【書評】海軍の日中戦争 アジア太平洋戦争への自滅のシナリオ
(笠原十九司著 平凡社 2015年6月 2500円+税)
昨年ヒットした映画に「永遠の0」がある。右派バリバリの百田作品だが、中々泣かせる場面も多い。しかし、なぜ零戦が開発されたのか、そしてなぜ真珠湾攻撃に始まる日米戦争に至ったのか、などの根本的問題はすべて回避され、愛する家族のために特攻で死んだことも、少々美談にしてしまうものだった。
そこで、もう一度零戦について、いろいろと調べているうちに出会ったのが、表記の書物である。旧日本軍は、見事に陸軍・海軍が分立していた。満州事変から日中戦争を主導したのは、陸軍・関東軍であり、日米戦争については、アメリカの原油禁輸などの経済制裁によって、海軍が「止むなく」真珠湾攻撃という奇襲攻撃に至った、というような印象(「陸軍=悪玉、海軍=善玉」)を多くの日本人が持っていると思われる。私自身も、ぼんやりと、そんな意識を持っていた。
しかし、本書を読めば、そのような考え方は吹き飛んでしまう。本書で明らかにされているのは、満州事変以降、日米戦争を想定・準備したのは、むしろ海軍であったということである。柳条湖事件のような謀略事件を、海軍も仕掛けていた。そして、まさに「自滅のシナリオ」を自ら歩み、中国人・日本人に大量の死傷者を生み出して、日本の敗戦にたどり着いた。
<海軍の謀略事件 「大山事件」>
本書の内容に沿い時系列で、整理してみよう。
1937年7月7日 盧溝橋事件
同7月11日 現地軍間で停戦協定成立
同 日 近衛首相「中国に反省を促す重大決意」の政府声明
同7月11日 海軍軍令部 南京爆撃のための特別航空隊設置
同7月17日 蒋介石 廬山談話で対日抗戦の決意を表明
同7月28日 「北支事変」として、華北に日本軍総攻撃
(この間も、日中戦争拡大派と不拡大派の対立続く)
同7月30日 天皇 東北地区を平定し、戦線不拡大の意見
同8月7日 「日支国交全般的調整案要綱」作成
同8月8日 外務省「日華停戦条件」作成
同8月8日 大村基地から、台北基地に海軍爆撃機が移動
同8月9日 上海にて大山事件(大山中尉他1名が射殺される)
同8月10日 大山中尉、大尉に昇進し、海軍大臣より家族に弔電
同8月13日 第2次上海事変(海軍陸戦隊と中国軍が交戦)
同8月14日 近衛内閣 「暴支膺懲」声明
同8月14日 海軍 台北基地より、上海・南京へ渡洋爆撃開始
盧溝橋事件を契機に、日中戦争をさらに拡大させるかどうか、すなわち中国東北部に作った傀儡政権「満州国」周辺で止め、対ソ戦に備えるべしとの不拡大派、中華民国の首都である南京まで攻めるべしとの拡大派が争ったが、天皇の意見もあり、停戦協議が進行している時期に、謀略事件である「大山事件」が起こるのである。
大山事件とは、上海海軍陸戦隊の大山中尉と斎藤水兵が、上海で中国軍に殺害されたとする事件で、これを受けて「暴支膺懲」(横暴な中国を懲らしめろ)の掛け声のもと、海軍は宣戦布告もないまま、上海・南京爆撃を強行した。停戦協議は行き詰まり、華中に戦線は拡大し、第2次上海事変から全面的な日中戦争へと進んでいった。
著者は、大山事件が海軍による謀略であり、二人を敢えて一触即発状況であった中国軍虹橋飛行場に向かわせ、大山少尉ら2名の死を持って、停戦協議を破綻させ、中国全土への空爆を強行したとの説を展開されているのである。
海軍の上海爆撃で先を越された陸軍も、上海から南京へ攻撃を進め、兵站も十分に準備ないまま、南京を制圧する際、食料の略奪や婦女子への暴行、便衣隊の疑いと称して、民間人を含む大虐殺を起こすのである。
本書では、大山事件が海軍により周到に準備された謀略事件であるとし、その根拠として、大山中尉の日記、8月8・9日の行動・態度、現地調査を待たず、翌10日午前3時には、戦死として家族に電報が発信されたこと、陸軍暗号担当が語った「大山事件は謀略だったとの発言」、「残された家族への弔慰金」などを挙げられている。
大山中尉は、「七軍神」の一人として、敗戦まで靖国神社に胸像も建てられていた。日中全面戦争の勃発を招き寄せた功績により、というところであろう。
<海軍 重慶への市街地無差別爆撃>
「海軍は南京渡洋爆撃、そしてこの南海空爆作戦において本格的に南京政府の屈服と中国国民の敗北を目標とした戦略爆撃を決行したのである。これらの事実から、日中全面戦争は、「陸軍が海軍を引きずっていった」のではなく、逆に「海軍が陸軍を引っ張っていった」ことが証明される」
1937年12月蒋介石は、南京を放棄し、重慶を臨時首都とする。これ以後、海軍は、中国主要都市の軍事施設等への爆撃を行い、市街地への無差別爆撃を行う。
南京や重慶にいた報道関係や医療関係の欧米人も犠牲になった。1937年9月国際連盟は、「都市爆撃に対する国際連盟の対日非難決議」を採択している。外交上の抗議を受け、外務省は「爆撃停止」と回答するも、これを不満とし海軍は爆撃を継続している。多くの中国民衆を犠牲にした、この中国各地への空爆が日米戦争への実践訓練そのものであったと著者は言う。
日中戦争開始後の、1937年9月帝国議会は、総額20億円の「臨時軍事費」を容認、その10分の1が、航空戦力の拡充に充てられた。航空機の増産と航空兵力の錬成など、日米戦争を想定した航空戦力の強化は、制空権を確立した中国内で実践されたのである。
1937年8月15日の渡洋爆撃では、護衛航空機なしで行われたため、「空前の戦果」報道にも関わらず、出撃した20機の九七式爆撃機の半数が、対空砲火と迎撃機によって撃墜・使用不能となった。そこで航続距離の長い護衛戦闘機の開発が求められ、それが零戦の開発となった。1940年に零式戦闘機が完成し、零戦が優秀な性能を持ち、戦果を挙げたため、日米戦争での航空決戦も可能との認識を海軍が持つに至ったという。
<自滅のシナリオ それは海軍が作った>
日本の敗色が濃くなり、サイパン基地より、日本本土への爆撃が可能となって以降、米軍は日本国内の軍事施設は言うに及ばず、市街地への焼夷弾投下を行い、市街地への無差別爆撃により、民間人・女性・子どもも含めて大量殺戮をおこなった。原爆投下後も、無差別爆撃は続いた。
アサート329号に吉村先生の寄稿「空襲の反省のために」があるが、まさに「戦意を喪失させる」ために、東京大空襲(3/10)や大阪大空襲(3/13)などの市街地・民間人への攻撃となっていった。
米軍が、日本の市街地への無差別爆撃を実施したのは、明らかな国際法違反であり、広島・長崎への原爆投下こそ、その最たるものであろう。しかし、無差別爆撃を中国において行ったのは、海軍であった。
「日本の侵略戦争により犠牲にされたアジア太平洋地域の民衆の死者は中国人もふくめおよそ2000万人といわれるほど、膨大なものとなった。また、日本国民も大きな被害をこうむり、その犠牲者は、軍人・軍属230万人、民間人を合わせて計役310万人が死亡したと言われる」
しかし、東京裁判では海軍の司令長官以上には死刑判決は出なかった。敗戦時の嶋田海軍大臣もA級戦犯となったが、死刑になっていない。米軍(連合軍)と、旧海軍は、すべての責任を陸軍の暴走として処理し、共に行った市街地無差別爆撃を不問にしたと言わざるを得ない。
本書は、膨大な手記や海軍の記録、日本海軍航空史からの引用などを通じ、読み物としても面白いが、コンセプトがはっきりしている。海軍の行動から「日中戦争」「アジア太平洋戦争」を分析するという手法も、興味深い。(2015-08-17佐野秀夫)
【出典】 アサート No.453 2015年8月29日