【投稿】「東京五輪」〝成功決議〟と大政翼賛化
<<危険な曲り角>>
いよいよ日本は重大な転換期、危険な曲り角に差しかかっている、あるいは既に危険な道を歩み始めているのではないだろうか。
10/15、衆参両院は本会議で、2020年東京五輪とパラリンピックの成功に向けた努力を政府に求める同一の決議をそれぞれ採択した。決議は、五輪開催を「スポーツ振興や国際平和への寄与にとって意義深い」と位置付け「元気な日本へ変革する大きなチャンスとして国民に夢と希望を与える」と強調するもので、衆院は全会一致、参院は「新党 今はひとり」の 山本太郎氏が反対したのみであった。722人の全国会議員中、民主はもちろん、社民、共産も全員賛成、山本太郎氏ただ一人の反対のみ、99.9%の大政翼賛である。今年6月の東京都議会議員選挙で、共産党の全候補者が「オリンピック招致」に「反対」を明確にしていたにもかかわらず、この事態である。超党派のオリンピック議連・馳事務局長は「国会での五輪に関する決議は共産党も賛成してくれて、みんなで取り組もうとする気持ちが見えた。」と共産を褒め称え、オリンピック担当大臣の下村文科相は「オールジャパンで推進することが重要だ。成功に向け最善の努力を図る」と決意を表明。ここにすでに「オールジャパン」=「大政翼賛」の翼賛政治体制への第一歩が踏み出されたというのは言い過ぎであろうか。
そもそもこの東京五輪招致は、嘘で掠めとったものである。高濃度の放射能汚染水を太平洋に平然と垂れ流しながら、地球規模の全人類的犯罪を止める術さえ立てられず、事故収束の展望さえ見えない、収拾不能の原発事故を、「状況はコントロールされています。東京には、いかなる悪影響にしろ、これまで及ぼしたことはなく、今後とも、及ぼすことはありません」とそれこそ真っ赤な大嘘をついて、東京に持ち込んだ意図は、まさにこの翼賛政治体制を構築する道具立てとしてオリンピック招致を利用することにあったとも言えよう。
「オリンピックどころではない」「オリンピックより原発事故に全力を注ぐべきだ」「6000億円を五輪準備に用意する金があったら、原発事故被災者に使うのが筋」という声は福島に限らず、全国に満ち溢れている。いつさらに危険な放射能汚染の拡大が生じてもおかしくない、全世界が注視し、憂慮している福島の事態は、危機的状況を収拾するめどさえ立てられない。最悪の場合、「東京五輪返上」の事態さえ誰もが現実的に予測しうるものである。しかし、そんなことにお構いなしに、こと政治の世界は、一人を除く全政党、全議員が、放射能による「おもてなし」を容認する、「嘘と隠蔽と利権の五輪」を利用する、欺瞞に満ちた翼賛政治に賛同する道へと突き進んでいるかのようである。
歴史の大転換が、こんなことは大したことじゃない、オリンピックじゃないか、当然賛成すべきだよ、といった、例外と異議申し立てを許さない、ファシズム的な大転換がいかにも当然であるかのように、それと気づかないうちに、それこそあの麻生氏の「ナチスの手口に学べ」手法で進んでいると言えよう。
<<「『意志の力』さえあれば」>>
このナチスの手法は、安倍首相の10/15の衆参両院の本会議での所信表明演説でも、実にそれとわかる形で明瞭に示された。
「この道しかない」で始まった安倍首相の所信表明演説、「この道を、迷わずに進むしかない」「ともにこの道を進んでいこうではありませんか」―冒頭で3回も「この道」を繰り返したあげく、結びの段階で、「意志さえあれば必ずや道はひらける」「日本が直面している数々の課題も『意志の力』さえあれば乗り越えることができる」「要は、その『意志』があるか、ないか。『強い日本』、それを創るのは、他の誰でもありません。私たち自身です。皆さん、共に、進んで行こうではありませんか」と、「意志の力」に4度も言及し、その重要性を訴えたのである。
安倍流「強い日本」をめざす、規制緩和オンパレードの弱肉強食の新自由主義・市場原理主義路線、アベノミクスによるマネーゲーム・投機経済路線、増税と社会保障切り捨てと格差拡大の大衆窮乏化路線、危険で無責任な原発再稼働と原発輸出拡大路線、「積極的平和主義」なる軍事的緊張激化路線、首相がこだわる憲法改悪、特定秘密保護法、国家安全保障基本法、こうした“富国強兵”政策の拠り所が、「意志の力」なのである。実は、「この道」以外の道を国民に示すことができない安倍政権の行き詰まりと無能こそが、すべてを空元気の精神主義的な「意志の力」に頼る、「要は、その『意志』があるか、ないか」に賭けられている。かつての日本の軍国主義・ファシズム路線が、いよいよどん詰まりに追い込まれてもなお特攻隊と竹槍で本土決戦を企んだ精神主義、「神風」に頼るあの「意志の力」路線である。
この「意志の力」路線こそ、日本とドイツのファシズム・軍国主義の無謀な侵略戦争の原動力であったことは、全世界周知の事実でありながら、安倍内閣は全世界に挑戦するかのようにこれを再び持ち出してきたのである。
1923年、ミュンヘン一揆で捕まったヒトラーは獄中で「意志の力は知識よりも偉大である」と悟り、ヒトラーがナチス党政権を樹立した1933年、リーフェンシュタール監督に作らせた映画『信念の勝利』、そして1935年公開の長編映画『意志の勝利』、1938年の『オリンピア』(『民族の祭典』『美の祭典』の2部作のベルリンオリンピック記録映画)で”国威発揚”を煽り、1942年6月 – 1943年2月のスターリングラード攻防戦でソ連軍の大反攻と逆包囲に追い込まれた時のヒトラーの演説「意志の力だ。意志の力を奮い起こせば、不可能はない。諸君一人一人が力を尽くせば、我々は全能の神の御名のもと、再び勝利できるだろう」と語ったあの「意志の力」路線である。「意志の力」といい、オリンピックの利用といい、「意志の勝利」を目指す安倍首相の演説と、不気味なほどに見事に重なってしまっている。おそらく安倍首相はこうした歴史的事実は知らないし、知ろうともしないでのあろうが、期せずして一致してしまったのである。
<<新しいファシズム>>
今年の8/31に作家の辺見庸氏が、「私のほうからやらせてくださいとお願いして」開かれた講演会「死刑と新しいファシズム 戦後最大の危機に抗して」で冒頭次のように語っている。
「最近、ときどき、鳥肌が立つようなことはないでしょうか? 総毛立つということがないでしょうか。いま、歴史がガラガラと音をたてて崩れていると感じることはないでしょうか。一刻一刻が、「歴史的な瞬間」だと感じる かつてはありえなかった、ありえようもなかったことが、いま、普通の風景として、われわれの眼前に立ち上がってきている。何気なく歴史が、流砂のように移りかわり転換してゆく。「よく注意しなさい! これは歴史的瞬間ですよ」と叫ぶ人間がどこにもいないか、いてもごくごく少ない。3.11は、私がそのときに予感したとおり、深刻に、痛烈に反省されはしなかった。人の世のありようを根本から考え直してみるきっかけにはなりえていない。政治は、予想どおり、はげしく反動化しています。2013年のいま、歴史の大転換が、まったく大転換ではないかのように、当然のように進んでいます。歴史は目下、修正どころか安倍内閣により「転覆」されています。しかもこの内閣が世論の高い支持率をえてますます夜郎自大になっている。たとえば「君が代」をうたっているかどうか、口パクだけじゃないかどうかということを、わざわざ教育委員会とか、あるいは極右の新聞記者が監視しにきてそれをメモっていく。わざわざ学校や教育委員会に電話をかけて告げ口したり記事化したりする。極右というのも、非常に懐かしいことばですけれども、しかしいまや日常の風景になってしまっている。気流の変化に気がつかないと危ない 例外がない。孤立者がいない。孤立者も例外者もいないってなんでしょうか? ファシズムであり、不自由な状態なのです。」
辺見庸氏のこの警告は実に正鵠を射ているといえよう。「気流の変化に気がつかないと危ない」事態の進展である。私たち一人一人があらためて問われている「気流の変化」である。
(生駒 敬)
【出典】 アサート No.431 2013年10月26日