【書評】古市憲寿『誰も戦争を教えられない』
(2015年、講談社α文庫、850円+税)
『不幸な国の幸福な若者たち』で注目された社会学者による戦争・平和論である。そのトーンは時には挑発的であり、戦争を語るにしては不謹慎という批判を右からも左からも浴びそうである。しかし一面の真理は突いている部分もある。本書は「博物館という日常」と「戦争という非日常」の結節点に存在する各国の「戦争博物館」(「平和博物館」)に焦点を合わせ、そこから戦争(平和)を考えようとする。
まず、「アリゾナ・メモリアル」(ハワイ真珠湾攻撃によって沈没した戦艦アリゾナの残骸の上に建設された記念館–その横には日本が降伏文書を調印したミズーリ号が停泊している)と、南京大虐殺記念館について語られる。
「両者とも、第二次世界大戦において日本と戦火を交え、日本に勝利した国という点では共通している。/しかしその『勝利』の描き方は二つの場所で大きく異なっていた。比較的シンプルにアメリカの『勝利』が描かれるアリゾナ・メモリアルと違い、南京では日本軍の『残虐性』を強調した上で、中国共産党の寛大さによってもたらされた日中友好が提示される。/この二つの戦争博物館が描く物語は、中国とアメリカという国家の対日観に大きく関係している」。
つまり戦争博物館は、その国家が戦争をどのように考えているかを可視化し、戦争の「記憶」をどのように後世に伝えていくのかという政治の場所である。著者によれば、近代国家は「政教分離という前提を認めつつ、これに対して新しい「国民神話を、国家プロデユースのもと作ろうとした」。この政策の一端が戦争博物館である。しかしこの「犠牲者を追悼するという崇高な施設」も、「理念が崇高なだけで人々は訪れはしない」という現実がある。「『富国強兵』や『戦争に勝つこと』が国民共通の物語ではなくなった時代において、いかにして人々に博物館に来てもらうことができるのか」ということが問題になっている。そこで対応に各国の姿勢が出てくる。
たとえば、同じ敗戦国の「日本とドイツの決定的な違いは、歴史観という『態度』よりも、実施に移された『行動』に顕著に現れる。たとえばベルリン中心地だけでも、ナチスやホロコーストを語る大型歴史施設は、国立歴史博物館を含めて五つもある。(中略)注目したいのは、この記念館と博物館が建設された場所だ。ブランデンブルク門のすぐ側という政治的超一等地に、いきなり犠牲者追悼の巨大なモニュメントが置かれているのだ。半径数百mには、首相府、ドイツ連邦議会議事堂、連邦参議院などが位置する。日本でいえば、皇居前に外国人戦没者慰霊碑を建てるようなものだ」として、この他残されている強制収容所などを見学した後に、ドイツの姿勢を「本物」と「場」を重視する姿勢に見る。これに対して本書は「『戦争、ダメ、絶対』と繰り返しながら、僕たちはまだ、戦争の加害者にも被害者にもなれずにいる」と日本のアイマイさを語る。
そして戦争に関する「大きな記憶」(歴史に関する博物館や教科書を作り、次の世代へ継承すること)と「小さな記憶」(個人の戦争体験)とを対比して、「平和博物館とは、まさに『小さな記憶』を拾い集めて、『大きな記憶』として次の時代へ残していく試みに他ならない」が、しかし「そもそも『小さな記憶』を素直に拾い集め、つなげたところで、それがそのまま『大きな記憶』になるわけではない」と指摘する。この点は議論のあるところであるが、本書は問いかけと感想に留まる。
しかしエピソード的にはいろいろな事項が紹介されている。その主たる流れは戦前と戦後との連続性であり、一例をあげると「日本の各地では、旧日本軍関連施設を有効活用して戦後復興に役立ててきた。戦後、旧陸海軍省から大蔵省に移管された国有財産は土地だけで2669平方キロメートルに及ぶ。神奈川県に匹敵する大きさだ。/こうした国有財産は農地や学校、病院等に転用された。富士重工業や三洋電機などの民間企業に払い下げられた軍事関連施設も多い」。その他「総力戦体制」のために生まれた「日本型経済システム」(長期雇用契約、年功的賃金、間接金融システム、厚生省の設置と国民健康保険制度(1938年)、厚生年金保険制度(1944年)、給与所得者の源泉徴収(1940年以降)等々もそうである。
さらに極めつけは、戦争関連施設(博物館、博覧会)の設計、建設、展示にまつわる乃村工藝という企業の存在である。この会社はショービジネスの専門企業として、戦前は戦意高揚の「支那事変聖戦博覧会」「大東亜建設博覧会」「墜落敵機B29展」等を受託(社名も「日本軍事工藝株式会社」に変更)。戦後は「平和産業大博覧会」をはじめ、ミュージアムブームに乗り、船の科学館、国立民族博物館、国立歴史民俗博物館、多くの企業博物館を手がけた。そしてこの博物館大手企業が「沖縄県平和祈念資料館」と「遊就館(靖国神社の資料館)」をも手がけているのである。この経緯から著者は「ある博物館を『偏向だ』とか『危険施設だ』と糾弾する意味はあまりないように思う。同じ乃村が関わっているのだ。そこに特別な洗脳の仕掛けが隠れているとはとても思えない」と述べるが、ここに本書の視点の限界が集約されている。
それ故この視点から、「戦争博物館」(「平和博物館」)の活性化のために、「キーワードは『ディズニー化』」だ」として、さまざまな戦争博物館のエンターテインメント化を提唱し、また戦争自体も、ロボット兵士等の無人兵器の発達や「民営化」やサイバー戦争によって、国民の人命は尊重される時代になったと楽観的な予想を述べる。
しかしながら本書の言う戦争の理解そのものがはなはだ狭いものであることを指摘しなければならない。「戦争のない状態が平和である」とするホッブズの時代とは異なり、「平和のない状態が戦争である」とするガルトゥングの現代には、国家対国家の古典的な戦争時代が過ぎ去り、世界的に政治的社会的イデオロギー的対立が日常的な戦争状態を引き起こし、多数の難民を出しているという現実がある。これをどう見るかについて本書は語らない。また「大きな時代」の「小さな記憶」をいかにして「大きな記憶」に反映させていくのか、という課題は残されたままである。本書の見識が問われるところである。(R)
【出典】 アサート No.459 2016年2月27日