの敗北を通じ、グローバル化した世界における現在のその立ち位置にいたるまで、アメリカという国の物語」を照らし出す灯りとして描く。
 ナパームが、第二次世界大戦のドイツやとりわけ日本への空襲において絶大な効果を発揮し、大量の犠牲者を出したことについては、その後の朝鮮戦争やヴェトナム戦争での悲惨な状況とともに本書に詳述されている。
 しかしその誕生が、アメリカが第二次世界大戦に参戦しての最初の独立記念日、ハーバード大学においてであったことはあまり知られていない。当時大学と政府共同の極秘の軍事研究「匿名プロジェク№4」の責任者、有機化学教授ルイス・フィーザーによる最初の実験は、学生たちがプレーに興じていたテニスコートの隣のサッカー場で行われた。
 「フィーザー教授が制御ボックスのスイッチを入れた。瞬時に爆薬が炸裂し、着火剤の白リンを二〇キロのゲル状のガソリンであるナパームの中に吹き飛ばした。摂氏約一一〇〇度というすさまじい炎が雲のように沸き起こった。ナパームは猛烈な勢いで燃えさかり、いくつもの塊となって水たまりに落ちた。油くさい煙があたり一面に立ち込めた。(略)テニスをしていた学生たちは、爆発と同時に蜘蛛の子を散らすように逃げ去った。/(略)ニンニクのにおい、もしくはマッチの燃えるにおいのような白リンの刺激臭とガソリン臭が、水浸しのサッカー場と無人となったテニスコートに漂っていた。かくしてナパームは誕生したのである」。
 ここにいたるまでの政府と大学と研究者たちの密接な関係についても、本書はその経緯を解明している。大統領行政府直轄の国防研究委員会と契約・提携したアメリカ随一の有機化学者でハーバード大学学長のコナントの下で、フィーザーは新たな化合物を合成し、それが実用可能な爆薬となるかを評価する研究チームを任されたのである。この結果がナパームということになる。後にフィーザーは回想録でその後のナパームのたどった経緯について「われわれがおこなっていた試験は建造物を対象にしたものであり、人間を対象にした試験は考えていなかった」と述べ、想定していたのはあくまで物体であって、「赤ん坊や仏教徒」に対して使われるとは思ってもいなかったとの主張を最後まで変えなかった。
 これについて本書は、「ハーバードの研究チームは、焼夷弾による攻撃の倫理性については検討していなかったとしか思えない」、「確かにつくりだしたものが想定外の使われ方をされても発明者には責任はないという主張は、理論的には正しいかもしれない。しかし、実際には(ドイツおよび日本の家屋のレプリカを使った試験に参加していたのだから・・・筆者註)フィーザー教授はナパームの能力がいかなるものか、どういう使い方がなされうるか、正確に知っていたのである」と批判する。戦争中という状況において優秀な科学者の貢献が不可欠であったことと、それがもたらした結果への責任をどう見るか。ナパームに限らず、核兵器、毒ガス、生物兵器等、問題は現在も問われている。
 1980年、国連の代表団は「特定通常兵器使用禁止制限条約(CCW)」の議定書Ⅲを承認して、「人口密集地域」に対する焼夷弾攻撃は戦争犯罪となった。「今日、ナパームは戦犯として保護観察中の身である」。(R) 

【出典】 アサート No.463 2016年6月25日

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